「政治に関与するな」と言った父の言葉が頭の後ろから聞こえてくる。
日本植民地時代、日本政府に翻弄された体験、そして祖国が分断国家になったことで民族の悲哀を味わってきた生き様がそうさせているのだろうか。
そして日本の法的地位、制度的問題、韓国からは海外同胞と言われていても韓国語ができない韓国人。日本人になったとかマイナスイメージで語られることが多く悪い言葉で韓国に捨てられた棄民族と陰口を叩く人もいる。
そして「半日本人(パンチョッパリ)」とも言われた。
現在は韓国に行っても「半日本人」と言う言葉聞くことは少なくなった。
韓国の空港に行っても韓国語ができないと入国管理局の職員は無碍にすることも少なくなった。(地方にいくとまだそんなところもあると聞いている)
私が1988年5月、初めて韓国に行った。金浦国際空港で入国するとき職員が韓国語で「韓国人なのになぜ韓国ができないのか」と言われて私は日本語で「子どもの頃差別を受けていたのに韓国語を勉強することができなかった。今勉強している」と早口で言ったが職員は日本語を理解していたのだろう。「アラッタ、アラッタ(分かった、分かった)」と言った。
何年かして息子が初訪韓したときもそうだった。そのときは前記に記述したように言ったらといいといった。案の定、私と同じだった。
そんなことで日本人が韓国に行くと「ようこそ韓国に来て下さいました」と歓迎するのに在日韓国人の2・3世はこうしたことをたくさん体験してきた。
また在日韓国人の女性たちばかりで韓国に行ったが1人、韓国語が流暢に話せる人がいた。そしたら入国するとき金浦国際空港で職員が「なぜそんなに韓国語が話せるのか。総連に関係しているのか」と言われて彼女は「民団の会館で長い間韓国語を勉強している」と話して入国ができたという。
彼女は一時、総連にいたこともあったが北朝鮮の政治体制に疑問を持って韓国籍に切り替えていた。
韓国語が下手でも上手でも1990年代前半まで在日韓国人に対する差別的感情があった。
今も在日同胞社会の知らない韓国、現地の人は差別するが彼らたちは日本に来たことがないので理解できないのだろうと思うようにしている。
そして北朝鮮が核実験を実施した。
世界は制裁事項に賛成する国が増えてきた。
今朝の韓国の新聞、朝鮮日報では中国にある北朝鮮関係の銀行の口座が凍結されて貿易業者らが大変なことになっていると記事がでていた。
いよいよ大変なことになっている。
在日同胞そして韓国の戦前生まれは日本の広島・長崎の原爆投下を知っている。見たことがなくても各情報から知っている。
日本で被爆した人も帰国している。北朝鮮に帰国した人もいたのではないだろうか。
そして在日同胞子弟は日本公立学校に学んでいても民族学校に通学していても人権・平和教育から小・中・高校を通して広島・長崎のどちらかに1度は修学旅行などで広島・長崎の原爆資料館を訪ねている。
見学をしてその生々しい物件を見て原爆は絶対にいけない。戦争は絶対にしてはいけないと肌で感じ取っていく。
韓国には日本植民地支配時代の歴史、独立記念館があり朝鮮動乱の戦争記念館がある。これらの施設を通して日本植民地時代、分断国家のあり様を実感していく。
しかし原爆資料館はない。(もしあるとすればどこにあるのだろう。一般者も見学できるのだろうか。勉強不足だったら申し訳ない)
韓国に原爆資料館がなかったら韓国の戦後生まれは「核」というものがどれほど恐ろしい物であるか肌で感じ取ることができない。机上の教育で想像しかない。
そんなことで日本で生まれて日本で育った在日同胞、1世も原爆体験、被爆者もいる。2世たちも修学旅行などで原爆資料館を訪ねて肌で恐ろしさを体験している。3・4世も続いて人権・平和教育の中で行なわれている。
私は高校2年の3月、春休みに入る前、北九州に修学旅行をした。
長崎原爆資料館を訪ねた。
ガラスの破片がささった人間の手、弁当箱の歪みの異常などたくさんの原爆被害を見て原爆の恐ろしさを肌で体験した。
在日同胞は日本社会で外国籍として制度補償もなく生きることになったときに1世たちは日本政府に対して運動、運動、権益擁護運等をして勝ち取ってきた。しかしまだまた解決されなくて今だに運動している事柄がたくさんある。
ただ在日同胞は本国人と違って客観的に物事を見る訓練を培ってきた。
ただ日本社会で言葉に出すということは自分にとってどうなるのかと考えて黙って見ている。
中立を保つということは客観的に物事を正視する思考を養ってきた。
そんなことで韓国の戦後生まれの人たち、古代朝鮮の渡来文化を訪ねるのもいいでしょうが同じ日本を見るなら戦争加害者で被害者でもある原爆投下の被害を受けた広島・長崎の原爆資料館に訪ねてもらいたい。
日本植民地支配の事柄を学ぶことも大切だが北朝鮮が核保有と言われてから何年もたっている。こうした教育に重点が置かれてきたのだろうか。私は今懸念をする。
そうすれば「核」というものがどれだけ恐ろしい物であるか気づくことになる。
政治のことは何も話せないが「核」を通して広島・長崎、世界で始めて原爆の被害のあった町、広島・長崎を訪ねてもらいたい。
広島に行くとチンチン電車がある。チンチン電車に乗ると原爆の被害にあった
原爆ドームが見える。建物が原爆ドームとして歴史の証として今も保存されている。
新しい町に残る原爆ドームに想像力を駆り立てる。
ここから平和教育の原点、分断国家の統一に向けて議論する第1歩が見えるだろう。
政治に関与しないこと。父の声が後ろから聞こえてきそうだ。
在日韓国人として感想を述べるのがここまでしかできない。
日本植民地時代、日本政府に翻弄された体験、そして祖国が分断国家になったことで民族の悲哀を味わってきた生き様がそうさせているのだろうか。
そして日本の法的地位、制度的問題、韓国からは海外同胞と言われていても韓国語ができない韓国人。日本人になったとかマイナスイメージで語られることが多く悪い言葉で韓国に捨てられた棄民族と陰口を叩く人もいる。
そして「半日本人(パンチョッパリ)」とも言われた。
現在は韓国に行っても「半日本人」と言う言葉聞くことは少なくなった。
韓国の空港に行っても韓国語ができないと入国管理局の職員は無碍にすることも少なくなった。(地方にいくとまだそんなところもあると聞いている)
私が1988年5月、初めて韓国に行った。金浦国際空港で入国するとき職員が韓国語で「韓国人なのになぜ韓国ができないのか」と言われて私は日本語で「子どもの頃差別を受けていたのに韓国語を勉強することができなかった。今勉強している」と早口で言ったが職員は日本語を理解していたのだろう。「アラッタ、アラッタ(分かった、分かった)」と言った。
何年かして息子が初訪韓したときもそうだった。そのときは前記に記述したように言ったらといいといった。案の定、私と同じだった。
そんなことで日本人が韓国に行くと「ようこそ韓国に来て下さいました」と歓迎するのに在日韓国人の2・3世はこうしたことをたくさん体験してきた。
また在日韓国人の女性たちばかりで韓国に行ったが1人、韓国語が流暢に話せる人がいた。そしたら入国するとき金浦国際空港で職員が「なぜそんなに韓国語が話せるのか。総連に関係しているのか」と言われて彼女は「民団の会館で長い間韓国語を勉強している」と話して入国ができたという。
彼女は一時、総連にいたこともあったが北朝鮮の政治体制に疑問を持って韓国籍に切り替えていた。
韓国語が下手でも上手でも1990年代前半まで在日韓国人に対する差別的感情があった。
今も在日同胞社会の知らない韓国、現地の人は差別するが彼らたちは日本に来たことがないので理解できないのだろうと思うようにしている。
そして北朝鮮が核実験を実施した。
世界は制裁事項に賛成する国が増えてきた。
今朝の韓国の新聞、朝鮮日報では中国にある北朝鮮関係の銀行の口座が凍結されて貿易業者らが大変なことになっていると記事がでていた。
いよいよ大変なことになっている。
在日同胞そして韓国の戦前生まれは日本の広島・長崎の原爆投下を知っている。見たことがなくても各情報から知っている。
日本で被爆した人も帰国している。北朝鮮に帰国した人もいたのではないだろうか。
そして在日同胞子弟は日本公立学校に学んでいても民族学校に通学していても人権・平和教育から小・中・高校を通して広島・長崎のどちらかに1度は修学旅行などで広島・長崎の原爆資料館を訪ねている。
見学をしてその生々しい物件を見て原爆は絶対にいけない。戦争は絶対にしてはいけないと肌で感じ取っていく。
韓国には日本植民地支配時代の歴史、独立記念館があり朝鮮動乱の戦争記念館がある。これらの施設を通して日本植民地時代、分断国家のあり様を実感していく。
しかし原爆資料館はない。(もしあるとすればどこにあるのだろう。一般者も見学できるのだろうか。勉強不足だったら申し訳ない)
韓国に原爆資料館がなかったら韓国の戦後生まれは「核」というものがどれほど恐ろしい物であるか肌で感じ取ることができない。机上の教育で想像しかない。
そんなことで日本で生まれて日本で育った在日同胞、1世も原爆体験、被爆者もいる。2世たちも修学旅行などで原爆資料館を訪ねて肌で恐ろしさを体験している。3・4世も続いて人権・平和教育の中で行なわれている。
私は高校2年の3月、春休みに入る前、北九州に修学旅行をした。
長崎原爆資料館を訪ねた。
ガラスの破片がささった人間の手、弁当箱の歪みの異常などたくさんの原爆被害を見て原爆の恐ろしさを肌で体験した。
在日同胞は日本社会で外国籍として制度補償もなく生きることになったときに1世たちは日本政府に対して運動、運動、権益擁護運等をして勝ち取ってきた。しかしまだまた解決されなくて今だに運動している事柄がたくさんある。
ただ在日同胞は本国人と違って客観的に物事を見る訓練を培ってきた。
ただ日本社会で言葉に出すということは自分にとってどうなるのかと考えて黙って見ている。
中立を保つということは客観的に物事を正視する思考を養ってきた。
そんなことで韓国の戦後生まれの人たち、古代朝鮮の渡来文化を訪ねるのもいいでしょうが同じ日本を見るなら戦争加害者で被害者でもある原爆投下の被害を受けた広島・長崎の原爆資料館に訪ねてもらいたい。
日本植民地支配の事柄を学ぶことも大切だが北朝鮮が核保有と言われてから何年もたっている。こうした教育に重点が置かれてきたのだろうか。私は今懸念をする。
そうすれば「核」というものがどれだけ恐ろしい物であるか気づくことになる。
政治のことは何も話せないが「核」を通して広島・長崎、世界で始めて原爆の被害のあった町、広島・長崎を訪ねてもらいたい。
広島に行くとチンチン電車がある。チンチン電車に乗ると原爆の被害にあった
原爆ドームが見える。建物が原爆ドームとして歴史の証として今も保存されている。
新しい町に残る原爆ドームに想像力を駆り立てる。
ここから平和教育の原点、分断国家の統一に向けて議論する第1歩が見えるだろう。
政治に関与しないこと。父の声が後ろから聞こえてきそうだ。
在日韓国人として感想を述べるのがここまでしかできない。
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