加工して2枚はハガキにした。
後は「韓日サロンリ・・・リビングルーム」に掲載する原稿に画面構築する写真を加工した。
そして原稿を作った。
その合間を縫って仕事の関係者に電話をしていく。
できた原稿を「韓日サロン・・・リビングルーム」のホームページに画面構築をした。終わるとメールの受信を見る。
今日の取材要請が入っている。
関係者に電話してイベントと場所と時間、そして主催者を聞いた。
聞いた内容を編集局に話して午後4時のイベントの取材となった。
3時過ぎに入って事前取材をして後は5時台の奈良行き特急に合わせて会場を出ることにしよう。
昨日は奈良県文化会館で音楽の森、まつぼっくり少年少女合唱団の30周年記念コンサートが行われ他に4つが指導する合唱団なども参加、応援団長の永六輔さん、ゲストに道上洋三さん、高石ともやさん、などがお祝いに駆けつけた。ホールは1階が満席、2階にも観客がいることになった。
会場ホールにかけられた30周年間の写真パネル、最初の頃に私が入っている写真を見つけた。驚いた。感動した。中国北京、万里の長城で撮影したもの。撮影者は奈良新聞社の今は亡きMさん。
30周年は天国から見ているだろう。荒井敦子さんのお母さんも、1番支援した2人が天国に行ってしまった。そんなことを思うと私の瞼は涙があふれてくる。
開演は2時半から。最初のプログラムは着物を着た子どもたちの「春の歌」、指揮をするのは主宰者の荒井敦子さん。一生懸命に指揮をしている背中に涙が出そうになった。
何もない所から大和郡山市のマンションの一角から始まった「まつぼっくり少年少女合唱団」、奈良新聞社の報道関係者も影になり日向になり支援をした。そこに誘われたのは月刊奈良編集局で雑誌記者・編集者をしていてまたペングループの会長もしていたからだった。
しかし私は在日韓国人の新聞社に転職をして荒井敦子さんから遠ざかることになった。遠くから見ているだけだった。
それが平城遷都1300年祭(2010年)をきっかけに荒井敦子さんと電話で話しをするようになった。彼女の活動してきた30年に私の頭の中は走馬灯に動いた。私の仕事の今日は奈良が原点と脳裏を走る。それなら何をすればいいのか。
そのとき閃いたのは奈良県で活躍する女性たちの活動だった。アマチャ、プロ問わず地道に活動している人を記事にすることだった。
そのタイトルはジャーナリスト・ネットの仲間がつけた。
それが「奈良おんな物語」です。昨年1月から1ヶ月に1人を紹介してきた。
今月で15人を紹介した。
昨日の開演は2時半、1時半から開場、私は1時15分頃に行きつけの喫茶店を出た。ゆっくりと奈良県文化会館に歩くつもりなのに急ぎ足になっていく。
開場に着くと1時半にもならない。それなのに前の方はもう席が詰まっている。
真ん中に行くと関係者の席になっている。
後方の右側の通路横に座った。
2時半から公演、このことは韓日サロン・・・リビングルームで少しだけ書きましたのでまた見て下さい。
公演の最後は皆で「上を向いて歩こう」を歌うが応援団長の永六輔さんは感きわまって涙で歌えない。しかし最後は元気に歌われた。
道上洋三さんに高石ともやさん---。多彩なゲストに荒井敦子さんの人脈が伺える。車椅子の永六輔さん、最後は立ってお礼をしておられた。
コンサートに掲げられた題字は永六輔さんが書かれた。
最後の「上を向いて歩こう」で閉幕、私は席を立った。
しかし会場はアンコール、アンコールの声が響いていた。
私が会場から出ると「ふるさと」の歌が聞こえていた。
私は急いで近鉄奈良駅に向かった。時計は5時半になっていた。
さて私は今日の取材要請でこれから身支度です。
鶴橋の現場です。また---。
後は「韓日サロンリ・・・リビングルーム」に掲載する原稿に画面構築する写真を加工した。
そして原稿を作った。
その合間を縫って仕事の関係者に電話をしていく。
できた原稿を「韓日サロン・・・リビングルーム」のホームページに画面構築をした。終わるとメールの受信を見る。
今日の取材要請が入っている。
関係者に電話してイベントと場所と時間、そして主催者を聞いた。
聞いた内容を編集局に話して午後4時のイベントの取材となった。
3時過ぎに入って事前取材をして後は5時台の奈良行き特急に合わせて会場を出ることにしよう。
昨日は奈良県文化会館で音楽の森、まつぼっくり少年少女合唱団の30周年記念コンサートが行われ他に4つが指導する合唱団なども参加、応援団長の永六輔さん、ゲストに道上洋三さん、高石ともやさん、などがお祝いに駆けつけた。ホールは1階が満席、2階にも観客がいることになった。
会場ホールにかけられた30周年間の写真パネル、最初の頃に私が入っている写真を見つけた。驚いた。感動した。中国北京、万里の長城で撮影したもの。撮影者は奈良新聞社の今は亡きMさん。
30周年は天国から見ているだろう。荒井敦子さんのお母さんも、1番支援した2人が天国に行ってしまった。そんなことを思うと私の瞼は涙があふれてくる。
開演は2時半から。最初のプログラムは着物を着た子どもたちの「春の歌」、指揮をするのは主宰者の荒井敦子さん。一生懸命に指揮をしている背中に涙が出そうになった。
何もない所から大和郡山市のマンションの一角から始まった「まつぼっくり少年少女合唱団」、奈良新聞社の報道関係者も影になり日向になり支援をした。そこに誘われたのは月刊奈良編集局で雑誌記者・編集者をしていてまたペングループの会長もしていたからだった。
しかし私は在日韓国人の新聞社に転職をして荒井敦子さんから遠ざかることになった。遠くから見ているだけだった。
それが平城遷都1300年祭(2010年)をきっかけに荒井敦子さんと電話で話しをするようになった。彼女の活動してきた30年に私の頭の中は走馬灯に動いた。私の仕事の今日は奈良が原点と脳裏を走る。それなら何をすればいいのか。
そのとき閃いたのは奈良県で活躍する女性たちの活動だった。アマチャ、プロ問わず地道に活動している人を記事にすることだった。
そのタイトルはジャーナリスト・ネットの仲間がつけた。
それが「奈良おんな物語」です。昨年1月から1ヶ月に1人を紹介してきた。
今月で15人を紹介した。
昨日の開演は2時半、1時半から開場、私は1時15分頃に行きつけの喫茶店を出た。ゆっくりと奈良県文化会館に歩くつもりなのに急ぎ足になっていく。
開場に着くと1時半にもならない。それなのに前の方はもう席が詰まっている。
真ん中に行くと関係者の席になっている。
後方の右側の通路横に座った。
2時半から公演、このことは韓日サロン・・・リビングルームで少しだけ書きましたのでまた見て下さい。
公演の最後は皆で「上を向いて歩こう」を歌うが応援団長の永六輔さんは感きわまって涙で歌えない。しかし最後は元気に歌われた。
道上洋三さんに高石ともやさん---。多彩なゲストに荒井敦子さんの人脈が伺える。車椅子の永六輔さん、最後は立ってお礼をしておられた。
コンサートに掲げられた題字は永六輔さんが書かれた。
最後の「上を向いて歩こう」で閉幕、私は席を立った。
しかし会場はアンコール、アンコールの声が響いていた。
私が会場から出ると「ふるさと」の歌が聞こえていた。
私は急いで近鉄奈良駅に向かった。時計は5時半になっていた。
さて私は今日の取材要請でこれから身支度です。
鶴橋の現場です。また---。
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