昨日に仕事の原稿は片付けたので今日はゆっくりと過ごしている。
いつものように朝食を食べて私は9時過ぎにパソコンの前に座った。
月曜日連載の原稿も昨日、深夜近くまで作った原稿を見直していた。
まだもう1度見直さないといけない。
季節は春に近づいてきた。
そろそろ冬物はクリーニングに出す物、家で洗う物に仕分けして春から夏物を出していかなければならない。
毎年こんな繰り返しをして季節は過ぎていく。
来週は空きそうだと思って友人に連絡して昼ランチの日程を取ろうと思うがまた25日、28日と仕事が入った。24日は仕事が入って予約変更を2回もした病院に行かなければならない。
昨日は遅くまでテレビを見すぎた。
「ツタンカーメンの謎」を見ていると面白くてつい見てしまった。
その後何気なしにテレビのチャンネルをまわすとBS2では「昭和35年=1960年」のカレンダーをしていた。
私が高校に入学した年である。
テレビのチャンネルをまわした時に「安保騒動」の学生たちの様子が詳細に放映されていた。当時の岸信介首相の安保と学生の様子が詳しく話されていた。
私は京都府相楽郡木津町という田舎に住んでいた。
東京の安保騒動は他人事のように思って新聞ニュースを見ていた。
この話について父親は決して子どもに話さなかった。まだ高校生で多感な年齢に話さなかったのだろう。
岸信介首相が失脚して池田勇人首相になり「貧乏人は麦飯を食え」「所得倍増」に関しては子どもの前でも話していたが当時は政治に興味のなかった私は「また父親の話が長くなる」と思って聞いていた。
しかし1960年に懐かしい映像もたくさん出てきた。
歌では橋幸夫の「潮来笠」の大ヒットの話もした。
高校1年の秋に我が家にもテレビが入ってきた。
このとき橋幸夫の歌がテレビでよく流れていた。
フアンになった。
なつかしく見ていた。若かった橋幸夫も私より1歳年上、ゴルフをよくしておられるのかゴルフヤ焼けの顔になっていた。
潮来花嫁さん、森山加代子の「月影のナポリ」、私はこの歌はまったく知らなかった。クラスでおしゃまに人はよく歌っていた。
私の知っている森山加代子の歌は「ジンジロゲヤジンジロゲ----」とか「お山で育った山猿は----」しかしらない。
この時流行した歌が「誰よりも君を愛す」。このときはなんと辛気臭い歌と思っていた。大人になって詩の言葉に恋をしている人たちにぐっとくる歌とやっとわかった。道理でヒットしたということもわかった。
「安保闘争」、アメリカの傘の下になる。このとき市民は黙ってみていたが安保条理を国会で強制的に可決したことに国会は何をしているところだと学生たちや市民が立ち上がった。
しかし大勢のデモ隊に押しつぶされて樺美智子が亡くなった。衝撃的な事件になった。
学生たちや運動家は逮捕された。そして様々な経緯で全学連は解散していった。
日本が民主主義という政策をとり国会議員の賛否で可決していくがそうしなかった岸信介首相のやり方に学生たちや市民は熱くなった。
まだまだパワーがあった。今はそんなパワーはない。もしこんなことがおきたらとニュースキャースターが1960年生まれに質問すると「たぶん参加しない」そして「今の国会と何も変らない」というゲストもいた。
そしてこの後、2回目の学生デモがやってくるのが1960年代から1970年の大学生たちのデモ、「鞄の変わりに角棒をもっている」と父親は話し父親が勤務する会社の取引先の息子が京都市内の大学に通っていたが日夜、角棒を持ってデモに明け暮れているという話を思い出していた。
そんな話をしていた父親の話になんのことかわからずぽかんとして聞いていた。
それほどのどかな田舎で暮らし育った。
ここまでブログを書いていると夫の昼食の催促である。
これから昼食の支度をしよう。
いつものように朝食を食べて私は9時過ぎにパソコンの前に座った。
月曜日連載の原稿も昨日、深夜近くまで作った原稿を見直していた。
まだもう1度見直さないといけない。
季節は春に近づいてきた。
そろそろ冬物はクリーニングに出す物、家で洗う物に仕分けして春から夏物を出していかなければならない。
毎年こんな繰り返しをして季節は過ぎていく。
来週は空きそうだと思って友人に連絡して昼ランチの日程を取ろうと思うがまた25日、28日と仕事が入った。24日は仕事が入って予約変更を2回もした病院に行かなければならない。
昨日は遅くまでテレビを見すぎた。
「ツタンカーメンの謎」を見ていると面白くてつい見てしまった。
その後何気なしにテレビのチャンネルをまわすとBS2では「昭和35年=1960年」のカレンダーをしていた。
私が高校に入学した年である。
テレビのチャンネルをまわした時に「安保騒動」の学生たちの様子が詳細に放映されていた。当時の岸信介首相の安保と学生の様子が詳しく話されていた。
私は京都府相楽郡木津町という田舎に住んでいた。
東京の安保騒動は他人事のように思って新聞ニュースを見ていた。
この話について父親は決して子どもに話さなかった。まだ高校生で多感な年齢に話さなかったのだろう。
岸信介首相が失脚して池田勇人首相になり「貧乏人は麦飯を食え」「所得倍増」に関しては子どもの前でも話していたが当時は政治に興味のなかった私は「また父親の話が長くなる」と思って聞いていた。
しかし1960年に懐かしい映像もたくさん出てきた。
歌では橋幸夫の「潮来笠」の大ヒットの話もした。
高校1年の秋に我が家にもテレビが入ってきた。
このとき橋幸夫の歌がテレビでよく流れていた。
フアンになった。
なつかしく見ていた。若かった橋幸夫も私より1歳年上、ゴルフをよくしておられるのかゴルフヤ焼けの顔になっていた。
潮来花嫁さん、森山加代子の「月影のナポリ」、私はこの歌はまったく知らなかった。クラスでおしゃまに人はよく歌っていた。
私の知っている森山加代子の歌は「ジンジロゲヤジンジロゲ----」とか「お山で育った山猿は----」しかしらない。
この時流行した歌が「誰よりも君を愛す」。このときはなんと辛気臭い歌と思っていた。大人になって詩の言葉に恋をしている人たちにぐっとくる歌とやっとわかった。道理でヒットしたということもわかった。
「安保闘争」、アメリカの傘の下になる。このとき市民は黙ってみていたが安保条理を国会で強制的に可決したことに国会は何をしているところだと学生たちや市民が立ち上がった。
しかし大勢のデモ隊に押しつぶされて樺美智子が亡くなった。衝撃的な事件になった。
学生たちや運動家は逮捕された。そして様々な経緯で全学連は解散していった。
日本が民主主義という政策をとり国会議員の賛否で可決していくがそうしなかった岸信介首相のやり方に学生たちや市民は熱くなった。
まだまだパワーがあった。今はそんなパワーはない。もしこんなことがおきたらとニュースキャースターが1960年生まれに質問すると「たぶん参加しない」そして「今の国会と何も変らない」というゲストもいた。
そしてこの後、2回目の学生デモがやってくるのが1960年代から1970年の大学生たちのデモ、「鞄の変わりに角棒をもっている」と父親は話し父親が勤務する会社の取引先の息子が京都市内の大学に通っていたが日夜、角棒を持ってデモに明け暮れているという話を思い出していた。
そんな話をしていた父親の話になんのことかわからずぽかんとして聞いていた。
それほどのどかな田舎で暮らし育った。
ここまでブログを書いていると夫の昼食の催促である。
これから昼食の支度をしよう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます