鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

カレンダーをようやく2008年に変えた。

2008-01-02 14:56:46 | 直言!
ゲラのチェックをしながら家の中でふだん見えないところ、気になるところを拭き掃除した。天気がよかったのでカーテンも洗いシーツも洗った。足マットも洗った。
26日は女友達と久しぶりにあって昼ランチをした。
女友達と別れて自宅に戻るとお歳暮が届いている。
仕事でも割り切っているものもあるのでそのまま心づくしを頂く時もあるが26日夕方に頂いた暮の贈物にあっと驚いた。1回しか取材をしていないのにそれに私は紙面が生きればと思ってしていることなのでむしろ私がお世話になった。
韓国出身のニューカマーの若い女性、その人の心を見抜く力は私なりに年を重ねてつけてきた。この女性は見るからに純朴な人だった。
心づくしはありがたいが純朴な人の心を裏切ることはできない。
私がそのまま年をこせないような気がした。
27日朝、奈良県の伝統工芸物産商工観光会館に行って女性なのでお茶受けにしてほしいと考えて奈良県で有名な柿ともう1つ柚子の入った羊羹をセットにして贈り物にした。男性だったら奈良県の地酒もいいと思ったが女性はそういうわけにはいかない。
贈物の所用を済ませて行きつけの喫茶店に行って韓国で取材した朱敬子さんの取材ノートをまた記憶とメモをたどりながらノートの空白に反芻して書きこんだ。これでようやく朱敬子さんの文章を書く構成のイメージがつかむことができた。
やっと心の中で気になっていたことがとれた。
27日の夜、年賀状の住所を手書きしていると長い間、下を向いてきたのかしんどくなってきた。これはあかんと考えて途中だったが宛名書きをやめた。
それでも気分が悪い。
なんとか夕食をすませて早々と布団の中で休んだ。
28日も体調管理を優先した。考えた末、年賀状の宛名書きはパソコン入力をすることにした。宛名書きをバソコンで作業でするとできた。
できた。28日、1日かかって仕上げた。29日に出すことができた。
29・30日は体調管理を優先にしたてボーと過ごした。
31日はそんなこと言ってなれない。
息子に送る荷物、近鉄奈良駅近くのコンビニで発送した。このあとすぐに私の実家のある木津に向かい供え物の酒と祭祀用の何がしの金額、少しだが供えるものの費用の足しにということで弟の嫁に渡してすぐ今度は奈良市内に住む夫の兄の家に行きお正月用のお酒を渡して今度は一路、鶴橋に向かった。
鶴橋は夫の食材購入である。
豚肉とキムチ、チャンジヤがないと正月が過ごせない。ほかにも少し食材を買った。
私も食べるが今度は奈良市内にもどって大型スーパーに立寄ってお節の食材など買って自宅にもどると3時、そして買って来た食材を切ったり詰めたりしていると4時、風呂を沸かせて夫から順番に風呂を入って私も風呂を入って5時にはテレビの前に座っていた。
夕食を食べて年忘れ日本の歌を見ながら夫の子どもたちの子どもたちに渡す年玉をいれていると6時過ぎになる。ボーとしていてテレビを見ていてもカレンダーのとりかえはすっかり忘れている。洗濯物を干したりしていると7時20分、紅白歌合戦が始まった。終わりまでコーヒーを飲んだり年越しそばを作ったりしていると紅白歌合戦は後半でもあと残す曲が6曲になったときにはじっとテレビを見ていた。
終わると11時45分、パソコンに2007年の最後のブログをのせて2008年1月1日の年賀の言葉を書き込んでいると12時半、1日の朝は早起きである。5時半起きである。カレンダーのことはすっかり忘れている。
トイレも仕事の行事予定のカレンダーもそのまま古い年のままにして2007年から2008年を越した。毎年31日交換しているのに今年はできなかった。
1日の朝になってトイレのカレンダーも古いままである。
あわててカレンダーを交換しようと思ったら夫は「明日からゆっくり家にいるのに明日にしたらええやんか」という。そのままにして夫の兄の家、京都に向かった。正月の祭祀を終えると家族総出で京都市郊外の霊園に出かけて墓参りを済ませてもどってくるともう1時である。
この後、焼き肉を囲んで2時半に京都を後にした。
通り道の私の実家、木津に立寄ったのは3時半、もう親戚は帰途について誰もいない。少しだけここで話をしてまた4時半にでる。弟の嫁は大きい鯛、祭祀に使った鯛の焼物、そしてトックや果物を袋に入れてくれたのでもってかえってきた。自宅に戻ると夫は焼いた鯛を少し切ってほしいという。この鯛でビールを飲んでゆっくり過ごし私は頂いた年賀状の返信の宛名書きをパソコンで打ち込んだ。
夫は「懐かしの昭和の漫才や落語」を見ている。私も宛名書きを終えるとみているが朝が早かったので眠くてしょうがない。15分ほどうつうつしているが睡魔が何回もやってくる。8時半に寝床に入った。夫はずっと見ていたようだった。
こんなことでカレンダーは古いまま2008年1月1日を越した。

今朝、7時半に起きて最初にしたことはカレンダーの取替えだった。
リビングには私の仕事用の書き込みができる大きなカレンダー、そして1年間が1枚にはいっている大判のカレンダーもリビングに貼った。
次はもう1つは仕事用のカレンダーも取り替えてトイレのカレンダーも取り替えた。トイレは夫がいつもゆっくり見ているようである。
1月2日になってやっと2008年度のカレンダーに取り替えることができた。
昨年から今年、あわただしいこともあり体調のこともあり古いカレンダーと一緒に年を越した。
2007年は忙しかった。なんで忙しかったのか全部忘れている。

そういえば今年の正月、夫の兄の家でも1950年代の子どものころを話し実家に帰っても弟と話しをした。
弟が小学校5年の時に私は結婚して実家を出ているのでその後の祭祀の準備のことはしらなかった。
それが弟が昨日話してくれた。昔はトックを自分たちで作ってトックを切った。
そのトックを父親の男兄弟の1番下が祭祀に使う魚を焼きながらトックの切り方を教わり魚も一緒に焼いたという。
その間、男兄弟の嫁たちはほかの食材を作っていたという。そして親戚みんなで紅白歌合戦を見ていたという。中学に入っても手伝っていた。そのあと切ることがなくなったのは機械でトックを切ったものが売られるようになって楽になったと話していた。
私は結婚して結婚した家で祭祀をしていたので後のことはしらなかった。妹は体が弱くて入退院を繰り返していたので誰もあてにしなかった。
そのかわりに弟がしていたがこれも父親の兄弟が本家の長男の長男、1世から2世として祭祀を引き継ぐ重みを教えていたのだろうと自宅に帰る車の中で考えていた。
1世から2世に韓国の祭祀を伝えそして叔父は2世だったが同じ2世でも父親の兄弟でも1番下だった。私より4歳だけ年上の叔父だった。親子ほどの年の開きがある甥っ子に叔父はいろんなことを教えていたのだろう。
すでに亡くなっている。もう20年ぐらいになる。
しかし昔のことを弟はよく覚えていた。まだまだ小学生低学年というのに覚えていた。まだ30代前後の叔父や父親の姉の子どもたち、男ばかり4・5人が集まって干した明太を叩いてそれをちぎりながら食べていたこと。叔父たちがこの乾いた明太が好きでいつも母親にほしいといっていたこと。だからいつも乾いた明太がたくさんあったことなど話していた。
1950年代後半から1960年代の我が家を思い出していた。
朝、2008年度のカレンダーに取替えながら幾年の年月の重さに日本で5世までつないだ1世の人生がたくましく見えてくる。
よくこの日本で生きてきたと尊敬の念になってしまう。
真新しい2008年のカレンダーまだ仕事の日程もいれていないカレンダー、まっさらのまま私の家に鎮座している。
そのうち黒や赤のマジックで日程が書き込まれていくとたちまちのうちに1月は終わったように雑多に日程が書き込まれて日々の暮らしが動いている。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 2008年1月2日 | トップ | 絵文字 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

直言!」カテゴリの最新記事