一般女性の近年、季節の変わり目に入るとこれまでと違ったファッションに美しく新鮮で胸をときめく男性が多いと思う。
前の季節の変わり目に新調した服、ようやくその季節が巡ってきて着ることができる。待ちに待った季節がきた。新調した服を人より先に着込んで歩いている女性がこの季節に目立つようになる。コートの目立つのもそのへんの事情もある。
長年年を重ねてきた者はその服がおろし立てと分かる。
なぜか。だれよりも先に季節の先取りをしたいから。
ある程度加齢のものは昔の季節の変わり目、親がしはたことを思い出してそれに近いようにしているが若い女性たちはもうそのへん、無頓着である。無頓着が個性と思っている。
そんな私もシーズンの終わりにバーゲンで買った服を大事にしまっておいて季節が始まると着たい気分になるから新調の服で電車に乗ってこられる人の気持ちがわかる。
すごいブランドの服をきているご婦人に会うこともある。
その人を見ながらその人の成りを見ながらこの服は夫の稼ぎで買っているのか。自分で買ったものか分かる。ある程度の年齢になるとその人の成りが見えてくる。
しかし若い人の服、社会人は自分で働いているのでそれなりの身づくろいをしているが大学生のファッションはフリーマーケットで仕入れた服の重ね着が多く見かける。これまでこの2・3年の間に古着の重ね着でこの子はセンスがあると思った学生は1人だけ。後はなんか汚らしいそしてちぐはぐでやたらと首にじゃらじゃらかけすぎ。胸もあきすぎである。古着は古着である。長年年を重ねてきたものはあの服はいつごろにやった服というのはすぐ分かる。だから古着と分かる。古着が悪いとはいえないが古着を着るとなんでみんなあんなに小汚くみえるのだろうか。
私の10代にフリルのたくさんついたブラウスが流行った。私もよく来た。だから今はそんなデザインの服はきたくもない。
またデザイナーはいろいろ工夫をしているのも分かる。
スカートの裾に違う布を足して今風のデザインにしている。私たちの若い頃だったらぜったいに考えられないデザインである。
ようするに人と違う物を着たい。同じデザインは着たくないというブランドメーカーが考え出したのだろう。それともミニスカートに布を足してデザインのしなおしをしたのか。洋裁を習ったものはあれほど簡単にできるリフオームはないと思っている。
年輩の人は2枚の服をうまくリホームして着ている人も見かける。この人は洋裁ができる人なんだと思って見ている。リホーム屋さんに出してしない。新しい服が買えるほど高い直し代になるから。
着物のリホームの服も時には見るがこれはデザインの感性が要求される、1つ間違うとリホームしても洋服騙しの着物になっている。
しかし日常の生活で電車の中で高級なブランド服の女性を見ると場違いに人のは目を引いてしまうこともある。みんな似たり寄ったりの普通の服、自分好みの服を着ている。これでその人の顔にあっているのだから服はその人の体裁かもしれない。
私は若いときワンピースも着た。スカートも履いていた。色鮮やかな服もよくきていた。
雑誌記者時代はまだ日々追われることはなかったので鞄に仕事道具を入れて仕事をすることができた。しかし在日韓国人経営の日刊紙、そして民団新聞という団体組織の機関紙の記者をするようになって仕事の現場を走り回るので私の服が変わった。
私の仕事は写真もとれば取材のメモもする。名刺交換もする。
それで仕事のし易い服にだんだん自然に考えていくようになった。
どんな場所の現場でも失礼のない服は自然にジャケットスタイルになった。しかもジャケットのポケットは貼り付けでないといけない。
これがないと仕事ができない。
いつも左のポケットに名刺入れを入れて右のポケットには取材のメモ帳、これも手帳型の大きさ、ジャケットの大きさにはいるものになった。
カメラは肩にかけて現場を歩く。これが私の仕事スタイルになった。
スカートは現場の仕事ではパンツが楽である。
かがんだりする。いろんな格好で写真をとるのでパンツが仕事し易い。
時に買った服はポケットがないと似たような布を探して自分で貼り付けポケットを作って付けることもある。
そして色鮮やかに服をきていた私はいつのまにか地味な色になった。
仕事の現場は様々、誰にもあっても失礼のない色になってしまった。こんなときふと男性社会で働いている錯覚を起こす。けれど自分は女性と思うことにするが求められる仕事の内容は男性そのものである。
だからだんだんかわいくない女性になっていく。
「特急電車の中は夕刊紙を買って新聞読みながら電車にのっている」と女友達に話すと「男社会やな」と言われてしまう。
なるほど。
そんなわけで季節の変わり目は新しいコートを着た女性たちの姿が目立つだろう。買ったばかりの服は光沢がきれい。まぶしい。女性がみんなきれいにみえる。セクシーに見えるだろう。
しかしあと1ヶ月もすれば見慣れたコートやタウンジャケットの女性を見るようになる。
やがて季節は巡り秋の終わりに買った薄手のジャケットやセーターそしてスカートなど、また女性たちは3月の半ば、梅が咲く頃になると着始める。そのときの女性はキラキラしている。オニューの服がまぶしい。
風になびくフレアースカート、まだ季節的に早いと思いながら履いている女性をみると季節の訪れに私まで心が浮き足立ってくる。
時間があれば自分の服は自分で作ってみたい。体にあったものができるから。
しかし型紙をとって布地に型紙を置いてきりびつけをしてそれをまた、きりバサミで切ってはがしていく。丁寧にしつけをしてミシンで縫っていく。
ジャケットになると襟や見ごろに芯をいれなければならないなどなどそしてアイロンがけも丁寧にしないといけないと考えると少々体にフイットしていなくてももういいか。面倒だなと市販のものを買っている。
洋服1枚作る手間を考えるとオーダーの服はやっぱり高いと思う。だからブランドは高いのかと納得する。
しかし私には無関係と思っていつも手ごろな値段の服を着ている。高価なものではないが2シーズン着ればいいのかとまた変なところで納得して来ている。
買うほうが安いのである。ブランド志向から遠ざけると買うほうが安いのである。
そんなことで女性の服は多種多様になった。
何を着てもいいというのが現代のファッションだが下着に近い格好だけはやめてもらいたい。これは男性の心を挑発している。これで痴漢にあわないほうがおかしい。女性にも罪がある。
そしてなんでも流行らせた日本のファッション業界にも責任がある。
日本文化のよさがこうしたところからも置き去りにされてモラルの低下に繋がっていると考えられる。
前の季節の変わり目に新調した服、ようやくその季節が巡ってきて着ることができる。待ちに待った季節がきた。新調した服を人より先に着込んで歩いている女性がこの季節に目立つようになる。コートの目立つのもそのへんの事情もある。
長年年を重ねてきた者はその服がおろし立てと分かる。
なぜか。だれよりも先に季節の先取りをしたいから。
ある程度加齢のものは昔の季節の変わり目、親がしはたことを思い出してそれに近いようにしているが若い女性たちはもうそのへん、無頓着である。無頓着が個性と思っている。
そんな私もシーズンの終わりにバーゲンで買った服を大事にしまっておいて季節が始まると着たい気分になるから新調の服で電車に乗ってこられる人の気持ちがわかる。
すごいブランドの服をきているご婦人に会うこともある。
その人を見ながらその人の成りを見ながらこの服は夫の稼ぎで買っているのか。自分で買ったものか分かる。ある程度の年齢になるとその人の成りが見えてくる。
しかし若い人の服、社会人は自分で働いているのでそれなりの身づくろいをしているが大学生のファッションはフリーマーケットで仕入れた服の重ね着が多く見かける。これまでこの2・3年の間に古着の重ね着でこの子はセンスがあると思った学生は1人だけ。後はなんか汚らしいそしてちぐはぐでやたらと首にじゃらじゃらかけすぎ。胸もあきすぎである。古着は古着である。長年年を重ねてきたものはあの服はいつごろにやった服というのはすぐ分かる。だから古着と分かる。古着が悪いとはいえないが古着を着るとなんでみんなあんなに小汚くみえるのだろうか。
私の10代にフリルのたくさんついたブラウスが流行った。私もよく来た。だから今はそんなデザインの服はきたくもない。
またデザイナーはいろいろ工夫をしているのも分かる。
スカートの裾に違う布を足して今風のデザインにしている。私たちの若い頃だったらぜったいに考えられないデザインである。
ようするに人と違う物を着たい。同じデザインは着たくないというブランドメーカーが考え出したのだろう。それともミニスカートに布を足してデザインのしなおしをしたのか。洋裁を習ったものはあれほど簡単にできるリフオームはないと思っている。
年輩の人は2枚の服をうまくリホームして着ている人も見かける。この人は洋裁ができる人なんだと思って見ている。リホーム屋さんに出してしない。新しい服が買えるほど高い直し代になるから。
着物のリホームの服も時には見るがこれはデザインの感性が要求される、1つ間違うとリホームしても洋服騙しの着物になっている。
しかし日常の生活で電車の中で高級なブランド服の女性を見ると場違いに人のは目を引いてしまうこともある。みんな似たり寄ったりの普通の服、自分好みの服を着ている。これでその人の顔にあっているのだから服はその人の体裁かもしれない。
私は若いときワンピースも着た。スカートも履いていた。色鮮やかな服もよくきていた。
雑誌記者時代はまだ日々追われることはなかったので鞄に仕事道具を入れて仕事をすることができた。しかし在日韓国人経営の日刊紙、そして民団新聞という団体組織の機関紙の記者をするようになって仕事の現場を走り回るので私の服が変わった。
私の仕事は写真もとれば取材のメモもする。名刺交換もする。
それで仕事のし易い服にだんだん自然に考えていくようになった。
どんな場所の現場でも失礼のない服は自然にジャケットスタイルになった。しかもジャケットのポケットは貼り付けでないといけない。
これがないと仕事ができない。
いつも左のポケットに名刺入れを入れて右のポケットには取材のメモ帳、これも手帳型の大きさ、ジャケットの大きさにはいるものになった。
カメラは肩にかけて現場を歩く。これが私の仕事スタイルになった。
スカートは現場の仕事ではパンツが楽である。
かがんだりする。いろんな格好で写真をとるのでパンツが仕事し易い。
時に買った服はポケットがないと似たような布を探して自分で貼り付けポケットを作って付けることもある。
そして色鮮やかに服をきていた私はいつのまにか地味な色になった。
仕事の現場は様々、誰にもあっても失礼のない色になってしまった。こんなときふと男性社会で働いている錯覚を起こす。けれど自分は女性と思うことにするが求められる仕事の内容は男性そのものである。
だからだんだんかわいくない女性になっていく。
「特急電車の中は夕刊紙を買って新聞読みながら電車にのっている」と女友達に話すと「男社会やな」と言われてしまう。
なるほど。
そんなわけで季節の変わり目は新しいコートを着た女性たちの姿が目立つだろう。買ったばかりの服は光沢がきれい。まぶしい。女性がみんなきれいにみえる。セクシーに見えるだろう。
しかしあと1ヶ月もすれば見慣れたコートやタウンジャケットの女性を見るようになる。
やがて季節は巡り秋の終わりに買った薄手のジャケットやセーターそしてスカートなど、また女性たちは3月の半ば、梅が咲く頃になると着始める。そのときの女性はキラキラしている。オニューの服がまぶしい。
風になびくフレアースカート、まだ季節的に早いと思いながら履いている女性をみると季節の訪れに私まで心が浮き足立ってくる。
時間があれば自分の服は自分で作ってみたい。体にあったものができるから。
しかし型紙をとって布地に型紙を置いてきりびつけをしてそれをまた、きりバサミで切ってはがしていく。丁寧にしつけをしてミシンで縫っていく。
ジャケットになると襟や見ごろに芯をいれなければならないなどなどそしてアイロンがけも丁寧にしないといけないと考えると少々体にフイットしていなくてももういいか。面倒だなと市販のものを買っている。
洋服1枚作る手間を考えるとオーダーの服はやっぱり高いと思う。だからブランドは高いのかと納得する。
しかし私には無関係と思っていつも手ごろな値段の服を着ている。高価なものではないが2シーズン着ればいいのかとまた変なところで納得して来ている。
買うほうが安いのである。ブランド志向から遠ざけると買うほうが安いのである。
そんなことで女性の服は多種多様になった。
何を着てもいいというのが現代のファッションだが下着に近い格好だけはやめてもらいたい。これは男性の心を挑発している。これで痴漢にあわないほうがおかしい。女性にも罪がある。
そしてなんでも流行らせた日本のファッション業界にも責任がある。
日本文化のよさがこうしたところからも置き去りにされてモラルの低下に繋がっていると考えられる。
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