北風がうなるように吹いていた。寒い。
北風に思わず歌が出てくる。
―北風吹きにく寒い朝も 心一つで温かくなる―
私はまたお腹を壊してトイレに入っていると寒い。
思わず昔、吉永小百合が歌って流行った「寒い朝」の歌が出てくる。
この歌が流行っている時はまだ家に冷暖房という電化製品がなかった。
あったとすれば一般家庭に出始めた電気ごたつだけだった。
後は火鉢だった。学校の教室もだるまストーブ、石炭ストーブを教室を温めていた。
ストーブの当番は朝、学校に行って石炭置き場に行って石炭をバケツに入れて持ってきた。そして教室で木を焚きつけながら石炭を入れてストーブに火を入れた。
ストーブの横は網の囲いがあったので皆ここに弁当をぶら下げた。
温まってくるとどこからか何かのおかずの匂いがしていた。
今だったらこんなことも社会問題になるだろう。
何もなかった当時の社会、先生たちは弁当をストーブの上に置くと危ないといっていても冷たいご飯よりも温かいご飯のほうがいいと思って匂いのことより温かいご飯のほうがよかった。「ご飯が冷たい」という言葉に教師は黙認していた。
そんな時代に高校時代を過ごした。
ストーブの前で集まりながらいろいろと話をした。
私はそんなに話さない生徒だった。ほかにそんなに話さない人がいてひたすら小さな折鶴を折っている人がいた。立ちながらでも折れる折り方を彼女に私も教えてもらった。このとき覚えたのが今、私が折っている鶴の折り方である。
彼女は当時、高校内でも美人で通っていた。
若い教師も憧れるほどの美人だった。若尾文子なみか、佐久間良子なみかといわれるほど美人だった。彼女は今、京都府相楽郡南山城村のあるところで住んでいるがここから通っていた3人の女性が高校でも美人で通っていた。
ある古典の時間。古典の教師が言った。
「同じ木津川の産湯を使っても上流の大河原の産湯に使った人には美人が多い。木津のように下流で使った人は美人ができない」と言った。
今ならこんな発言をした教師はすぐに職員会議にかけられるほどの問題になり「セクハラ」教師になるだろう。
当時は教室の生徒はそんなこともあるのかと黙って聞いていたが授業が終って教師がいなくなると2・3人の生徒は「あれは酷いは」と文句を言っている人もいた。当時は美人でも見えないところで隠れた嫉妬もあっていじめていたともいうが私は鈍感で気がつかなかった。
彼女は年を大分重ねてからそんなことを私に話してくれるようになった。
彼女は大人、いじめた人の名前はけっして言わないが----。
年を重ねても彼女は美人だった。
今、南山城村の田舎でどんな風に暮らしているだろうか。
1人の息子さんは木津町に住んでいるというので時々は出てきているとは思っているが-----。また会いたいものである。
折鶴の話しから彼女のことを思い出した。
何もなかった1960年代の初めに高校時代を過ごした。青春そのものの時代だった。ふりかえると懐かしい。
今日は初仕事、駐大阪大韓民国総領事館での関西地区で活動する人たちの新年会。韓国語で「セーヘ ポンマニイ バドセヨ(新しい年にたくさんの福を頂いて下さい)」という言葉が飛び交う。領事たちは韓国語が母国語なので丁寧に挨拶をされる。「セーヘ ポンマニイ バドシブシヨ」、「バドシプシヨ」は丁寧語ですが在日韓国人はよほど練習しないとこの発音がすんなり出てこない。
日本語の50音という発音で育っているのでこうした言葉がすんなりできない。
こんなとき日本語で育った在日韓国人だと痛切に思ってしまう。
総領事館のある階の1室は大勢の人であふれかえる。
ここが最初の新年祝賀会、そしてこれから関西は大阪、兵庫、京都などと新年祝賀会が開かれていく。以前はこんな会場に勇んで出かけていったが今は大阪に顔を出して時と場合によっては京都と奈良に顔を出したりしている。
外は寒そうだ。
昨日、夕方、鳩はねぐらに入るまで向かいのマンションに3時前後あたりから飛んではとまって日向ぼっこしていた。そこに鳩のヒナ、チビがいた。
じっと私の家のあるほうを見ている。思わず写真に1枚取った。
こんなに成長して飛んでいる。成長が4・5日遅れてなかなか飛ぶことができなかったのに今は飛んでいる。
今朝も私が7時半ごろベランダを開けるとチビが電線にとまって姿を見せてくれた。寒風の中も飛んで生きている。たくましい鳩に育っている。
写真は1月4日午後3時前後に撮影。左側で前に向いているのがチビです。
北風に思わず歌が出てくる。
―北風吹きにく寒い朝も 心一つで温かくなる―
私はまたお腹を壊してトイレに入っていると寒い。
思わず昔、吉永小百合が歌って流行った「寒い朝」の歌が出てくる。
この歌が流行っている時はまだ家に冷暖房という電化製品がなかった。
あったとすれば一般家庭に出始めた電気ごたつだけだった。
後は火鉢だった。学校の教室もだるまストーブ、石炭ストーブを教室を温めていた。
ストーブの当番は朝、学校に行って石炭置き場に行って石炭をバケツに入れて持ってきた。そして教室で木を焚きつけながら石炭を入れてストーブに火を入れた。
ストーブの横は網の囲いがあったので皆ここに弁当をぶら下げた。
温まってくるとどこからか何かのおかずの匂いがしていた。
今だったらこんなことも社会問題になるだろう。
何もなかった当時の社会、先生たちは弁当をストーブの上に置くと危ないといっていても冷たいご飯よりも温かいご飯のほうがいいと思って匂いのことより温かいご飯のほうがよかった。「ご飯が冷たい」という言葉に教師は黙認していた。
そんな時代に高校時代を過ごした。
ストーブの前で集まりながらいろいろと話をした。
私はそんなに話さない生徒だった。ほかにそんなに話さない人がいてひたすら小さな折鶴を折っている人がいた。立ちながらでも折れる折り方を彼女に私も教えてもらった。このとき覚えたのが今、私が折っている鶴の折り方である。
彼女は当時、高校内でも美人で通っていた。
若い教師も憧れるほどの美人だった。若尾文子なみか、佐久間良子なみかといわれるほど美人だった。彼女は今、京都府相楽郡南山城村のあるところで住んでいるがここから通っていた3人の女性が高校でも美人で通っていた。
ある古典の時間。古典の教師が言った。
「同じ木津川の産湯を使っても上流の大河原の産湯に使った人には美人が多い。木津のように下流で使った人は美人ができない」と言った。
今ならこんな発言をした教師はすぐに職員会議にかけられるほどの問題になり「セクハラ」教師になるだろう。
当時は教室の生徒はそんなこともあるのかと黙って聞いていたが授業が終って教師がいなくなると2・3人の生徒は「あれは酷いは」と文句を言っている人もいた。当時は美人でも見えないところで隠れた嫉妬もあっていじめていたともいうが私は鈍感で気がつかなかった。
彼女は年を大分重ねてからそんなことを私に話してくれるようになった。
彼女は大人、いじめた人の名前はけっして言わないが----。
年を重ねても彼女は美人だった。
今、南山城村の田舎でどんな風に暮らしているだろうか。
1人の息子さんは木津町に住んでいるというので時々は出てきているとは思っているが-----。また会いたいものである。
折鶴の話しから彼女のことを思い出した。
何もなかった1960年代の初めに高校時代を過ごした。青春そのものの時代だった。ふりかえると懐かしい。
今日は初仕事、駐大阪大韓民国総領事館での関西地区で活動する人たちの新年会。韓国語で「セーヘ ポンマニイ バドセヨ(新しい年にたくさんの福を頂いて下さい)」という言葉が飛び交う。領事たちは韓国語が母国語なので丁寧に挨拶をされる。「セーヘ ポンマニイ バドシブシヨ」、「バドシプシヨ」は丁寧語ですが在日韓国人はよほど練習しないとこの発音がすんなり出てこない。
日本語の50音という発音で育っているのでこうした言葉がすんなりできない。
こんなとき日本語で育った在日韓国人だと痛切に思ってしまう。
総領事館のある階の1室は大勢の人であふれかえる。
ここが最初の新年祝賀会、そしてこれから関西は大阪、兵庫、京都などと新年祝賀会が開かれていく。以前はこんな会場に勇んで出かけていったが今は大阪に顔を出して時と場合によっては京都と奈良に顔を出したりしている。
外は寒そうだ。
昨日、夕方、鳩はねぐらに入るまで向かいのマンションに3時前後あたりから飛んではとまって日向ぼっこしていた。そこに鳩のヒナ、チビがいた。
じっと私の家のあるほうを見ている。思わず写真に1枚取った。
こんなに成長して飛んでいる。成長が4・5日遅れてなかなか飛ぶことができなかったのに今は飛んでいる。
今朝も私が7時半ごろベランダを開けるとチビが電線にとまって姿を見せてくれた。寒風の中も飛んで生きている。たくましい鳩に育っている。
写真は1月4日午後3時前後に撮影。左側で前に向いているのがチビです。
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