鄭容順の直言!

日頃気が付いたこと徒然に。

今日26日、午前8時過ぎだが空は晴れている。

2007-01-26 09:22:48 | 直言!
明日は在日韓国人の出版記念会が鶴橋であるのに降らない方がいい。
人の出足も鈍くなってしまう。
明日、出版記念会を行なうK氏、1番最初に会ったのは私が在日韓国人の日刊紙の会社で勤務しているときだった。そのときは事務所にたまたまいた。
そして見知らぬ若い男性が会社の玄関にいた。そして上司もいたのに彼は私のところに来て「韓国済州道からきたものです」と韓国訛りの日本語を話した。少し慣れた日本語だったが韓国訛りがあった。
すぐに上司に紹介すればよかったがこのころ私は猛烈に仕事をこなしそれなりの社内評価は東京からも得ていた。
そのぶん、また反感を買うのも常だった。
大阪の会社の同僚からの反感もたくさんあった。私の心はずたずたに傷ついていた。しかしここでこの会社をやめたらあかんと踏ん張った。
当時、大阪の韓国系の金融機関が発行する新聞の記者としても誘いがあった。そしてエッセイの寄稿をしていた。
いずらいところでがんばるよりひっぱってくれる金融機関の新聞記者になろうと1歩、足を出しかけていた。
それで私をこの新聞社に入れて下さった韓国政府派遣教師に相談した。
やはり教師の将来のことを考えてのことだったのだろう。
「やめたら駄目です。今のところでがんばりなさい。辛抱するのです」と言って首を縦にふらなかった。辞めたいと相談したのはこれで3度目だった。
そしてまた周りの反感というより大人のいじめにあいながらそこで5年間がんばった。

話は元にもどそう。
訪ねてきた彼は韓国済州道から日本に住んでいる在日韓国人と結婚して大阪に済んでいた。韓国では小説を書いて賞を取ったとも話しをした。
私も当時はまだ自分に才能があると思って小説の書き方の教室に京都まで1ヶ月に1度6回、通ったこともあった。(今は書きたいと思うときもあるが才能がないと考えて書かないようにしている。素材はあっても書けないと思うことにしている)
それでまだ私は40代の後半だったのでまだ仕事に野心があった。
「私も小説を書きたい」と話し在日韓国人として心の傷を書きたいと話し誰にも話したことのない私の幼い頃の記憶を1つ話した。
彼はそれを文章に書いてほしいといったので書いて渡したことがあったがなんの音沙汰もなかった。この話は誰にもしていない話だったのに無碍にされたことでまた私は傷をついた。それからその話はこれというときにしかしないと心に決めた。
それから長い年月がたって「ジャーナリスト・ネット」で「あの日、あの時」を書き込むときにこれまで心の中にしまっていた私の秘密を出した。これで2回目だった。もう両親もいないので出すことに踏切りがついた。
また誘うK氏がこれを充分に対応して下さったので心の傷が少しとれて今では少しずつ人に話せるようになった。

明日、出版記念会を開くK氏は長い間生野区に住んで自分の目で見てきた在日同胞の実態を小説に表現したという。しかし彼は生まれ育った韓国語の方が文章表現に心が入るのだろう。韓国語でかかれた小説だという。
翻訳されたら翻訳本を買いたいが韓国語になるとハングルがよめても意味がわからない。日本語だと斜め読みしても読解はできるがハングルは1行翻訳するのに時間がかかる。とても私の力量では無理である。
彼も韓国から日本に来て口では言えない苦労されただろう。
先日、大阪の新年会に会ったときには何も変わっていない彼がいたがたぶん内面は変わっているだろう。
そして彼のことを話すと当時勤務していた会社の同僚のことを思い出してしまう。あの足のひっぱりあいの中でよく5年間も生き延びたと私は自分でそう思ってほめてしまう。
彼を上司にその後紹介した。
それが上司はまた私に嫌味を言った。
「まず僕に先に紹介してよ。何も鄭さんが対応することないでしょう」と言った。私は黙っていたがこの言葉で傷をついた。
「辞めたい」と思った瞬間だった。
韓国政府派遣教師のお陰で辞めないで5年勤務した。
どんな理由があったのか知らないが上司は私を解雇したのは1992年12月だった。
正月が開けて93年、韓国政府派遣教師は92年2月に韓国に帰国していた。
私は頼るところもないので天理か帝塚山大学の聴講生になろうと準備をしていたら大阪の韓国の公館に赴任する職員から電話があった。
その人は言う。
「まだ遊んだら駄目です」と言って現在のところに私を入れて下さった。
そして韓国政府派遣教師の言った「辞めたら駄目です」の言葉は辛抱して記者をした実績を作ることが大切だということと辛抱を教えてくれた。
そして私1人の実績でない。多くの人に人に助けられて支えられて人と人との出会いの関係で自分をつくっていくことを知った。「感謝と謙虚」の言葉が身にしみた。
韓国から赴任してこられた職員、多くの人に助けてもらった。きっかけは韓国からの駐在員だったことはけっして忘れてはいけないと思っている。
しかしやはり一般には韓国の駐在員は在日同胞が生きてはた道のりはほとんどしらない。ときどき発せられる「韓国人なのに韓国語を知らないでそれでも韓国人か」という批判の言葉は慎んでもらいたい。
2世が3世、4世までこの日本で命を繋いでいくのには日本語が話せないと暮せなかった。そして学校はほとんど日本の公立学校に行った。学校のカリキュラムは日本人のための教育である。在日同胞は日本人同化教育を受けてきた現実を駐在員は知ってほしい。
今でこそ在日同胞は日本人よりも経済構築を成し遂げた人が多くいるが日本人のしない仕事をして経済構築をして日本に税金を納めている。
働いて働いて財をなした1世のほとんどは韓国の国家建設のために影で相当な尽力をしてきた。しかし2世は親の背中を見て育ったので自分の骨を埋める日本社会の中で寄与しなければならないと考えている。地域社会構築の発展に寄与している。こんなことでまた韓国の人たちは2世たちのことを「民族気質が希薄だ」と言われるが希薄な部分はあまりにも日本が在日同胞を差別したので自分の生きやすい命を繋いでいくためにも日本国籍収得にもつながっている。
在日同胞の過酷な苦労と差別を受けたくないというジレンマの中で生きていることも理解してもらいたい。しかし1世がのこした在日同胞が受け継いだ風習や文化を次の世代に繋いで行こうと努力している。
「ルーツ」を繋いでいくことに努力している。

明日出版記念会をするK氏も反対の立場で日本で相当の苦労をされたことだろう。
私との初めての出会いから20余年になった。
私は細くてスタイルがよかったのに横に伸びてしまった。そして年も60代になってしまった。
双方歩いた人生違うが多くの人に助けてもらったことは同じだと思っている。
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