民団新聞文化面で案内のところの記事、2003年6月4日付けで取り上げている。これも予告記事で扱っている。記事を紹介してみよう。
「韓日の茶道で交流―異文化芸術に触れるフェス」
「異文化芸術―心の時代フエステイバル」が6月21日、兵庫の芦屋ルナ・ホールで開かれ、韓国と日本の茶道が紹介される。同フエステイバルは日本であまり知られていない韓国の茶道を紹介する目的で開催される。
実演では韓国からソウルに本部を置く韓国茶人連合会副会長の申雲鶴さんが高麗茶道を日本側から裏千家淡交会の田中宗基さんがお手前を披露する。
実演終了後には伝統芸能講演が開かれ、韓国重要無形文化財僧舞芸能保有者の鄭在晩さん、テノール歌手畑儀文さんらが出演する。鄭さんは韓国を代表する舞踊団の1つ、三星舞踊団を率い古典芸能から創作舞踊まで幅広く活躍している。-中略-ロビーで開かれるオープンセレモニーでは韓日両国の茶と菓子を味わうことができる。
申雲鶴さんから日本で韓日の茶道交流をする催しについて韓国から電話が入った。筆者は確か21日には他の取材現場が入っていて現場に入れなかった。
それで予告記事の要請で送ってきた資料を見て簡単なメモを作成して編集局に出したことを記憶している。
予告記事が掲載されて韓国の申雲鶴さんの自宅にFAXして送信したものが申雲鶴さんの取材資料の中に入れておいた。いつか原稿にするときにと考えて保存しておいた。
FAXを流す時に簡単なメモを添えた。
メモは「20日は甲子園都ホテルにお伺いします。楽しみにしています」と書きながら20日ホテルに訪問できなかった。午後に関西国際空港についてホテルに入られるのは夕方遅くだった。わざわざ会うだけの訪問、夜遅いことに躊躇して結局ホテルにいけなかった。この後22日だったと思う。駐大阪韓国総領事館関西韓国文化院を訪問しておられたがこれも失礼をすることになった。
現在、日本での文化活動をいくつかに枝分かれしている。枝分かれしないで日本支部・1つのところで活発に交流事業をしてもらいたい。もともとは申雲鶴さんの実妹が実姉に研究して開発した申雲鶴さん独自の高麗茶道を教えてもらった。京都韓国学校(現在京都国際学校)の家庭科教師の中で生徒たちに教えて京都から普及させた。京都の裏千家とも交流しながら地道な活動をしていた。そしてここからニューカマーの保護者も高麗茶道を習い自分たちでグループを作った。韓国語という母語は在日韓国人が生み出した文化をもひっさげていく。申雲鶴さんから高麗茶道研究について熱く語った出会いは早い。民族学校の保護者よりさらに早く出会っている。
しかし物事は発展して活発になっていくとそこには数々の問題が生じてくる。人間というものはこんなときはもろいものである。筆者は2つも3つも分かれて独自が作った高麗茶道として披露しながら活動する光景に胸が痛みかかわりたくなくなった。
韓日文化交流としてはとてもいい活動である。しかし伝統文化は心穏やかに活動することで次世代に受け継がれていく。いつかはそうした日が来ることを確信している。
1980年代の後半から韓国のかの地で韓国文化入門コースが観光コースになった。今もしておられるだろう。最初、高麗茶道作法を指導したのが申雲鶴さんである。日本でも在日韓国人。韓国人・日本人の韓日茶道交流を各地でされても表に目立つのは韓国現地生まれの人だった。この中で申雲鶴さんの存在は希薄になっていた。この席に筆者は何度か取材したことがあるがネイテイブの韓国人にマスコミは取材に熱心だった。韓流の走りともいえるだろう。こうしたイベントから何年もして申雲鶴さんとソウルであった。
「どんなに在日韓国人が韓国でがんばっても最後は韓国の人にもっていかれていく」と寂しそうに呟かれたのを記憶している。
【写真説明】2003年6月21日に行なわれたイベント時のパンフレットの表紙。
「韓日の茶道で交流―異文化芸術に触れるフェス」
「異文化芸術―心の時代フエステイバル」が6月21日、兵庫の芦屋ルナ・ホールで開かれ、韓国と日本の茶道が紹介される。同フエステイバルは日本であまり知られていない韓国の茶道を紹介する目的で開催される。
実演では韓国からソウルに本部を置く韓国茶人連合会副会長の申雲鶴さんが高麗茶道を日本側から裏千家淡交会の田中宗基さんがお手前を披露する。
実演終了後には伝統芸能講演が開かれ、韓国重要無形文化財僧舞芸能保有者の鄭在晩さん、テノール歌手畑儀文さんらが出演する。鄭さんは韓国を代表する舞踊団の1つ、三星舞踊団を率い古典芸能から創作舞踊まで幅広く活躍している。-中略-ロビーで開かれるオープンセレモニーでは韓日両国の茶と菓子を味わうことができる。
申雲鶴さんから日本で韓日の茶道交流をする催しについて韓国から電話が入った。筆者は確か21日には他の取材現場が入っていて現場に入れなかった。
それで予告記事の要請で送ってきた資料を見て簡単なメモを作成して編集局に出したことを記憶している。
予告記事が掲載されて韓国の申雲鶴さんの自宅にFAXして送信したものが申雲鶴さんの取材資料の中に入れておいた。いつか原稿にするときにと考えて保存しておいた。
FAXを流す時に簡単なメモを添えた。
メモは「20日は甲子園都ホテルにお伺いします。楽しみにしています」と書きながら20日ホテルに訪問できなかった。午後に関西国際空港についてホテルに入られるのは夕方遅くだった。わざわざ会うだけの訪問、夜遅いことに躊躇して結局ホテルにいけなかった。この後22日だったと思う。駐大阪韓国総領事館関西韓国文化院を訪問しておられたがこれも失礼をすることになった。
現在、日本での文化活動をいくつかに枝分かれしている。枝分かれしないで日本支部・1つのところで活発に交流事業をしてもらいたい。もともとは申雲鶴さんの実妹が実姉に研究して開発した申雲鶴さん独自の高麗茶道を教えてもらった。京都韓国学校(現在京都国際学校)の家庭科教師の中で生徒たちに教えて京都から普及させた。京都の裏千家とも交流しながら地道な活動をしていた。そしてここからニューカマーの保護者も高麗茶道を習い自分たちでグループを作った。韓国語という母語は在日韓国人が生み出した文化をもひっさげていく。申雲鶴さんから高麗茶道研究について熱く語った出会いは早い。民族学校の保護者よりさらに早く出会っている。
しかし物事は発展して活発になっていくとそこには数々の問題が生じてくる。人間というものはこんなときはもろいものである。筆者は2つも3つも分かれて独自が作った高麗茶道として披露しながら活動する光景に胸が痛みかかわりたくなくなった。
韓日文化交流としてはとてもいい活動である。しかし伝統文化は心穏やかに活動することで次世代に受け継がれていく。いつかはそうした日が来ることを確信している。
1980年代の後半から韓国のかの地で韓国文化入門コースが観光コースになった。今もしておられるだろう。最初、高麗茶道作法を指導したのが申雲鶴さんである。日本でも在日韓国人。韓国人・日本人の韓日茶道交流を各地でされても表に目立つのは韓国現地生まれの人だった。この中で申雲鶴さんの存在は希薄になっていた。この席に筆者は何度か取材したことがあるがネイテイブの韓国人にマスコミは取材に熱心だった。韓流の走りともいえるだろう。こうしたイベントから何年もして申雲鶴さんとソウルであった。
「どんなに在日韓国人が韓国でがんばっても最後は韓国の人にもっていかれていく」と寂しそうに呟かれたのを記憶している。
【写真説明】2003年6月21日に行なわれたイベント時のパンフレットの表紙。
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