夫もカメラが好きで結婚した当時、当時では高級だったメーカーのカメラを買った。生活に追われてカメラを使うことはなかった。
そして夫は病気になって入院、まだ1歳にもならない息子を連れてしばらく実家に帰っていた。半月と少し家を空けただろうか。
しばらくぶりに私1人で留守にしていた家に行くと家の中は荒らされていた。
泥棒が入っていた。
このとき私の持っていた貴金属、夫のカメラに皮ジャンパーそして背広などとられた。1年ほどして泥棒は捕まったと警察の知らせで大阪に行くと私の編み機だけが戻ってきた。
盗品は大阪のある地区で叩き売りされたという。
夫はとられたカメラが惜しくてまた同じカメラを買いなおした。
今度は子どもなどの写真をよく撮った。
いつのまにか息子はカメラが趣味になって年玉を貯めてオートハーフのインスタントカメラを買った。このカメラを持ってよく写真を撮っていた。
中学にいくと夫のカメラを使いこなしていた。
高校に行くと今度は自宅に暗室を作るほどだった。
仕事はカメラに関係する仕事を選択したいというので芸大を選んだ。
沖縄の大学に行き近くの大学とカメラを通しての交流をよくしていた。
カメラに関係する仕事に就きたいということで沖縄県にある広告代理店に就職した。長い間、商業用の写真を撮っていた。
バブルがはじけて広告業界が下火になるころコンピュータープログラムの資格を取った。そしてカメラの仕事から外れて今は広告代理店の本社で他の仕事をしている。結婚して子どもができてくるとカメラからどんどん遠ざかっている。
これも息子の人生だと思っている。
雑誌記者になっときに知り合いになったのが地方紙の報道カメラマンだった。
会社の諸事情でカメラマンからはずされてデスクワークの仕事になった。
それでもカメラマンの仕事に未練があって同僚のカメラマンのことをよく聞いた。愚痴をいう男性がいるということをこの人を通して初めて知った。
カメラが好きで大学を卒業してからのカメラに投資したお金は破格だったという。役職がついてもカメラを手ばなさなかった。いつもどこかを撮っていたようだ。ある団体に目が向き写真を撮っては生きがいを感じていたのだろう。何かの展示会になると奈良のどこかのお寺と団体が活動する場面だった。彼は病気でこの世をさったのは5年も前になる。
そして私が勤めていた雑誌社の編集局長もカメラを生業にしていた。
1960年代から70年代、東京でスターを撮り続けた。雑誌・週刊誌専門で仕事をしていた人だった。縁があって大阪にこられてまた縁があって奈良にこられて雑誌社の編集局長をしていた。この人も亡くなって2年半の月日がたった。
雑誌記者を退職して在日韓国人の新聞社に就職して今度は韓国全土を撮影するカメラマンによく韓国・日本人と出会った。またカメラを生業にしたいと思っていた在日韓国人の新聞記者もいた。しかし彼はカメラをあきらめて今は済州道で事業している。
もう1人、済州道から出稼ぎで日本に来ていた人がいた。在日韓国人の新聞社で仕事していたが済州道ではよく知られたカメラマン、身近に写真と関わっている人と多く出会ってきた。彼は韓国に戻っていった。
もう人生でカメラを生業にしている人と出会うことはないと思っていた。
それがこのネットでカメラを持って仕事をしている人に出会った。
縁はまた不思議なもので私が高校時代、片思いして一言も口も聞いてもらえなかった同級生がいたがこの人と同じ中学校で同級生だった。
同じ年で同じ時代に生きた人との縁だった。
彼は一時カメラから外れて家業に専念していたが子育てを終えるとまた体内は映像にこだわり始めたらしい。家業は人に任せてまた被写体にレンズを向ける仕事をしている。
こうしてカメラにこだわってこられた男性はどの人も色彩のセンスのいいことに気がついた。
夫も昔、自分が買ってくる服はまたちがう色、センスが光っていた。今はもう老いなのか私の選んだ服を着ている。
雑誌記者時代の編集局長に地方紙のカメラマン、どちらも着ている背広の色が少し微妙に違っていた。
息子は学生時代、深緑色が好きで私の父親によく言われていた。
「そんな服着るな。戦争の色やから嫌いや」
しかし結婚してくるとその色も遠ざかっていった。
韓国から来ていたカメラマンもどこか韓国人にしては違うところがあった。
カメラマンになりたくて在日韓国人の新聞記者になった彼、今はカメラを離れて済州道で事業している。どこかで済州道の海岸などの被写体に趣味でもいいかレンズを向けていてほしいと願っている。
ネット仲間の人から教わったこと、映像はそこに行かないと撮れないこと。彼は遠くの現場に足を運んで撮影している。
このことは雑誌記者時代の編集局長に何度も何度も聞かされていた。
在日韓国人の新聞社の記者になって写真も大事だが私の場合はまず記事構成からの勉強だった。
雑誌記者時代は日本人から見た日本社会の記事の書き方だった。
在日韓国人の中で記事を書くようになるとまた違う角度から物事を見る訓練からの修業だった。たまに同僚から「今度の写真はよかった」と褒められることはあったが写真より記事構成が私には気になるものだった。
長い間の記者生活の中で多くのカメラマンと出会ってきた。
時代の中で知り合った彼らたちを通して改めて認識をしている。
古いものを撮り続けながらも時代の2・3年を行く映像が求められている現在の社会構造にピントを合わしている。
同じ景色を撮るにしても今の瞬間を撮るその技術、素人では出せない。どうしてか光の光線やその被写体に出される空気は素人には出せない。
何が違うのだろうか。
こんな時にいつもよみがえってくる言葉がある。
地方紙にいたカメラマンはよく言った。
「写真を取る人の『愛』が写真に出る」と。
私はこの言葉を聞くたびに「またそんなことを言う」と言っていつも小馬鹿にして真面目に聞いていなかった。
それが今なら少しだけ理解できる。
そこに撮影したい被写体があるからどこにでも出かけて撮影をしていく。思いがあるから行けるのだ。
しかし私は自分のことになるとまだまだそこまでいかない。
だから長年カメラを持って撮影しているのに素人の域から脱皮できない。
夫はカメラを忘れているわけではない。撮りたいと思っている。しかし最近は目がうつろになっているらしい。この頃あまり言わなくなったがカメラ機種が新しいのを見るとあれがいい。これがいいと言うがカメラにそんな関心のない私はいつも馬の耳に念仏である。
9月14日は十五夜、中秋の名月、カメラマンは自分の腕にしのぎを削るだろう。その私はぼやーんとして十五夜を見ているだろう。
今年も9月14日が中秋の名月、空がすんで美しい満月を見られることを願いたい。
そして夫は病気になって入院、まだ1歳にもならない息子を連れてしばらく実家に帰っていた。半月と少し家を空けただろうか。
しばらくぶりに私1人で留守にしていた家に行くと家の中は荒らされていた。
泥棒が入っていた。
このとき私の持っていた貴金属、夫のカメラに皮ジャンパーそして背広などとられた。1年ほどして泥棒は捕まったと警察の知らせで大阪に行くと私の編み機だけが戻ってきた。
盗品は大阪のある地区で叩き売りされたという。
夫はとられたカメラが惜しくてまた同じカメラを買いなおした。
今度は子どもなどの写真をよく撮った。
いつのまにか息子はカメラが趣味になって年玉を貯めてオートハーフのインスタントカメラを買った。このカメラを持ってよく写真を撮っていた。
中学にいくと夫のカメラを使いこなしていた。
高校に行くと今度は自宅に暗室を作るほどだった。
仕事はカメラに関係する仕事を選択したいというので芸大を選んだ。
沖縄の大学に行き近くの大学とカメラを通しての交流をよくしていた。
カメラに関係する仕事に就きたいということで沖縄県にある広告代理店に就職した。長い間、商業用の写真を撮っていた。
バブルがはじけて広告業界が下火になるころコンピュータープログラムの資格を取った。そしてカメラの仕事から外れて今は広告代理店の本社で他の仕事をしている。結婚して子どもができてくるとカメラからどんどん遠ざかっている。
これも息子の人生だと思っている。
雑誌記者になっときに知り合いになったのが地方紙の報道カメラマンだった。
会社の諸事情でカメラマンからはずされてデスクワークの仕事になった。
それでもカメラマンの仕事に未練があって同僚のカメラマンのことをよく聞いた。愚痴をいう男性がいるということをこの人を通して初めて知った。
カメラが好きで大学を卒業してからのカメラに投資したお金は破格だったという。役職がついてもカメラを手ばなさなかった。いつもどこかを撮っていたようだ。ある団体に目が向き写真を撮っては生きがいを感じていたのだろう。何かの展示会になると奈良のどこかのお寺と団体が活動する場面だった。彼は病気でこの世をさったのは5年も前になる。
そして私が勤めていた雑誌社の編集局長もカメラを生業にしていた。
1960年代から70年代、東京でスターを撮り続けた。雑誌・週刊誌専門で仕事をしていた人だった。縁があって大阪にこられてまた縁があって奈良にこられて雑誌社の編集局長をしていた。この人も亡くなって2年半の月日がたった。
雑誌記者を退職して在日韓国人の新聞社に就職して今度は韓国全土を撮影するカメラマンによく韓国・日本人と出会った。またカメラを生業にしたいと思っていた在日韓国人の新聞記者もいた。しかし彼はカメラをあきらめて今は済州道で事業している。
もう1人、済州道から出稼ぎで日本に来ていた人がいた。在日韓国人の新聞社で仕事していたが済州道ではよく知られたカメラマン、身近に写真と関わっている人と多く出会ってきた。彼は韓国に戻っていった。
もう人生でカメラを生業にしている人と出会うことはないと思っていた。
それがこのネットでカメラを持って仕事をしている人に出会った。
縁はまた不思議なもので私が高校時代、片思いして一言も口も聞いてもらえなかった同級生がいたがこの人と同じ中学校で同級生だった。
同じ年で同じ時代に生きた人との縁だった。
彼は一時カメラから外れて家業に専念していたが子育てを終えるとまた体内は映像にこだわり始めたらしい。家業は人に任せてまた被写体にレンズを向ける仕事をしている。
こうしてカメラにこだわってこられた男性はどの人も色彩のセンスのいいことに気がついた。
夫も昔、自分が買ってくる服はまたちがう色、センスが光っていた。今はもう老いなのか私の選んだ服を着ている。
雑誌記者時代の編集局長に地方紙のカメラマン、どちらも着ている背広の色が少し微妙に違っていた。
息子は学生時代、深緑色が好きで私の父親によく言われていた。
「そんな服着るな。戦争の色やから嫌いや」
しかし結婚してくるとその色も遠ざかっていった。
韓国から来ていたカメラマンもどこか韓国人にしては違うところがあった。
カメラマンになりたくて在日韓国人の新聞記者になった彼、今はカメラを離れて済州道で事業している。どこかで済州道の海岸などの被写体に趣味でもいいかレンズを向けていてほしいと願っている。
ネット仲間の人から教わったこと、映像はそこに行かないと撮れないこと。彼は遠くの現場に足を運んで撮影している。
このことは雑誌記者時代の編集局長に何度も何度も聞かされていた。
在日韓国人の新聞社の記者になって写真も大事だが私の場合はまず記事構成からの勉強だった。
雑誌記者時代は日本人から見た日本社会の記事の書き方だった。
在日韓国人の中で記事を書くようになるとまた違う角度から物事を見る訓練からの修業だった。たまに同僚から「今度の写真はよかった」と褒められることはあったが写真より記事構成が私には気になるものだった。
長い間の記者生活の中で多くのカメラマンと出会ってきた。
時代の中で知り合った彼らたちを通して改めて認識をしている。
古いものを撮り続けながらも時代の2・3年を行く映像が求められている現在の社会構造にピントを合わしている。
同じ景色を撮るにしても今の瞬間を撮るその技術、素人では出せない。どうしてか光の光線やその被写体に出される空気は素人には出せない。
何が違うのだろうか。
こんな時にいつもよみがえってくる言葉がある。
地方紙にいたカメラマンはよく言った。
「写真を取る人の『愛』が写真に出る」と。
私はこの言葉を聞くたびに「またそんなことを言う」と言っていつも小馬鹿にして真面目に聞いていなかった。
それが今なら少しだけ理解できる。
そこに撮影したい被写体があるからどこにでも出かけて撮影をしていく。思いがあるから行けるのだ。
しかし私は自分のことになるとまだまだそこまでいかない。
だから長年カメラを持って撮影しているのに素人の域から脱皮できない。
夫はカメラを忘れているわけではない。撮りたいと思っている。しかし最近は目がうつろになっているらしい。この頃あまり言わなくなったがカメラ機種が新しいのを見るとあれがいい。これがいいと言うがカメラにそんな関心のない私はいつも馬の耳に念仏である。
9月14日は十五夜、中秋の名月、カメラマンは自分の腕にしのぎを削るだろう。その私はぼやーんとして十五夜を見ているだろう。
今年も9月14日が中秋の名月、空がすんで美しい満月を見られることを願いたい。
合成はあまり得意でなかったし、いやだったけど「金のため」に暗室で合成してしまった。
衝撃の告白でした。