朝からペングループの冊子の原稿を仕上げ韓国の知人にも手紙を書いて送るものを封筒に入れた。昼食をして少し昼寝、1時半過ぎに起きて今度は12月の取材活動費の明細書をパソコンで作成した。
日が少し長くなったのか鳩やヒナたちがまだ外を飛んでいた。
ヒナのチビも向かいのマンションにとまっていたが私のマンションの屋上に飛んでいった。
そして向かいのマンションにヒナがいるのか留守宅と知っているのかベランダの中に何羽も入っていく。そして冷房機器の裏側にも入っていった。
寒いので鳩も苦労しているのかな。
さあ夕食の支度をしないといけない。
今日から少しは手を入れて何かを作らないといけない。
私は昨日の豚キムチ炒め、何口かつまんだだけなのにお腹を壊したのかトイレにばかり行っている。少しぐらいと思ったがやはり私の体質に合わなくなっている。
インターネットで韓国の新聞を検索する朝鮮日報ではソウルの大雪の写真を載せてソウルの町の雪の様子を紹介していた。41年ぶりという。41年前というと1968年、日本は大阪万博が1969年、その1年前で大阪万博で盛り上がっていた。私はこの年の2月に長男を産んでいる。
とりあえず子育てをしていた。そんな頃のことである。
韓国は動乱の影響でまだまだ経済構築に苦労しているときだった。
1965年の日韓国交正常化で当時の朴正煕大統領の高速道路を作って車の波及は物資をソウル間釜山を運ぶ。ここで経済発展の下地を作っていった。
その前の1960年4月19日、当時の大学生や高校生たちで当時の李承晩大統領を打倒した。市民たちが立ち上がって当時の政権を倒した。
ここから韓国では民主主義の民主化運動が展開していった。これは市民が起した民主化運動である。こんな話しが今朝の朝鮮日報の記事に掲載されていた。
そして北朝鮮と違うところはここだと指摘していた。
高校生や大学生などの市民が立ちあがっての民主化運動がここから始まったとされている。北朝鮮は指導者の確固たる包囲でけっして声をあげて運動が出来なかったとしている。民主化運動は後に韓国に経済発展の構築をしていったとしている。なるほどそうだなと興味深く記事を読んだ。
そういえば1960年当時、大学生だった人が後に駐大阪大韓民国総領事館に領事として赴任してこられた。少し気心が打ち解けてくると1960年の4・19運動に参加した当時の話しを全部ではないが概要を話して下さった。
そこに居合わせた領事や韓国政府の派遣教師らは「私もその運動に参加していたのです」と話される。皆、紳士の成りをしていて激しい気性がないと思っていたが大学時代はこぶしを振って韓国の民主化を叫んでおられたのかとびっくりしていた。
その人たちは今、もう70歳を越えて余生を静かに暮らしておられる。
動乱の時は皆、小学生だったという。戦火の中を釜山まで歩いて歩いて避難した話もして下さった。それからの韓国を彼らの世代が汗水たらして解放された韓国の建国に邁進してこられた。皆さんの汗の結晶で今、繁栄している韓国である。日本も同じ、今、80歳前後の人たちが焼け跡からここまで発展させてきた。それは寝ずに働いて働いてきた汗の結晶である。
中国は今、日本を追い抜かすほど経済発展を遂げている。
社会主義だったがトゥショウヘイの改革解放政策でここまで中国は発展してきた。資本主義を導入しないと経済構築はできない。
マルクス・レーニンを語っていても経済発展ができないと悟ったのだろうか。それぞれに考えたがあるだろう。資本主義も今や世界不況の波にのみ込まれている。何かが足りなかったのだろう。回復するには汗と智恵を絞らないといけないだろう。
しかし「社会主義では経済構築は無理だろう」と思う。なぜかこんな時にいつも父親の言葉を思い出す、父親は生前「社会主義では飯が食えない」と。この言葉を言っていたの父親、何か思うことがあったのだろうか。
もっと父親に詳しく聞いておけばよかったと思っている。
さて夕食に支度です。
日が少し長くなったのか鳩やヒナたちがまだ外を飛んでいた。
ヒナのチビも向かいのマンションにとまっていたが私のマンションの屋上に飛んでいった。
そして向かいのマンションにヒナがいるのか留守宅と知っているのかベランダの中に何羽も入っていく。そして冷房機器の裏側にも入っていった。
寒いので鳩も苦労しているのかな。
さあ夕食の支度をしないといけない。
今日から少しは手を入れて何かを作らないといけない。
私は昨日の豚キムチ炒め、何口かつまんだだけなのにお腹を壊したのかトイレにばかり行っている。少しぐらいと思ったがやはり私の体質に合わなくなっている。
インターネットで韓国の新聞を検索する朝鮮日報ではソウルの大雪の写真を載せてソウルの町の雪の様子を紹介していた。41年ぶりという。41年前というと1968年、日本は大阪万博が1969年、その1年前で大阪万博で盛り上がっていた。私はこの年の2月に長男を産んでいる。
とりあえず子育てをしていた。そんな頃のことである。
韓国は動乱の影響でまだまだ経済構築に苦労しているときだった。
1965年の日韓国交正常化で当時の朴正煕大統領の高速道路を作って車の波及は物資をソウル間釜山を運ぶ。ここで経済発展の下地を作っていった。
その前の1960年4月19日、当時の大学生や高校生たちで当時の李承晩大統領を打倒した。市民たちが立ち上がって当時の政権を倒した。
ここから韓国では民主主義の民主化運動が展開していった。これは市民が起した民主化運動である。こんな話しが今朝の朝鮮日報の記事に掲載されていた。
そして北朝鮮と違うところはここだと指摘していた。
高校生や大学生などの市民が立ちあがっての民主化運動がここから始まったとされている。北朝鮮は指導者の確固たる包囲でけっして声をあげて運動が出来なかったとしている。民主化運動は後に韓国に経済発展の構築をしていったとしている。なるほどそうだなと興味深く記事を読んだ。
そういえば1960年当時、大学生だった人が後に駐大阪大韓民国総領事館に領事として赴任してこられた。少し気心が打ち解けてくると1960年の4・19運動に参加した当時の話しを全部ではないが概要を話して下さった。
そこに居合わせた領事や韓国政府の派遣教師らは「私もその運動に参加していたのです」と話される。皆、紳士の成りをしていて激しい気性がないと思っていたが大学時代はこぶしを振って韓国の民主化を叫んでおられたのかとびっくりしていた。
その人たちは今、もう70歳を越えて余生を静かに暮らしておられる。
動乱の時は皆、小学生だったという。戦火の中を釜山まで歩いて歩いて避難した話もして下さった。それからの韓国を彼らの世代が汗水たらして解放された韓国の建国に邁進してこられた。皆さんの汗の結晶で今、繁栄している韓国である。日本も同じ、今、80歳前後の人たちが焼け跡からここまで発展させてきた。それは寝ずに働いて働いてきた汗の結晶である。
中国は今、日本を追い抜かすほど経済発展を遂げている。
社会主義だったがトゥショウヘイの改革解放政策でここまで中国は発展してきた。資本主義を導入しないと経済構築はできない。
マルクス・レーニンを語っていても経済発展ができないと悟ったのだろうか。それぞれに考えたがあるだろう。資本主義も今や世界不況の波にのみ込まれている。何かが足りなかったのだろう。回復するには汗と智恵を絞らないといけないだろう。
しかし「社会主義では経済構築は無理だろう」と思う。なぜかこんな時にいつも父親の言葉を思い出す、父親は生前「社会主義では飯が食えない」と。この言葉を言っていたの父親、何か思うことがあったのだろうか。
もっと父親に詳しく聞いておけばよかったと思っている。
さて夕食に支度です。
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