そしてそのときの司会者が萩本欣一さんだったという。
息子が今、38歳、そしたら息子は8歳のときになるのか。
初めて24時間テレビが行なわれたとき2年か3年だったと思う。
それこそまだまだ私は生活に苦労していた。
まだまだ生活に苦労していて生活にゆとりなんかなかった。
あのとき余裕があればと思うことがあるが息子が考えてすることだから黙って息子のすることを見守った。
24時間テレビを見ていた息子は感動したのだろう。
家に置いてあったコーヒー瓶、1円玉が入っていた。息子はこの瓶を24時間テレビの募金に持っていくと言う。
息子が考えて行動する。「そんなもの持っていったらあかん」と止めるわけにはいかない。息子が感動したのだろう。
そしてその雰囲気を一緒にしたかったのだろう。
当時は奈良市から郊外の佐紀町にすんでいた。
募金は当時、西大寺駅に近い奈良フアミリーだった。
今みたいに奈良市の餅飯殿通りだったら行かせなかっただろう。西大寺からまた電車に乗っていくとなると小学生の子ども1人行かせることに躊躇して行かせなかっただろう。
しかし家から自転車で10分あれば十分行ける所だったので息子が募金を持って行くことに何もいわなかった。また今のように子どもが自転車に乗ってはしることはそう危険な時代ではなかった。
息子が感動している心に親の私も「そうやな。1円でもたまるとすごい金額になるからと」と言ってやった。
息子は持っていった後もちょっと興奮して帰ってきた。
「1円玉やといわれたけどな」と笑っていた。
そしてまた2回目がめぐってきたときに24時間テレビの感動が少し薄れたのだろうか。それとも「1円玉や」といわれたことにちょっと恥ずかしい記憶がよみがえってきたのだろうか。
私は「募金もっていかないの」と聞くと「いかへん」といいながら24時間テレビを見ていた。
それ以上何も私は言わなかった。聞かなかった。
こうして30年を迎えた24時間テレビにあの8歳のときの息子を思い出していた。あのとき私が500円でも入れてあげればよかったのだろうか。
ゆとりのない私はそこまでの知恵がうかばなかった。
しかし後悔はしていない。
親が一言も口出しをしていない。
息子が考えて息子が行動した。そして2回目も息子が考えて息子が行動した。親はそれを黙って見守っていた。
ちいさくても子どもも1人の人間として自分で考えて自分でする。
時には親がアドバイスはしたが最初は自分で考えて自分でさせることを訓練させた。一人っ子だったので親は意図にしてそういうふうにして育てた。
これがよかったのか悪かったのかわからない。
沖縄の大学に行き沖縄で就職した。キヤンバス恋愛をして結婚した。今は2人の父親になっている。佐紀町にいたころものすごく苦労していた母親のことは覚えているだろうか。
そして私は心の病でまだまだうつうつとして苦しんでいた。
けれどなんとか元気になろうと必死にもがいていた。
そんなころをふと思い出してしまった。
親の育て方が間違っていたのだろうか。ふと思う。
自立をさせたつもりだが列車ではけない。飛行機でしかいけない。パスポートはいらないが飛行機代が高い沖縄に行ってしまった。
いつも夫婦喧嘩していた親をみたくない。そんなことも息子は沖縄にいくことにさせたのだろうか。
雑誌記者になってからは夫の怒りはエスカレートしていた。
何度も何度も仕事をやめよといわれた。
丁度、雑誌記者になったときは息子が中学2年だった。
だんだん仕事が楽しくて私が外の社会に目を向けだしたことが面白くないのか夫は仕事をやめよと何度も何度も文句を言われていろんなことがあった。
こんな光景をみるのが嫌で沖縄に行ってしまったのだろうか。
外に外にでていく私は水を得た魚のようにイキイキと仕事をしていた。
こんな光景に夫はいらただしさがあったのだろうか。
けれど好きな仕事だったのでめげないで続けてきた。
息子が巣立って行って何年もなるのにふと息子の小学生の頃を思い出した。
24時間テレビ、今日始めて昼間見ることができた(たいてい仕事でどこかの現場に入っていた)24時間テレビの30年の歴史の重みそしてその息子が8歳の時に募金を持っていったがその息子は38歳になっている。
私は年をとるのもしょうがない。そんな年月に感慨深いものが走った24時間テレビだった。
息子が今、38歳、そしたら息子は8歳のときになるのか。
初めて24時間テレビが行なわれたとき2年か3年だったと思う。
それこそまだまだ私は生活に苦労していた。
まだまだ生活に苦労していて生活にゆとりなんかなかった。
あのとき余裕があればと思うことがあるが息子が考えてすることだから黙って息子のすることを見守った。
24時間テレビを見ていた息子は感動したのだろう。
家に置いてあったコーヒー瓶、1円玉が入っていた。息子はこの瓶を24時間テレビの募金に持っていくと言う。
息子が考えて行動する。「そんなもの持っていったらあかん」と止めるわけにはいかない。息子が感動したのだろう。
そしてその雰囲気を一緒にしたかったのだろう。
当時は奈良市から郊外の佐紀町にすんでいた。
募金は当時、西大寺駅に近い奈良フアミリーだった。
今みたいに奈良市の餅飯殿通りだったら行かせなかっただろう。西大寺からまた電車に乗っていくとなると小学生の子ども1人行かせることに躊躇して行かせなかっただろう。
しかし家から自転車で10分あれば十分行ける所だったので息子が募金を持って行くことに何もいわなかった。また今のように子どもが自転車に乗ってはしることはそう危険な時代ではなかった。
息子が感動している心に親の私も「そうやな。1円でもたまるとすごい金額になるからと」と言ってやった。
息子は持っていった後もちょっと興奮して帰ってきた。
「1円玉やといわれたけどな」と笑っていた。
そしてまた2回目がめぐってきたときに24時間テレビの感動が少し薄れたのだろうか。それとも「1円玉や」といわれたことにちょっと恥ずかしい記憶がよみがえってきたのだろうか。
私は「募金もっていかないの」と聞くと「いかへん」といいながら24時間テレビを見ていた。
それ以上何も私は言わなかった。聞かなかった。
こうして30年を迎えた24時間テレビにあの8歳のときの息子を思い出していた。あのとき私が500円でも入れてあげればよかったのだろうか。
ゆとりのない私はそこまでの知恵がうかばなかった。
しかし後悔はしていない。
親が一言も口出しをしていない。
息子が考えて息子が行動した。そして2回目も息子が考えて息子が行動した。親はそれを黙って見守っていた。
ちいさくても子どもも1人の人間として自分で考えて自分でする。
時には親がアドバイスはしたが最初は自分で考えて自分でさせることを訓練させた。一人っ子だったので親は意図にしてそういうふうにして育てた。
これがよかったのか悪かったのかわからない。
沖縄の大学に行き沖縄で就職した。キヤンバス恋愛をして結婚した。今は2人の父親になっている。佐紀町にいたころものすごく苦労していた母親のことは覚えているだろうか。
そして私は心の病でまだまだうつうつとして苦しんでいた。
けれどなんとか元気になろうと必死にもがいていた。
そんなころをふと思い出してしまった。
親の育て方が間違っていたのだろうか。ふと思う。
自立をさせたつもりだが列車ではけない。飛行機でしかいけない。パスポートはいらないが飛行機代が高い沖縄に行ってしまった。
いつも夫婦喧嘩していた親をみたくない。そんなことも息子は沖縄にいくことにさせたのだろうか。
雑誌記者になってからは夫の怒りはエスカレートしていた。
何度も何度も仕事をやめよといわれた。
丁度、雑誌記者になったときは息子が中学2年だった。
だんだん仕事が楽しくて私が外の社会に目を向けだしたことが面白くないのか夫は仕事をやめよと何度も何度も文句を言われていろんなことがあった。
こんな光景をみるのが嫌で沖縄に行ってしまったのだろうか。
外に外にでていく私は水を得た魚のようにイキイキと仕事をしていた。
こんな光景に夫はいらただしさがあったのだろうか。
けれど好きな仕事だったのでめげないで続けてきた。
息子が巣立って行って何年もなるのにふと息子の小学生の頃を思い出した。
24時間テレビ、今日始めて昼間見ることができた(たいてい仕事でどこかの現場に入っていた)24時間テレビの30年の歴史の重みそしてその息子が8歳の時に募金を持っていったがその息子は38歳になっている。
私は年をとるのもしょうがない。そんな年月に感慨深いものが走った24時間テレビだった。
文章が、面白いので、つい、コメント書きたくなりました。
スンましぇん。