鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

今日は2時に美容院の予約をしている。

2007-03-29 11:35:13 | 直言!
春休みで子供連れの親が多いのと今日はオーナーがこの店にくる。
またオーナーのカットがうまい。他の人がカットする。最初、出来上がったときは何も変わらないが頭洗ったりするとどこか違う。オーナーがカットしたのはちゃんと頭を洗ってもおさまっている。どこか違うのだろうか。近年また口コミでオーナーがこの店にいるときは予約が多い。何店かをもっているので私が行くところは木曜と日曜である。日曜日は出ぬくいので木曜日にたいてい予約をしている。
そんなことで2時の予約になった。

昨日は堺から帰ってくると疲れた。
しかしいいこともあった。
私の家とつながっている分家の中でも長男の家の子息に仕事現場であった。私より代が1代下ということもあって私は気さくに話すことができた。
この子息の親も何度も仕事現場であった。私と代が同じそしてまだ私の父親が生存していたので父親から言われていた。絶対に身分を明かさないようにということだった。
本家は普通の会社員をして普通の生活をしてきたが分家は先人が先見の目があって投資したものがお金を生むことになり財がまた財をなしていった。そして本家と分家と経済の格差が大きくなったので祖父が亡くなるとき私の父親には分家には行かないようにということだった。祖父が亡くなったのは1960年の9月、それから40数年行き来することがなかった。母親はその間何度か訪問しているが母親も行き来しなくなって20年数年ぐらいになった。先代が亡くなっていくと行き来が途切れていった。
昨日は分家の長男、分家では本家である。その子息に会った。
そして私が親から聞いた我が家の渡日史そして土地調査法で土地を奪われて家が崩壊して日本にきたこと。創始改名の由来など話した。
彼の親は2世、親からその話しを聞いているだろう。たぶん教えているとは思っているが我が家の渡日史は語れるのはもう私しかいなくなっている。もちろん父の弟、叔父はまだ生存しているがかなり高齢になっているのでどこまで記憶しているのだろうか。私がまだ記憶にある間は語らないといけないと判断して語った。次の世代、子どもたちにぜひ伝えてもらいたから----。
そして彼が言った言葉が印象に残っている。
子どもの頃、父親に連れられて韓国に行った。
故郷の晋州に行き晋州城を訪問して自分の家、宗家が復元された家の前きた。
そしたら父親は「この家は私が作ったものだ」ということで子どもだった彼に丁寧に見せて紹介したという。
ルーツを思いやる時にこの家のことを思うという。
もうあの宗家は復元されて幾年も経っている。私は建ってから大分の年月してからの訪問だったが在日韓国人の新聞社の記者がみつけた。たぶんこのことを知っていたのだろう。
彼の父親はこのことを伝えたったのだろうか。
彼の親が生きている時あるところでお会いした。私の対面に私の存在を名のるように仕向けてくれていた人がいた。しかし父親がまだ生きていたので父親の顔が浮かび自分を名のならなかった。
そしてそれからまもなく宗家を建築寄与したその人は逝去した。
逝去で寄せられた香典等など多額な金額が民団大阪本部に寄附された。
そのとき寄附金を贈呈したのが長男のこの彼だった。
私が自分の存在を初めて名のったが様子がわからなくてきょとんしておられた。
そして何回か仕事で会う中で話す会話が多くなってきた。
祖父の代で「従兄弟になる」と関係を話すとびっくりしていた。
91歳で亡くなった叔母はチャグナブジ(小さい叔父さん)の家に晋州側を渡ってよく行った話しを私にしてくれた。
この話しもした。
ようやく私の存在を理解してもらえればありがたい。
私は彼に言った。
「この出会いは先人、祖父母が作ってもらったものですよ」と言いながら心の中で親の代では祖父たちは従兄弟で仲が良くなかったが年月を重ねるとそういう大人のわだかまりを捨てて今度は歴史の生き証人として後世に何を伝えていくのかが大事であると考えているだろうと思った。
私が本家の第1子であるが女子だった。男子が生まれたのは13年後のことである。そして私の従姉妹たちは男子が少なくほとんど女子ばかりでみんな嫁に行って外にでた。男子は本当に少ない家だった。こんなことも本家と分家の隔たりもできて言ったのだろう。
16歳で渡日した叔母は1昨年亡くなった。日本植民地時代の歴史が1つ終わっていった。さその叔母が実家のことが気になったように私はまた第1子として生まれたことから我が家の渡日史を後世に伝えていかなければならないと思っている。
また長いこと私の家、本家が男子誕生しなかったので分家に本家の位置を交代していったのだろうか。私の子どもの頃は祖父は行き来していたがまだ゜私の家には男子がうまれなくて祖父の策略があれこれとされていたころに何かあったのだろうか。
その子息も2世から3世そして4世に移り変わろうとしている。
が日本植民地時代に日本につぶされた子息はこうして連綿と命をつないでいる。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 昨日は南海線、堺東の駅を5時... | トップ | 仕事がどんどん入ってきている。 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

直言!」カテゴリの最新記事