鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

今日も暑いな。

2008-08-02 08:57:36 | 直言!
涼しくなる気配がない。今日は京都の丹波橋が現場である。
特急がとまるので楽になった。ここで降りて地下鉄の電車に乗り換えたりしている。京阪電車も乗り換えることができる。以前は大和西大寺から京都までとまらない。地下鉄は京都で降りてコンコースを歩いて階段を降りての乗り換えだったが今は丹波橋でとまるので丹波橋でおりて普通にのりかえて竹田にでて竹田から地下鉄にのることができる。
降りたホームでの乗り換えなので楽になった。
そして特急は列車ダイヤの時刻が分かりやすいので現場にいく時間の組み立てがしやすいので京都は断然に特急が仕事しやすいダイヤになっている。
今日は丹波橋駅のおりたところで比較的気持は楽である。
1時半から。12時半の特急にのらないといけないが行きつけの喫茶店で新聞を読んでいくのでその前に外出の支度をしないといけない。
夕方、懇親会があるというがそれは残らないで仕事が終わると一目散に自宅に戻ってくる。いつもこんな仕事のスタイルである。
若いときはこんな懇親会も好きでよく残った。
ここから次の記事に発展する情報もよくとった。
それが50代半ばになってくるとできるだけ早く自宅にもどりたいだけになった。
気力がなくなったのか体力がなくなったのか。
家に戻って何をするわけでもないが家にもどって家のことをしてゆっくりしたいだけである。

こんなことを考えると私の40代は猛烈に働いていた。家のことはほったらかしだった。猛烈に駆け抜けた40代だった。
猛烈に仕事しないと生き残れない社会の仕組みだった。
70代も60代も50代も猛烈に駆け抜けてきた。
猛烈に駆け抜けた人生だった。
私は夫のことはほったらかしだった。
そしたらその時代の子どもはどうしていたのか。
女性が働いていた核家族の家は当然子どものことをじっくりかえりみる時間がなかった。そのときの時代の子どもが今、大人になって電車の中で化粧したりしてモラルが低下している。
私は幸いに子育ての大事なときは専業主婦をしていた。大学は沖縄に行ったので目が届かなかったが息子によく手紙を書いた。
文字の中から母親のことを忘れないでほしいという願いをこめてよく書いた。
よく注意書きの手紙を書いたものだった。
見ていたのかどうかしらないが。

40代50代を駆け抜けてくると体力はめっきり落ちてきたことにも気がつく。
マイペースで仕事しないと自分の体がもたない。
自分の体をいたわりながら動くようになった。
それでも夫との2人暮らし、食事作りは誰もしてくれない。
私がやらないといけない。
1番嫌いな料理を未だに作っている。
1番嫌いな料理作り、未だにしている私は自分で不幸だなと思ったりしている。
息子が近くにいればたまには嫁さんの手料理にあやかりたいのに沖縄にすむ息子にはそれもままならない。

本当に今、何が嫌いと言うと料理、台所から遠ざかることだがそれは私の夢になりそうだ。

昨日の夜、阿久悠さんの没1年の記念ドラマを見たが新沼謙治は数秒、若いときの写真がでて終わった。残念。
「スター誕生」というのは自分のところで歌手を抱えるための演出番組だと昨日のテレビで初めて分かった。
なるほど。時代の波によって作られたスター、山口百恵だった。ピンクレデーもそうだったのか。そう思うとテレビは怖い。
もちろん裏方の試行錯誤の舞台裏もあった。
男たちが働く、時代を産んでいく舞台裏を見た。
どこの企業もこうした熾烈な中で戦っている。
しかしアイドルもこうした中で言葉が生まれアイドルが育っていった。
この舞台裏を察知した山口百恵の直感のよさは神がかり的なものだったのだろうか。いや。母親の結婚相手が在日コリアンと聞いている。そして戸籍に入らなかった山口百恵の生きた環境が世の中を察知する力に長けていたのだろうか。そしてけっして家庭的に恵まれなかったことが家庭第一に思いを駆り立てたのだろうか。たぶん幼い頃は在日コリアンが介入した家庭だったらその環境は苦労したことだろう。
子どもには家庭環境が1番と考えたのだろうか。
結婚は芸能界の引退だった。
引退されるときも私はまだ山口百恵が好きになれなかった。
夫の兄の子どもがすごいファンだったので「嫌い」という私に猛攻撃をして姪は怒ったものだった。
見えないところが多かった山口百恵の生い立ちにフアンは増えていったのだろう。そしてそれが内面的な魅力になってフアンを虜にした。
長年が経って家庭・家族を大事にする山口百恵の私生活、パッチワークに一途に取り組む生き方にこの人の内面がやっと見えてきた。
子どもの頃からそうした秘めた魅力があったのだろう。だから芸能関係者が彼女を育てることに一生懸命になったのが分かった。
そして友人がアン・ルイス、またこれも分かるように気がする。
アン・ルイスも国籍が違った。そこのところがお互いに理解し合える何があったのだろう。
アン・ルイスのことを考えるとふと私の高校時代の女友達を思い出した。時代より先に歩いていた女友達を思い出した。昨日携帯にメールをくれた女友達である。
時代にそった生き方が望ましいがそれでもビジネスは先取りしていかなければならない。芸能界と言うところはとてつもなくしんどいところだと昨日のテレビを見ていてそう思った。
アン・ルイスは今アメリカにいるという。
その元夫が桑田正博、この人がまたとてつもなく人のいい人である。
今は会社社長と歌手と2足のわらじでそれこそマイペースで頑張っている。
大阪で頑張っている桑田正博の周りの人たち、時代の先端を走っていた人ばかりだった。ひたすら駆け抜けてきた人だった。
作られた商品としてデビューした山口百恵、しっかり自分の意思は持っていた。
好きな人と結婚して家庭一筋に生きてきた人生に山口百恵を発掘した当時の関係者の直感はもすごいなと思った。

そして昨日のドラマの最後に言葉は無視してリズムだけ先に走った歌、そして個人の歌でとらえた歌は自己中心の世代が生まれたのだろうか。と、思った。
歌の中にも心があった1970年代から1980年代、言葉は歌う人も曲を作る人も詞を作る人も心が入っていた。だから大衆に入る歌だった。
今の歌はさっぱり分からない。英語かカタカナか分からない言葉、歌詞は意味不明である。心が宿らない音楽になった。
リズムという音の世界でしかない。
モラルの低下を見つめなおすのには言葉の入った歌づくりが早いのかもしれないと昨日のドラマにそんなことを考えていた。
もう忘れていた歌がたくさんでていた。
言葉と歌手のもっている魅力を引き出したスター、アイドルがたくさん生まれていた時代からはるか遠くになっている。
次の模索もやはり、言葉を大事にした歌づくり、もう1度歌を作る原点にふりかえらないといけない。そんなことを阿久悠さんが言っているようなドラマだった。

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