そして6時半ごろ霧雨なのか傘をさして歩いている人がいる。
高円山あたりの空は強く雨が降っているようだがこのへんの雨は霧雨である。
7時半頃からパソコンの前での作業、ネットにセットした原稿の間違いの指摘にあわてて訂正をした。
昨日はなんかパソコンを光フアイバーに変えるのに振り回された。
ほんまに精神的にしんどかった。
ネットに入れる原稿を作っている途中で工事にこられて工事が終わるとなかなか接続ができなくてやっと出来たと思ってセットアップするが睡魔のために気持もうつろ、それだったらセットアップしなくていいのにできたらつい早くしてしまう。
20分ばかり寝るとすっきりしたのでバソコンをあけると仕事の作業が入っている。
そして夕食の支度、何もする気がないくらいに疲れていた。
牛肉と紐唐辛子を韓国風に炒めて夫の好きな惣菜にしておいた。大根の酢のものを作った。鍋には韓国の食材、みそ料理がのこっていたのでそれで夕食にした。
今日、夫は肉ジャガにしてという。
肉を早く使わないといけない。
冷蔵庫に入れておいても色が変わるので気になるので早くしてしまうことにした。
そして1本の原稿、取材が足りないなのか、原稿の構成ができない。日延べになっている。これはあかんと考えてホームページを検索するとイカタビューした人のことがたくさんあった。原稿の構成の方向を変えてしょうか。
またこれを編集局との打ち合わせになった。
取材が足りない時がある。相手の都合でどうしても時間の制限があると私の知らないことはまた追いかけてしないといけない。
しかし追いかけてするほどの記事なのか。
ずっと考えていたので結局違う形の切り口にしょうかと------。
ホームページを検索してプリントするだけでも時間がかかった。
やっとブログを書き始めたのがつい10分ほどまえである。
ホームページを検索する前に1本の原稿を作った。
「電車の中---」をセットアップした。
こんなこと書いている私は時には恥ずかしいこともある。
私も高校生のころはお転婆でこんなに真面目ではなかった。
けれど親も親戚も皆、真面目なのでもともと真面目に性格なのだろう。高校時代の私はそんなに自慢できるほど勉強もしていない。
器量もよくなかった。
そんなことでこのブログを読んでいる同級生は「ヒラカワ、よくいうわ」と思われているだろう。
スカートのベルトも黒なのにたまに黄色のサッシュベルトなんてして学校にいって担任に注意された。
田舎の高校だったので冬はズボン(今はパンツというが当時はズボンだった)をはいて下着にパッチ(今はズボン下という)をはいていた。靴下ぐらい違反していた。黒か紺の靴下なのに色物をはいていっては担任に注意されていた。
田舎の高校、今はこの高校に行ってよかった。
相楽郡というのが校区でもっと田舎の山奥からでて通学していた人もいたので皆田舎の素朴さがあった。今会っても何も変わらない。田舎で育った素朴な気質がそのままに残っている。
若いときは石原裕次郎に和田浩二、高橋英樹に吉永小百合、芦川いずみに松原智恵子そして浜田光男、小林旭、日活の俳優に都会的な新しい時代がプンプンしていた。都会の空気に憧れた。
結婚して地方の小都市奈良に住んで年を重ねていくと田舎、自分の実家の近辺が愛しくなる。
同級生も年を重ねているのに皆田舎の素朴さをもちあわせしている。
これだけで安心して心おきなく子どもにかえって話しができる。
相楽郡の山奥から出てきた同級生たちも友だちになったが皆素朴な暮らしをしているのが分かる。
そんなことで同級生がブログを読んでいると聞いている。
嬉しい。反面少しは意識して書かないといけないのにそのままいつもありのままの私を書いている。
いいのか悪いのか分からない。
平という姓は町の中でも珍しかった。平岡さんもいた。平田さんもいた。
しかし川は珍しかった。平岡さんは「ひらめ」とあだ名がついていた。
私はあだ名もつけられないほどどこにいるのかわからないぐらいに目だたない子どもだった。まだまだ父親の威厳が強くて自己表現のできない子どもだった。
高校に行くと自己主張がでてきて親から見ると家風に合わないお転婆娘に父親はいつも嘆いていた。
「あれはうちの子とちがう。出来損ないの子」
こんなことを耳にしながら育った高校時代だった。
結婚して奈良で暮らして多くの人たちと出会ってきた。
年を重ねてくるとまた同級生と会うのが楽しい。
子どものころどこにいるのかわからなかった子どもが今は賑やかな1人になった。現在しか知らない人は「信じられへん」という。
在日コリアンの同級生もいたが1人は私と違って活発で友だちも多くいたようだった。私は友だち作りもできない内向的な子どもだった。
それが実家にいたころは父親が厳しくて籠の鳥みたいに育てたので世間知らずの私がそのまま結婚してこれまた本当に苦労した。
しかし反面、世間をしらなかったのでPTA活動やペングループの活動に前へ前と怖いもの知らずにでることができたのだろうと思っている。
年を重ねて自分の度量がいかほどにと分かってくると前にでることはできなくなった。自分の器の範囲で活動している。
年を重ねることはこんなことだなと老いてきて分かってくる。
同級生の読者を思っているとこんなことをパソコンのキーボードを叩いている。
先日も同級生の電話があった。
それこそ木津あたりなら飲み会も行くと言いたいが自分から誘う勇気はない。
これは高校時代のお転婆なころから変わらない。人についていくほうである。
しかし木津のどこかで夜、飲み会に参加しているとまたどこかで親戚の耳にはいりそう。
叔父さんはだまっているが叔母さんはすぐ口に出して注意をする。怒られそうだ。
外は激しく雨がふっている。休憩して新聞を読もう。
高円山あたりの空は強く雨が降っているようだがこのへんの雨は霧雨である。
7時半頃からパソコンの前での作業、ネットにセットした原稿の間違いの指摘にあわてて訂正をした。
昨日はなんかパソコンを光フアイバーに変えるのに振り回された。
ほんまに精神的にしんどかった。
ネットに入れる原稿を作っている途中で工事にこられて工事が終わるとなかなか接続ができなくてやっと出来たと思ってセットアップするが睡魔のために気持もうつろ、それだったらセットアップしなくていいのにできたらつい早くしてしまう。
20分ばかり寝るとすっきりしたのでバソコンをあけると仕事の作業が入っている。
そして夕食の支度、何もする気がないくらいに疲れていた。
牛肉と紐唐辛子を韓国風に炒めて夫の好きな惣菜にしておいた。大根の酢のものを作った。鍋には韓国の食材、みそ料理がのこっていたのでそれで夕食にした。
今日、夫は肉ジャガにしてという。
肉を早く使わないといけない。
冷蔵庫に入れておいても色が変わるので気になるので早くしてしまうことにした。
そして1本の原稿、取材が足りないなのか、原稿の構成ができない。日延べになっている。これはあかんと考えてホームページを検索するとイカタビューした人のことがたくさんあった。原稿の構成の方向を変えてしょうか。
またこれを編集局との打ち合わせになった。
取材が足りない時がある。相手の都合でどうしても時間の制限があると私の知らないことはまた追いかけてしないといけない。
しかし追いかけてするほどの記事なのか。
ずっと考えていたので結局違う形の切り口にしょうかと------。
ホームページを検索してプリントするだけでも時間がかかった。
やっとブログを書き始めたのがつい10分ほどまえである。
ホームページを検索する前に1本の原稿を作った。
「電車の中---」をセットアップした。
こんなこと書いている私は時には恥ずかしいこともある。
私も高校生のころはお転婆でこんなに真面目ではなかった。
けれど親も親戚も皆、真面目なのでもともと真面目に性格なのだろう。高校時代の私はそんなに自慢できるほど勉強もしていない。
器量もよくなかった。
そんなことでこのブログを読んでいる同級生は「ヒラカワ、よくいうわ」と思われているだろう。
スカートのベルトも黒なのにたまに黄色のサッシュベルトなんてして学校にいって担任に注意された。
田舎の高校だったので冬はズボン(今はパンツというが当時はズボンだった)をはいて下着にパッチ(今はズボン下という)をはいていた。靴下ぐらい違反していた。黒か紺の靴下なのに色物をはいていっては担任に注意されていた。
田舎の高校、今はこの高校に行ってよかった。
相楽郡というのが校区でもっと田舎の山奥からでて通学していた人もいたので皆田舎の素朴さがあった。今会っても何も変わらない。田舎で育った素朴な気質がそのままに残っている。
若いときは石原裕次郎に和田浩二、高橋英樹に吉永小百合、芦川いずみに松原智恵子そして浜田光男、小林旭、日活の俳優に都会的な新しい時代がプンプンしていた。都会の空気に憧れた。
結婚して地方の小都市奈良に住んで年を重ねていくと田舎、自分の実家の近辺が愛しくなる。
同級生も年を重ねているのに皆田舎の素朴さをもちあわせしている。
これだけで安心して心おきなく子どもにかえって話しができる。
相楽郡の山奥から出てきた同級生たちも友だちになったが皆素朴な暮らしをしているのが分かる。
そんなことで同級生がブログを読んでいると聞いている。
嬉しい。反面少しは意識して書かないといけないのにそのままいつもありのままの私を書いている。
いいのか悪いのか分からない。
平という姓は町の中でも珍しかった。平岡さんもいた。平田さんもいた。
しかし川は珍しかった。平岡さんは「ひらめ」とあだ名がついていた。
私はあだ名もつけられないほどどこにいるのかわからないぐらいに目だたない子どもだった。まだまだ父親の威厳が強くて自己表現のできない子どもだった。
高校に行くと自己主張がでてきて親から見ると家風に合わないお転婆娘に父親はいつも嘆いていた。
「あれはうちの子とちがう。出来損ないの子」
こんなことを耳にしながら育った高校時代だった。
結婚して奈良で暮らして多くの人たちと出会ってきた。
年を重ねてくるとまた同級生と会うのが楽しい。
子どものころどこにいるのかわからなかった子どもが今は賑やかな1人になった。現在しか知らない人は「信じられへん」という。
在日コリアンの同級生もいたが1人は私と違って活発で友だちも多くいたようだった。私は友だち作りもできない内向的な子どもだった。
それが実家にいたころは父親が厳しくて籠の鳥みたいに育てたので世間知らずの私がそのまま結婚してこれまた本当に苦労した。
しかし反面、世間をしらなかったのでPTA活動やペングループの活動に前へ前と怖いもの知らずにでることができたのだろうと思っている。
年を重ねて自分の度量がいかほどにと分かってくると前にでることはできなくなった。自分の器の範囲で活動している。
年を重ねることはこんなことだなと老いてきて分かってくる。
同級生の読者を思っているとこんなことをパソコンのキーボードを叩いている。
先日も同級生の電話があった。
それこそ木津あたりなら飲み会も行くと言いたいが自分から誘う勇気はない。
これは高校時代のお転婆なころから変わらない。人についていくほうである。
しかし木津のどこかで夜、飲み会に参加しているとまたどこかで親戚の耳にはいりそう。
叔父さんはだまっているが叔母さんはすぐ口に出して注意をする。怒られそうだ。
外は激しく雨がふっている。休憩して新聞を読もう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます