その子どもたちがやがて還暦を迎えて定年退職をしていく。
脱脂粉乳という給食の世代でもあった。また小学校の学校給食が完全に実施された時代でもある。牛乳やバター、家にないものが学校給食に並んだ。
そんな世代の子どもがやがてテレビが家にあるころに中学生になっていた。多感な時代をテレビという情報を目にしながら育った。
そういえば私は1944年生まれで1950年か51年に小学校に入学している。セピア色した当時の入学式の写真、母が手作りしたジャンパースカートを着ている。こんな洋服をきていたのか。ちっとも記憶にない。まさか母親が作ったジャンパースカートだったのか。洋裁の上手だった隣町の叔母が作ったものではなかっただろうかと思ったりしてしまう。
このころまだ母親は家にいたのでたぶん母親が作ったものだろう。
祖父がランドセルを持ってきてくれたことはよく覚えている。
1960年代になると社会は経済復興の兆しが見られたがまだまだ皆貧しかった。
私のときは学校給食がなかった。脱脂粉乳を飲んだのかあまり記憶にない。腹の虫下しのまくりを飲んだことは覚えている。
学校から遠い子どもは弁当を持ってきていたが私は学校から自宅まで2・3分のところだったのでいつも家に食べに帰った。
中学年になると母は廃品回収という商いにでていた。ご飯と味噌汁はいつもたくさんあった。
私は昼食で自宅に帰ると七輪に小さなの木々を焚きつけて大きい鍋に味噌汁を温めた。ご飯を釜からよそってご飯に味噌汁をかけて1膳食べてまた学校に戻った。1年に何回かパンが食べたくて母に無理を言ってパン代をもらって学校の近所でコッペパンを1個買って食べた。2個買う人もいたが私は1個がせえいっぱいだった。
中学生になると学校は遠いので弁当になった。母親が弁当を詰めていた。
ある日、弁当の中に韓国の食材、するめの酢漬けが入っていた。
私は母に何も言わなかったが父は気がついた。
そして母に言った。「するめのおかずは弁当のおかずにならへん。あれはいれたらあかん」と言ってくれた。
私の弁当のおかず、父も弁当を持って京都の会社に通勤していたのでたいていおかずの中身は同じだったのだろう。
1軒置いた隣が豆腐屋さん。いつも油揚げの煮たものと母がつけた梅干と生姜が入っていた。梅干と生姜漬け母は上手かった。これは父の会社の人にも褒められていたようだった。
たまに鮭の焼いた物が入っていればご馳走だった。
1950年代の私の小・中学生の時代、貧しかったがいろんなことを思い出す。
教科書に対して父はうるさかった。母にいつも言い聞かせていた。「教科書は人に譲ってもらったり貸してもらったりしてはあかん。教科書は新しいのを買うように」と無学の母にいつも教えていた。
母は自分のことは後回しにして着るものも着ないで父親が言ったことはきちんとしてくれた。
中学校、高校に上がる時の制服もいつも新しい制服をそろえてくれた。隣町の洋服を仕立てるところでいつも仕立ててもらった。
家はそんなに裕福ではなかったのに母はどうして工面していたのだろうか。まだこんな時は父親は月給をきちんと入れていたのだろう。
いつから月給を母にわずかしか渡さなかったのだろうか。
私の高校時代だっただろうか。
父の月給は会社の部下たちとの飲食代にほとんど使っていたように思っている。
が、もっと決定的になったのは在日同胞家庭で家の男子も商いに協力をして事業をどんどん大きくしていく様子を見て何度も父親に一緒に商いをしてほしいと頼んでも父親は会社員一筋の生涯を通した。
そして協力をしない父親に母親は「あんたの給料は3日で稼いでくる」と言われて父親はプライドが傷ついた。
それからである。父親は家に月給を入れなくなった。
父親が母親の商いを手伝い出したのは定年退職をしてからだった。
しかしきしゃで丈夫でなかった父は少し手伝うと寝込むので母は違う知恵が働いた。そして私に言った。「もう仕事なんかしてもらわなくてもいい。家にいて健康でいてくれる方がいい」と言ってけっしてもう手伝つてくれとは言わなかった。
父親が会社員を通した意味は父親が亡くなって母親は気がついた。
厚生年金の受給で父親が亡くなっても母親に遺族年金が半分受給した。
この年金、母は全部、ホームヘルパーに使った。これで父親に初めて「感謝」をしていた。「今になっておじいさんに感謝するわ」と私によく言っていた。
けれど国際電話代や光熱費など母親は好き放題に使っていたので弟の嫁は笑っていた。「他の人は家賃払ってちゃんと生活を締めている。おかあさんは家賃も光熱費も電話代も払わないのにお金がないといつも言っていた。どこで使っていたのかわからへん」と言っていたが私は弟の嫁に「もうせんど働いてきたのやから何に使おうと好きにさせればいいんやか」と言ったことがあった。たぶん母親はホームヘルパーと苦労していた妹のところだったのではと私は思っている。私は兄弟の多い父の家族に母が苦労していたのを見てきた私は叔母たちに言った。「母を大事にして」と。それから叔父は母に小遣いを渡してくれるようになった。私は韓国で家族も探したので思い残すことはないがただ1度、父母に発展した韓国の故郷につれて行ってやりたかったと思っている。
1960年代、必死に生きてきた当時の親のことを思う。親が苦労した時代に育った団塊の世代、そしてその子どもが団塊ジュニャというがまたこの団塊ジュニヤの教育がなっていない。秩序の乱れが目立つ。
日本のモラルの低下が日増しに増加している。
あの1950年から1960年にかけぬけてきたあの時代の希望もよさもどこかに
置き忘れている。どこの高原か草原かしらないが早く取り戻さないと日本社会は退廃していくのが目に見えている。
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