明日から本格的な梅雨になるとテレビの気象情報では言っていた。
明日は神戸の長田に行くのに、雨足が強いと三宮からタクシーを乗らないといけないのか。JR新長田駅から会場まで900メートル、結構あるな。大方1㌔もある。三宮でタクシーに乗らないといけないのだろうか。
火曜日は膝治療の病院行き、帰りはスーパーで食材を買ってこないといけない。
しかし来週は取材を1つしないといけない。電話で日程のアポを取っているが留守電だったのでまた電話をしないといけない。
外はからりと晴れている。
気持のいい晴れの天気だが外では暑いのだろう。
また数年前まで6月はベランダを編み戸にして寝ると私は寝冷えをしていつも熱が出ていた。それが1昨年あたりから編み戸を開けて寝ても寝冷えをしなくなった。それだけ地球は温暖化になり6月から寝苦しい夜になって編み戸をあけないと寝られない。人間の体も地球温暖化に対応できるようになってきているのか。これもまた怖い話である。
こんな時は綺麗な川面に浮かぶ蛍を見たいものだ。
近年、川の水を綺麗にする美化運動が盛んなのか蛍が甦ってきた。
あちらこちらで飛ぶ蛍のニユースがテレビで伝えられている。
1度見たいと思う。
奈良県で最初、蛍が見られるのが奈良県宇陀郡(現在は宇陀市)だった。
しきりに地方紙の奈良新聞がそのニュースを伝えていた。
1度行きたいと思いながら夜の外出に躊躇してしまう。
私が佐紀町に住んでいた30代半ばの話である。
当時、ある詩集で電話相談をしていた。
2年と少しでやめた。人の話しを聞いていて私は体調を崩したので辞めた。
電話をかけてきた人は20代初めの若い保育園の先生だった。当時、テレフオンカードもなくて10円玉をいっぱい握り締めて公衆電話から電話をしてきた。
彼女は彼女なりの悩みもあったが宇陀から奈良市内に出てきて奈良市内で保育園の先生をしていた。親元を離れた寂しさもあったかもしれない。
性格のとてもいい人だった。公衆電話をかけている場所から当時、住んでいた私の家はバスで20分足らずのところだった。
そのうち我が家に遊びに来るようになって一緒に夕食を食べたりした。
そして息子は当時、小学生、牛乳瓶の蓋を集めていたので彼女はよく持って来てくれた。かわいい性格のいい子だったのでそのうちに詩集の同人仲間の若い男性たちが我が家に日曜日になると1ヶ月に1・2度やってきた。
我が家で話したり昼食をしたりした。
そして我が家にくるお目当てはかわいい性格のいい保育園の先生だった。
若い男性は大手企業に勤務する人、中小企業に勤務する人など、さまざまな人がやってきた。私も若かったからカレーをたくさん作ってお昼のもてなしをしていた。
そして息子が中学に上ってしばらくして現在のマンションをローンで購入して引っ越しをしてきた。この家に移ってきてすぐに私はバイクで交通事故にあって3ヶ月ほど自宅療養と通院をしていた。
それからしばらくすると雑誌記者の仕事の誘いがあって私は仕事をし始めていた。このとき保育園の先生は新しいマンションに遊びにきたものの私が仕事をしていたのでゆっくり話すこともなく帰っていった。
それから彼女は保育園の先生をしていたが恋愛もしただろう。人生いろんな体験もしただろう。
しかし落合恵子さんの魅力に取り付かれていた。
もう30年以上も前のことになる。落合恵子さんが成人の日を記念して奈良に講演にこられた。当時あった近鉄奈良駅の上階にあった奈良ホテルに宿泊していた落合恵子さんを訪ねた。奈良新聞の記者そして彼女も連れて行った。
落合恵子さんと直に話しをすると素敵な人柄にまたまた魅了してしまう。
彼女は落合恵子さんに虜になって絵本などの勉強会に東京まで行って参加していた。
長いこと長いことご無沙汰していた。私が在日韓国人の日刊紙の新聞社に転職してもっと忙しくなった。夫のことはほったらかしになるほど猛烈に仕事をしていた。そしてある日、ハガキが我が家に届いた。
なんと大阪府吹田市の江坂にクレヨンハウスが出店したという。店のオープンに際して人材を募集したのでさっそく彼女は応募して採用されたという。
ハガキを見て驚き店を訪ねてはまた驚いた。
保育園の先生がクレヨンハウスの中にある喫茶でエプロンつけてかいがしく仕事をしていた。もうこれにはびっくりしたがそれぞれ仕事に対する思いがある。
私は黙って見守るだけと考えて「とにかくやめないで頑張りなさい」と励ましていた。
けれど彼女は私より強い。芯のある女性だった。やりたいことに地道にコツコツと努力をして周りからの信頼も厚くなって奈良で落合恵子さんの講演があって顔を出してみようと会場に駆けつけると彼女も一緒にいた。彼女は日々努力を重ねていた。
そして秘書として同行してきた。
またこれで腰を抜かすほどびっくりしたが思い直すと彼女も30代後半に差しかかっていた。もう自分らしく生きていてもいい年齢になっていたのだ。
10円玉を握り締めて電話をしてきた20代の初めの若かった彼女はひとまわりもふたまわりも成長して私の前にいた。
よく頑張った彼女に心の中で私は喜んでいた。
成長した彼女に喜んでいた。
東京の本店のクレヨンハウスに勤務地を変えて彼女は頑張っている。
子どもが好きで保育園の先生になった。
しかし彼女に悩みがあった。
奈良市と慶州市は姉妹締結をしたことから保育園の先生たちも交流事業に駆りだされた。交流事業のメインにしていた和太鼓の練習に時間を取って日曜日も休みなく保育園業務の合間をぬっての練習に彼女はストレスがたまり誰かに聞いていただきたくて私に電話をかけてきた。そんな悩みは詳細に語らなかったが宇陀から出てきていた彼女の心境がわかった。
親元を離れた寂しさがあったのだろう。当時の宇陀郡から奈良市内に通勤できないこともなかったが今ほど電車のダイヤは多くなかった。
奈良まで来るのに自宅近くからバスに乗って榛原にでて榛原から八木にでて八木からまた西大寺に行く電車に乗換えて奈良に着くとまたバスに乗換えての勤務先、2時間近い通勤だったので彼女は奈良市内で下宿していた。
今日、朝日新聞に落合恵子さんのエッセイ、「トイレ」の話を書いておられた。
トイレといえば佐紀町に住んでいた家は2軒長屋の借家で汲取り式の便所だった。1970年代とはいえ古い家に住んでいた。
そんなところに彼女もよく遊びにきてくれた。
そして若い男性も彼女見たさに我が家によく来た。彼らたちのマドンナだった。
そして今は皆それぞれの道を歩いている。
マドンナを追いかけた男性たちも皆結婚していった。
彼女----たぶん今も独身だとおもうが-----。
マドンナを追いかけた男性たちも40代の後半から50代になった。
それぞれに子どももできて家庭のいい親父になっている。
落合恵子さんのエッセイを読んでいて在りし日を思い出していた。
そういえばペングループを創設したばかりで彼女も1・2度投稿してもらった。
会合にも1度来てもらったことがあった。そんなことも思い出している。
明日は神戸の長田に行くのに、雨足が強いと三宮からタクシーを乗らないといけないのか。JR新長田駅から会場まで900メートル、結構あるな。大方1㌔もある。三宮でタクシーに乗らないといけないのだろうか。
火曜日は膝治療の病院行き、帰りはスーパーで食材を買ってこないといけない。
しかし来週は取材を1つしないといけない。電話で日程のアポを取っているが留守電だったのでまた電話をしないといけない。
外はからりと晴れている。
気持のいい晴れの天気だが外では暑いのだろう。
また数年前まで6月はベランダを編み戸にして寝ると私は寝冷えをしていつも熱が出ていた。それが1昨年あたりから編み戸を開けて寝ても寝冷えをしなくなった。それだけ地球は温暖化になり6月から寝苦しい夜になって編み戸をあけないと寝られない。人間の体も地球温暖化に対応できるようになってきているのか。これもまた怖い話である。
こんな時は綺麗な川面に浮かぶ蛍を見たいものだ。
近年、川の水を綺麗にする美化運動が盛んなのか蛍が甦ってきた。
あちらこちらで飛ぶ蛍のニユースがテレビで伝えられている。
1度見たいと思う。
奈良県で最初、蛍が見られるのが奈良県宇陀郡(現在は宇陀市)だった。
しきりに地方紙の奈良新聞がそのニュースを伝えていた。
1度行きたいと思いながら夜の外出に躊躇してしまう。
私が佐紀町に住んでいた30代半ばの話である。
当時、ある詩集で電話相談をしていた。
2年と少しでやめた。人の話しを聞いていて私は体調を崩したので辞めた。
電話をかけてきた人は20代初めの若い保育園の先生だった。当時、テレフオンカードもなくて10円玉をいっぱい握り締めて公衆電話から電話をしてきた。
彼女は彼女なりの悩みもあったが宇陀から奈良市内に出てきて奈良市内で保育園の先生をしていた。親元を離れた寂しさもあったかもしれない。
性格のとてもいい人だった。公衆電話をかけている場所から当時、住んでいた私の家はバスで20分足らずのところだった。
そのうち我が家に遊びに来るようになって一緒に夕食を食べたりした。
そして息子は当時、小学生、牛乳瓶の蓋を集めていたので彼女はよく持って来てくれた。かわいい性格のいい子だったのでそのうちに詩集の同人仲間の若い男性たちが我が家に日曜日になると1ヶ月に1・2度やってきた。
我が家で話したり昼食をしたりした。
そして我が家にくるお目当てはかわいい性格のいい保育園の先生だった。
若い男性は大手企業に勤務する人、中小企業に勤務する人など、さまざまな人がやってきた。私も若かったからカレーをたくさん作ってお昼のもてなしをしていた。
そして息子が中学に上ってしばらくして現在のマンションをローンで購入して引っ越しをしてきた。この家に移ってきてすぐに私はバイクで交通事故にあって3ヶ月ほど自宅療養と通院をしていた。
それからしばらくすると雑誌記者の仕事の誘いがあって私は仕事をし始めていた。このとき保育園の先生は新しいマンションに遊びにきたものの私が仕事をしていたのでゆっくり話すこともなく帰っていった。
それから彼女は保育園の先生をしていたが恋愛もしただろう。人生いろんな体験もしただろう。
しかし落合恵子さんの魅力に取り付かれていた。
もう30年以上も前のことになる。落合恵子さんが成人の日を記念して奈良に講演にこられた。当時あった近鉄奈良駅の上階にあった奈良ホテルに宿泊していた落合恵子さんを訪ねた。奈良新聞の記者そして彼女も連れて行った。
落合恵子さんと直に話しをすると素敵な人柄にまたまた魅了してしまう。
彼女は落合恵子さんに虜になって絵本などの勉強会に東京まで行って参加していた。
長いこと長いことご無沙汰していた。私が在日韓国人の日刊紙の新聞社に転職してもっと忙しくなった。夫のことはほったらかしになるほど猛烈に仕事をしていた。そしてある日、ハガキが我が家に届いた。
なんと大阪府吹田市の江坂にクレヨンハウスが出店したという。店のオープンに際して人材を募集したのでさっそく彼女は応募して採用されたという。
ハガキを見て驚き店を訪ねてはまた驚いた。
保育園の先生がクレヨンハウスの中にある喫茶でエプロンつけてかいがしく仕事をしていた。もうこれにはびっくりしたがそれぞれ仕事に対する思いがある。
私は黙って見守るだけと考えて「とにかくやめないで頑張りなさい」と励ましていた。
けれど彼女は私より強い。芯のある女性だった。やりたいことに地道にコツコツと努力をして周りからの信頼も厚くなって奈良で落合恵子さんの講演があって顔を出してみようと会場に駆けつけると彼女も一緒にいた。彼女は日々努力を重ねていた。
そして秘書として同行してきた。
またこれで腰を抜かすほどびっくりしたが思い直すと彼女も30代後半に差しかかっていた。もう自分らしく生きていてもいい年齢になっていたのだ。
10円玉を握り締めて電話をしてきた20代の初めの若かった彼女はひとまわりもふたまわりも成長して私の前にいた。
よく頑張った彼女に心の中で私は喜んでいた。
成長した彼女に喜んでいた。
東京の本店のクレヨンハウスに勤務地を変えて彼女は頑張っている。
子どもが好きで保育園の先生になった。
しかし彼女に悩みがあった。
奈良市と慶州市は姉妹締結をしたことから保育園の先生たちも交流事業に駆りだされた。交流事業のメインにしていた和太鼓の練習に時間を取って日曜日も休みなく保育園業務の合間をぬっての練習に彼女はストレスがたまり誰かに聞いていただきたくて私に電話をかけてきた。そんな悩みは詳細に語らなかったが宇陀から出てきていた彼女の心境がわかった。
親元を離れた寂しさがあったのだろう。当時の宇陀郡から奈良市内に通勤できないこともなかったが今ほど電車のダイヤは多くなかった。
奈良まで来るのに自宅近くからバスに乗って榛原にでて榛原から八木にでて八木からまた西大寺に行く電車に乗換えて奈良に着くとまたバスに乗換えての勤務先、2時間近い通勤だったので彼女は奈良市内で下宿していた。
今日、朝日新聞に落合恵子さんのエッセイ、「トイレ」の話を書いておられた。
トイレといえば佐紀町に住んでいた家は2軒長屋の借家で汲取り式の便所だった。1970年代とはいえ古い家に住んでいた。
そんなところに彼女もよく遊びにきてくれた。
そして若い男性も彼女見たさに我が家によく来た。彼らたちのマドンナだった。
そして今は皆それぞれの道を歩いている。
マドンナを追いかけた男性たちも皆結婚していった。
彼女----たぶん今も独身だとおもうが-----。
マドンナを追いかけた男性たちも40代の後半から50代になった。
それぞれに子どももできて家庭のいい親父になっている。
落合恵子さんのエッセイを読んでいて在りし日を思い出していた。
そういえばペングループを創設したばかりで彼女も1・2度投稿してもらった。
会合にも1度来てもらったことがあった。そんなことも思い出している。
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