今回から大阪市生野区出身の女性、申雲鶴さん(70歳)を紹介していきます。
本名は「申」名前はあるが韓国で茶道教授と活躍しているので今回は茶道指導者として使用している名前で紹介をしていく。
現在の肩書きは高麗抹茶茶道宗家、社団法人・韓国茶人連合会 茶道礼節・和静茶礼院院長で他にも社団法人・韓国茶人連合会副会長、高句麗茶文化芸術研究会会長、韓国茶人連合会茶道教授、和静茶礼院は韓国ソウル特別市鍾路区安国洞にある。茶礼院で韓国茶茶道の指導をして韓国内の大学でも講師として活躍している。自宅は京畿道楊平郡である。取材をしたのは2002年11月28日、当時筆者は明洞の世宗ホテルに宿泊していた。申雲鶴さんは車の駐車しやすいこのソウル市庁の側のコリアナホテルで会うことになった。ソウルのコリアナホテルの喫茶で1時間ばかりインタビューをした。
「韓国に暮らして」に関する取材は申雲鶴さんが初期の段階でしていたがいろいろと気にかかる事情があって最後になってしまった。気にかかる事情は追って紹介していくことにする。
申雲鶴さんは1937年、大阪で生まれた。大阪樟蔭女子大学食物学科卒業したのが1958年である。生野区に住んでいたことは本人から聞いているがここからの話は本人から聞いていない。生野区在住の在日韓国人の女性から聞いた話である。申雲鶴さんの実母は生野区の韓国市場で韓国食品の惣菜の店を出しておられて子どもには教育熱心だった。子ども3人とも女の子だったが大阪樟蔭女子大学に通わせて卒業をさせたという。申雲鶴さんの姉妹は実母の店を手伝っていたとも聞いている。当時、在日韓国人の女性が大学に進学させる家はごくまれだったが実母は教育を受けさすことを生きがいにして女子姉妹を大学に進学させている。筆者は今更ながらたくましい1世だったと思っている。
申雲鶴さんは大阪樟蔭女子大学で日本茶道の裏千家の茶道を身につけた。
1965年韓日国交正常化になり韓国から日本に留学する大学生たちが多くきた。
申雲鶴さんの夫も大阪大学に留学、電気工学に関する勉学を積んで韓国に帰国している。申雲鶴さんの言葉によると「半導体」を勉強していたという。
日本に韓国から留学していた学生、夫と知り合って結婚したのがきっけで韓国に住むようになった。
資料でみると1969年に結婚したご主人と韓国に帰国をしている。
1970年代、子どもが男子2人生まれていた。韓国と日本の生活の違い、風習も違う。1度は2人の子どもを連れて日本に帰ってきたこともあったという。
韓国では辛い日々だった。しかし子どもの将来のために子どもを連れて再び韓国の夫のもとに戻った。当時は韓国にはまだなかった。日本のスーパーなどで販売されていたインスタントコーヒーをたくさん購入して韓国に持って帰った。これでコーヒーを出す喫茶店を出した。学者だったご主人を陰で助けてきた。お茶は日本にいたころから大学で裏千家の茶道を身につけたが韓国の高麗茶の歴史に触れて高麗茶の研究が始まった。
日本の茶道より高麗茶の歴史が古いと知って研究していこうと決めた。
【写真説明】2002年11月28日、コリアナホテルで取材したときに頂いた資料の中の写真です。
本名は「申」名前はあるが韓国で茶道教授と活躍しているので今回は茶道指導者として使用している名前で紹介をしていく。
現在の肩書きは高麗抹茶茶道宗家、社団法人・韓国茶人連合会 茶道礼節・和静茶礼院院長で他にも社団法人・韓国茶人連合会副会長、高句麗茶文化芸術研究会会長、韓国茶人連合会茶道教授、和静茶礼院は韓国ソウル特別市鍾路区安国洞にある。茶礼院で韓国茶茶道の指導をして韓国内の大学でも講師として活躍している。自宅は京畿道楊平郡である。取材をしたのは2002年11月28日、当時筆者は明洞の世宗ホテルに宿泊していた。申雲鶴さんは車の駐車しやすいこのソウル市庁の側のコリアナホテルで会うことになった。ソウルのコリアナホテルの喫茶で1時間ばかりインタビューをした。
「韓国に暮らして」に関する取材は申雲鶴さんが初期の段階でしていたがいろいろと気にかかる事情があって最後になってしまった。気にかかる事情は追って紹介していくことにする。
申雲鶴さんは1937年、大阪で生まれた。大阪樟蔭女子大学食物学科卒業したのが1958年である。生野区に住んでいたことは本人から聞いているがここからの話は本人から聞いていない。生野区在住の在日韓国人の女性から聞いた話である。申雲鶴さんの実母は生野区の韓国市場で韓国食品の惣菜の店を出しておられて子どもには教育熱心だった。子ども3人とも女の子だったが大阪樟蔭女子大学に通わせて卒業をさせたという。申雲鶴さんの姉妹は実母の店を手伝っていたとも聞いている。当時、在日韓国人の女性が大学に進学させる家はごくまれだったが実母は教育を受けさすことを生きがいにして女子姉妹を大学に進学させている。筆者は今更ながらたくましい1世だったと思っている。
申雲鶴さんは大阪樟蔭女子大学で日本茶道の裏千家の茶道を身につけた。
1965年韓日国交正常化になり韓国から日本に留学する大学生たちが多くきた。
申雲鶴さんの夫も大阪大学に留学、電気工学に関する勉学を積んで韓国に帰国している。申雲鶴さんの言葉によると「半導体」を勉強していたという。
日本に韓国から留学していた学生、夫と知り合って結婚したのがきっけで韓国に住むようになった。
資料でみると1969年に結婚したご主人と韓国に帰国をしている。
1970年代、子どもが男子2人生まれていた。韓国と日本の生活の違い、風習も違う。1度は2人の子どもを連れて日本に帰ってきたこともあったという。
韓国では辛い日々だった。しかし子どもの将来のために子どもを連れて再び韓国の夫のもとに戻った。当時は韓国にはまだなかった。日本のスーパーなどで販売されていたインスタントコーヒーをたくさん購入して韓国に持って帰った。これでコーヒーを出す喫茶店を出した。学者だったご主人を陰で助けてきた。お茶は日本にいたころから大学で裏千家の茶道を身につけたが韓国の高麗茶の歴史に触れて高麗茶の研究が始まった。
日本の茶道より高麗茶の歴史が古いと知って研究していこうと決めた。
【写真説明】2002年11月28日、コリアナホテルで取材したときに頂いた資料の中の写真です。
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