電話をかけたりかかってきたりメールの送受信の対応しているとあっとい間に11時過ぎになる。
昼食の準備をして昼食をしながらテレビを見ているが11時半にいったんテレビを切ってバソコンの前に座るとまた送受信の対応していると12時、朝6時半ごろからずっとパソコンの前に座っていたのでいったんパソコンから離れて昼寝をした。昼寝をしていても電話が固定電話も携帯もよくかかる。
やっと居眠りをしたのが1時15分後ごろ、1時間ほど居眠りをしたのでおきてパソコンの前に座って仕事の原稿の作成をする。
資料は全部ハングル、読めても意味が理解できない。
仕方がない。インターネットで検索すると日本語版の資料があった。これでまた時間がかかる。
そして取材メモを見ながら原稿を作るといつもの原稿よりやはり時間がかかった。
ということは韓国から赴任しておられる人は私が日本語で要件をFAXやメールで資料を送ると必ず電話で返事がくる。
韓国から赴任しておられる人も日本語が読めても書くのは苦手である。
私と反対に考えると当たり前のことである。
原稿が出来上がるともう5時半になっていた。
こんなに時間がかかったのか。そんなに長い原稿ではなかったのに現場はすべて韓国語、資料もハングル、肝心なところは知人に翻訳してもらった。
そんなわけで懇親会のときに韓国から来られている人は「一緒に食事しましょう」と誘って下さったが私はそーと違う席に1人座っておでんと枝豆と魚フライと春雨サラダを食べてそーとホテルをでてホテル前からタクシーを飛ばして難波に入って自宅にもどった。
みんなと一緒に話をしながら食事をするものなのにと知人は話しておられた。その言葉はありがたいが奈良に早く戻って早く風呂に入ってゆっくりしたい。仕事といえどもある程度まですれば一目散に現場を出てくる。
40代の頃はこんな席にご相伴に預かるとよく一緒に行った。だから自宅に戻るのは当然11時過ぎていた。12時になることもあった。日刊紙の記者をしているときは家庭をかえりみない女性記者だった。
仕事が楽しかった。家庭が疎ましく思うことがあった。
しかし私の気持ちを変えたのは日刊紙の記者を退職した時だった。
もう仕事をやめてもいいと思った。
息子も大学を卒業させたので仕事に未練はあったがもういいと思った。
大学の聴講生になろうと思った。
このとき家庭があって夫がいたから仕事をやめてもいいと思うことができた。
家庭や家族のありがたみを心底わかり家庭第一にして自分のやりたいことをしていこうと決めた。
そしてまたいろんな人の助けがあって現在の仕事をしている。自宅から現場に行くことで自分のマイペースで仕事ができるようになった。それでも夜の現場もあったが自宅にいるときに家事ができて日刊紙のころのような多忙から解放された。それでもまだ50代の初めはみんなとの付き合いもした。カラオケにもよく行った。いつから夜でるのが嫌になってきたのだろうか。
55歳過ぎてからということもあるが若い記者が夜の現場をこなしてくれるようになって私は夜でることが大儀になった。
だから仕事の現場での夜の食事は仕事の中でも途中で退席している。だから関係者に言われている。「いつも途中で帰る」と------。
このごろはもう夜はゆっくり自宅で過ごしている方が気が楽である。
夫と喧嘩していても楽である。
あれほど仕事が楽しくて夜も昼もかけずりまわる私を見て夫はよく皮肉を言った。「俺より2倍も3倍も働いてなんで俺の給料の3分の1や」とよく言われた。
薄給だったのに苦にならないで大阪、京都、神戸、滋賀とまわり韓国の同行取材にもよく行ったのに今は多くもらったとしてもしんどい。しんどいということは年をとった証拠なのだろう。
それでも周りの人は私のこと元気、元気というがそんなに丈夫ではない体質なので時間があると1時間ぐらいは昼寝して休養をとるようにしている。丈夫そうに見えるがそうではない。見掛け倒しでそう長時間体力を使う仕事はできない。
私は若いとき30代の初め母親の仕事、2・3回手伝って小使いをもらったことがあるが3回目のとき2度と出来ないと思った。母親の商いは廃品回収業で倉庫が2つあって買った品物を倉庫にねかせて置くがその倉庫で整理作業をするが体力のいる仕事で1回すると2・3日寝込むほどしんどかった。
3回目のときに私はできないと考えて母親の家にアルバイトに行かなかった。
そんなことで風格は母親似なのに内臓は父親似でちょっと無理すると疲れがたまる。そう思うと母親は強い人だったなといまさらながら感心する。
父親は長い間、会社勤めをしていて定年退職をした。母親の仕事を少しでも手伝ってやろうと思って倉庫で整理するがその後体力が持たなくて寝込んでしまう。しまいに母親は「仕事はしないで家でじっとしていて」と言った。
そんな父親に私は不満を言うと「手伝ってもらって病気になってもらったらもっと大変、元気でいてくれるほうがええのや。もうええねん」と言ったことがあった。
そんな母親は後、弟に継がせても自分が築いた商いは気になって仕様がない。
弟のトラックの助手席に座ってかなりの年まで動いていた。それを見てまた父親は怒っていた。「もういいかげん家にいてゆっくりしたらええのに」と言っていたがまた反面、口うるさい父から解放されたくて外にでていたかもしれない。
けれど父親が病気で寝込んだときはずっと最後まで面倒見て看病した。
それはすごいと思う。
母親のたくましさをいまさらながら感心している。
無学な母なのに商才があったのか商いは好きだった。
昔の1世で儒教というのはよく知っていたし韓国の言葉の善悪も知っていた。
私が韓国を習い始めて頭のむことは「モリ」なのに「テガリ」と言ったら「どこでそんな言葉を覚えたのか。それは汚い言葉だから2度と使わないよう」と言った母親だった。無学だったがこんなことはよく知っていた。
韓国語を習い始めたときに同胞が使っていた言葉を口に出していったらすごい剣幕で怒られた。
しかし韓国語の資料で苦労する私、チョーンマル、ナップンマル(よい言葉、悪い言葉)も区別できるほど勉強すればこんなに資料で苦労することはないのにと反省している。しかし日本語を母語にする私は韓国語が難しい。
昼食の準備をして昼食をしながらテレビを見ているが11時半にいったんテレビを切ってバソコンの前に座るとまた送受信の対応していると12時、朝6時半ごろからずっとパソコンの前に座っていたのでいったんパソコンから離れて昼寝をした。昼寝をしていても電話が固定電話も携帯もよくかかる。
やっと居眠りをしたのが1時15分後ごろ、1時間ほど居眠りをしたのでおきてパソコンの前に座って仕事の原稿の作成をする。
資料は全部ハングル、読めても意味が理解できない。
仕方がない。インターネットで検索すると日本語版の資料があった。これでまた時間がかかる。
そして取材メモを見ながら原稿を作るといつもの原稿よりやはり時間がかかった。
ということは韓国から赴任しておられる人は私が日本語で要件をFAXやメールで資料を送ると必ず電話で返事がくる。
韓国から赴任しておられる人も日本語が読めても書くのは苦手である。
私と反対に考えると当たり前のことである。
原稿が出来上がるともう5時半になっていた。
こんなに時間がかかったのか。そんなに長い原稿ではなかったのに現場はすべて韓国語、資料もハングル、肝心なところは知人に翻訳してもらった。
そんなわけで懇親会のときに韓国から来られている人は「一緒に食事しましょう」と誘って下さったが私はそーと違う席に1人座っておでんと枝豆と魚フライと春雨サラダを食べてそーとホテルをでてホテル前からタクシーを飛ばして難波に入って自宅にもどった。
みんなと一緒に話をしながら食事をするものなのにと知人は話しておられた。その言葉はありがたいが奈良に早く戻って早く風呂に入ってゆっくりしたい。仕事といえどもある程度まですれば一目散に現場を出てくる。
40代の頃はこんな席にご相伴に預かるとよく一緒に行った。だから自宅に戻るのは当然11時過ぎていた。12時になることもあった。日刊紙の記者をしているときは家庭をかえりみない女性記者だった。
仕事が楽しかった。家庭が疎ましく思うことがあった。
しかし私の気持ちを変えたのは日刊紙の記者を退職した時だった。
もう仕事をやめてもいいと思った。
息子も大学を卒業させたので仕事に未練はあったがもういいと思った。
大学の聴講生になろうと思った。
このとき家庭があって夫がいたから仕事をやめてもいいと思うことができた。
家庭や家族のありがたみを心底わかり家庭第一にして自分のやりたいことをしていこうと決めた。
そしてまたいろんな人の助けがあって現在の仕事をしている。自宅から現場に行くことで自分のマイペースで仕事ができるようになった。それでも夜の現場もあったが自宅にいるときに家事ができて日刊紙のころのような多忙から解放された。それでもまだ50代の初めはみんなとの付き合いもした。カラオケにもよく行った。いつから夜でるのが嫌になってきたのだろうか。
55歳過ぎてからということもあるが若い記者が夜の現場をこなしてくれるようになって私は夜でることが大儀になった。
だから仕事の現場での夜の食事は仕事の中でも途中で退席している。だから関係者に言われている。「いつも途中で帰る」と------。
このごろはもう夜はゆっくり自宅で過ごしている方が気が楽である。
夫と喧嘩していても楽である。
あれほど仕事が楽しくて夜も昼もかけずりまわる私を見て夫はよく皮肉を言った。「俺より2倍も3倍も働いてなんで俺の給料の3分の1や」とよく言われた。
薄給だったのに苦にならないで大阪、京都、神戸、滋賀とまわり韓国の同行取材にもよく行ったのに今は多くもらったとしてもしんどい。しんどいということは年をとった証拠なのだろう。
それでも周りの人は私のこと元気、元気というがそんなに丈夫ではない体質なので時間があると1時間ぐらいは昼寝して休養をとるようにしている。丈夫そうに見えるがそうではない。見掛け倒しでそう長時間体力を使う仕事はできない。
私は若いとき30代の初め母親の仕事、2・3回手伝って小使いをもらったことがあるが3回目のとき2度と出来ないと思った。母親の商いは廃品回収業で倉庫が2つあって買った品物を倉庫にねかせて置くがその倉庫で整理作業をするが体力のいる仕事で1回すると2・3日寝込むほどしんどかった。
3回目のときに私はできないと考えて母親の家にアルバイトに行かなかった。
そんなことで風格は母親似なのに内臓は父親似でちょっと無理すると疲れがたまる。そう思うと母親は強い人だったなといまさらながら感心する。
父親は長い間、会社勤めをしていて定年退職をした。母親の仕事を少しでも手伝ってやろうと思って倉庫で整理するがその後体力が持たなくて寝込んでしまう。しまいに母親は「仕事はしないで家でじっとしていて」と言った。
そんな父親に私は不満を言うと「手伝ってもらって病気になってもらったらもっと大変、元気でいてくれるほうがええのや。もうええねん」と言ったことがあった。
そんな母親は後、弟に継がせても自分が築いた商いは気になって仕様がない。
弟のトラックの助手席に座ってかなりの年まで動いていた。それを見てまた父親は怒っていた。「もういいかげん家にいてゆっくりしたらええのに」と言っていたがまた反面、口うるさい父から解放されたくて外にでていたかもしれない。
けれど父親が病気で寝込んだときはずっと最後まで面倒見て看病した。
それはすごいと思う。
母親のたくましさをいまさらながら感心している。
無学な母なのに商才があったのか商いは好きだった。
昔の1世で儒教というのはよく知っていたし韓国の言葉の善悪も知っていた。
私が韓国を習い始めて頭のむことは「モリ」なのに「テガリ」と言ったら「どこでそんな言葉を覚えたのか。それは汚い言葉だから2度と使わないよう」と言った母親だった。無学だったがこんなことはよく知っていた。
韓国語を習い始めたときに同胞が使っていた言葉を口に出していったらすごい剣幕で怒られた。
しかし韓国語の資料で苦労する私、チョーンマル、ナップンマル(よい言葉、悪い言葉)も区別できるほど勉強すればこんなに資料で苦労することはないのにと反省している。しかし日本語を母語にする私は韓国語が難しい。
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