アジア映画巡礼

アジア映画にのめり込んでン十年、まだまだ熱くアジア映画を語ります

関西放浪の目的は...

2015-04-05 | 旅行

関西放浪の続編です。関西に行った直接の理由は小学校6年生の時の同窓会(!)に出るためなのですが、関西放浪を思い立ったのは、ずっと前から行ってみたかった旧大阪外国語大学周辺のセンチメンタル・ジャーニーをしたかったからなのでした。

私が大阪市天王寺区上本町八丁目にあった大阪外大に通っていたのは、1967年から1971年まで。インド・パキスタン語科のヒンディー語専攻学生として、当時まだ大正時代の建物が残っていたオンボロ校舎などで学んでいたのです。本当に貧乏な大学で、「年間予算は国立大で下から3番目」と言われただけあって、4階に先生方の研究室があったビルはエレベーターもありませんでしたし、オンボロ校舎の教室は石油ストーブで暖を取る始末。その後東京外大の大学院を受験した時には、自分の大学基準で考えていっぱい着込んで行き、スチームの入った教室でのぼせたりしました。その次の年に東京外大大学院を受験した後輩も、受験日前日に校内を案内したら、「すごいね! この大学、エレベーターがありますね!」と感動していました(笑)から、当時の大阪外大がどんなにボロかったかわかろうというものです。


卒業から44年、大阪外大は今は箕面市に移転し、その後大阪大学に併合されて、もう大阪外大としては存在していません。上八の跡地は、立派な大阪国際交流センターになっていました。


周囲もすっかり変わり、時々ウルドゥ語の先生にお茶をおごっていただいた喫茶店進々堂ももうありませんでした。かろうじて、裏の上汐公園がそのまま存在していましたが、ここは大学紛争が続いて構内に入れなかった時、インド人の先生に授業をしていただいた場所でもあります。満開の桜を見ながら、あの頃もっときちんと勉強ができていたらなあ、といろいろ思い出してしまいました。


歓楽街という感じだった上六(上本町六丁目)もすっかり変わっています。大阪外大生行きつけの中華料理店南海飯店があったごちゃごちゃした一画も、すごいビルに生まれ変わっており、もし南海飯店が残ってたらあのうずらの卵が乗った中華丼が食べたい、と思っていた私の期待を打ち砕いてくれました。まあ、ほぼ半世紀前やもんなあ、しょうがないかー。


上のビルの向かいが近鉄デパートの入っているビルですが、近鉄デパートも様相が一変。でも、1Fが近鉄の駅なのは変わらずで、せんとくんがいました。そして、近鉄ビルの隣には新歌舞伎座が出現。全然雰囲気が変わってしもてるやん。あやしげな街やった上六、すごい変身ぶりです。


ただ、当時の名残りみたいな映画館も発見。上六シネマというポルノ映画館です。右の看板を拡大してみました。結構入場料は高いですが、カップル料金があったりと、さすが上六です。学生時代にはこのあたりに上六温泉というサウナというかあやしい入浴施設があって、あー、こんな所の前通って大学に行くのんイヤやなあ、と思いながら通っていたのでした。もちろんパチンコ屋や雀荘も多く、男子学生の中には上六で沈没し、上八の大学までたどり着けない人も。箕面市への移転は、交通は不便になりましたが、学習環境としては大正解だったのでした。


今回はこの上六にあるホテルに泊まったのですが、そのホテルの隣にはこんなお地蔵さんの祠がありました。左は1日目の朝、右は2日目の朝の写真です。2日目の朝には、20歳そこそこぐらいの青年が自転車でやってきておにぎりを供えていき、へー、と思いました。しゃけのおにぎりが2個あって、お地蔵さんしゃけ好きなんかいな、とちょっと不思議に思いましたが、大阪や京都はこういう小さな祠があちこちにあって、それが日常的な信仰の対象になっているのが素晴らしいです。


さて、その後の放浪は、西宮北口と神戸の友人宅を経由して、同窓会の行われる姫路へ。ご承知のように、白鷺城こと姫路城は平成の大修理が終わり、3月末にリニューアルオープンしたばかり。「あんまり真っ白すぎる~」「美白姫路城や~」「天守閣の下の木ィ切りすぎで、何や丸裸やで~」と不満も聞きましたが、オープン当日の盛り上がりぶりは語りぐさになっていました。グランド・オープンの3月27日はすごい人出だったそうです。自衛隊のブルーインパルスもやってきて、空に桜やらハートやらのマークを描いたとかで、友人やタクシーの運転手さんから「見ましたか?」とたびたび聞かれました。

友人たちによるとお城を撮る撮影ポイントはいくつかあるとかで、地元民が勧める第一は大手前公園のすぐ南にあるイーグレひめじからの眺め。真っ正面に見え、しかもかなり大きく写せます。あと、お城の東側に桜がいっぱい咲いていたので、そこからも撮ってみました。


というわけで、にわか歴女になったような関西放浪の旅でしたが、おいしいものもいっぱい食べられて、大満足でした。お世話になった関西の皆様、『女神は二度微笑む』は4月11日(土)から京都シネマで、また神戸のアートビレッジセンターでは近日中に上映される予定です。ぜひお見逃しなく~(同窓会でもチラシ配ってきた)。



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9 コメント

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Unknown (パゴール)
2015-04-06 04:21:19
な、なんと濃い関西放浪記・・・
上六はずいぶん変わったのですね~~

cinetamaさんが上六をさまよっている同時期、
ワタシは天王寺と新世界をさまよっておりました。

DDLJの情報をありがとうございます!
大好きな民博での上映、夏は大阪行きと決まりました。せやけど夏の大阪は暑い~~~~
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パゴール様 (cinetama)
2015-04-06 22:54:31
コメント、ありがとうございました。

お返事を書いたつもりが、なぜかアップしていませんで。
大阪では、地下鉄谷町線に乗って天満橋駅を通った時に、パゴールさんのお顔がうかびました。
大阪はですねー、人の流れが右とか左とか決まってなくて、地下街を歩く時や階段の上り下りで結構往生しました。
東京みたいに、矢印とか書いておいてくれるといいのに~。

新世界のジャンジャン横町や今里、布施、石切など、よく行った場所にもっと行きたかったのですが、また次の機会にします。
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Unknown (Np)
2015-04-08 13:56:19
上六、上八の今を懐かしく拝見しました。南海飯店の中華丼は美味しかったのを覚えています。長崎から上阪した私は皿うどんとチャンポンはよく食べていましたが、長崎で中華丼を食べた記憶はありません。上八からバスで杭全町行きや喜連住宅行きに乗っていたので、また乗ってみたいです。鶴橋駅のバス停では回数券をばらして売っている人がいました。寒い雪の日にこのブログを読めてよかったです。
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Np様 (cinetama)
2015-04-08 14:58:57
コメント、ありがとうございました。

南海飯店をご存じとは!
貧乏学生だった私たちは、中華丼を注文する時「あと餃子1人前も」と言ってウェイトレスのお姉さんに「餃子イーガ(一個)」と言ってもらうと、ああ、今日は金持ちや~、と満足感を味わったものです。

杭全(くまた)町行きのバスは憶えていますが、喜連住宅行きてどこやったかいな、状態です。

回数券は、バスの中に回数券の自動販売機があり、揺れる中で足を踏ん張りながら購入した憶えがあります。
それをばらして売っている人がいた、ということは、私がいた頃と同時代頃においでになったのでしょうか。
鶴橋は数年前に行きましたが、韓流ブームでとてもきれいになっていました...。
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懐かしの上八校舎とその周辺 (やまもも)
2015-10-06 18:25:22
cinetamaさん、はじめまして、やまももと申します。

ネット検索で「大阪外大 天王寺区上本町八丁目」で検索していましたら、貴サイト「アジア映画巡礼」にお書きになった旧大阪外国語大学周辺のセンチメンタル・ジャーニーの記事が幸いヒットしました。在学期間が私と全く同じ「1967年から1971年」とのこと、いまは跡形もなくなった懐かしい上八校舎やその周辺の様子を回顧しての旅を興味深く読ませてもらいました。

Unknownさんも「南海飯店の中華丼は美味しかった」と書いておられますが、バイト料が入ったときぐらいしか食べに行けませんでしたが、美味しかったという記憶だけは鮮烈に残っています。

拙ブログ「ポンコツ山のタヌキの便り」に最近母校のことを書いていますのでお暇なときにでも御覧いただたいと思います。
    ↓
  http://plaza.rakuten.co.jp/yamamomo02/
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やまもも様 (cinetama)
2015-10-06 22:51:47
コメント、ありがとうございました。

ブログも拝読しました。
で、入学式に毛沢東派の人たちと、日本共産党派の人たちの両方が乱入してきたことを思い出しました。
今、学生たちに中国映画史の授業をして、「接見紅衛兵」なんていうドキュメンタリー映画をチラと見せたりしていると、当時のことがよみがえったりします。

あと、伊地智先生、相浦先生のお名前を拝見して、お顔が浮かんできました。
私は他の学科でしたが、なぜかお二人のお顔は見知っていて(まあ、小さな大学でしたから。ほかにも朝鮮語の塚本先生、ドイツ語の八木先生、牧先生、英語の正木先生、ロシア語の武藤先生に田中先生、法橋先生など、結構他学科の先生もお顔が浮かびます)、特に伊地智先生は学生部長だかをしておられたので、あの塩辛声(スミマセン)まで思い出されます。

そんな中でインド・パキスタン語科の先生方は、古賀先生、桑島先生、故谷村先生、加賀谷先生、浜口先生、マーラヴィーヤ先生などなど、皆さん優れた方ばかりで、今も尊敬しています。
大学で学んだヒンディー語で現在も食べていけるので、まあいろいろありましたけど、本当にありがたい大学生活だったのでした。

そうそう、南海飯店の中華丼&餃子と共に、近鉄食堂のカツカレーも、ハレの日のメニューでした(笑)。
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母校の誇り陳舜臣さん (やまもも)
2015-10-07 21:20:03
cinetamaさん、こんばんは、やまももです。

拙ブログを拝読していただき感謝に堪えません。

大学で専攻されたヒンディー語を仕事に立派に活かされ、また大学ではアジアの映画関連の講義をされているとのこと、素晴らしいことですね。なお、母校の他学科の先生方は、学長、学生部長などの役職をされた方以外は残念ながらほとんど存じ上げません。

今日(10月7日)、拙宅に母校の同窓会誌『咲耶』26号が届きましたが、4頁に渡って今年1月に他界された陳舜臣さんを特集していました。言うまでもなく、陳舜臣さんは1943年に母校の印度語部を卒業され、校内に設置された西南亜細亜語研究室に助手として勤務されていましたが、日本の敗戦により国籍が中華民国籍となり退職、家業の貿易に従事されながらミステリー、歴史小説等の著作活動で活躍された方ですよね。司馬遼太郎さんとともに母校の誇りですね。

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南海飯店ありますよ! (Shoo)
2018-05-18 10:10:19
Web放浪の果てに到着、懐かしさいっぱいで読ませていただきました。ほぼ同時期1968入学のK語生です。上六で沈没し上八にたどり着くまでに7年もかかってしまいました。上六から上八まで遠いこと、遠いこと。で、投稿したわけは、南海飯店のこと。ハイハイタウンに入居していて健在です。2年ぐらい前、大阪に立ち寄った時行ってきました。中華丼も餃子も当時そのままの味でしたよ。Webもありますよ。https://nankaihanten.jimdo.com 次行かれた時は是非お寄りてください。残念なのはMJB珈琲がなくなったこと。それと一つ訂正。上六温泉ではなく、昭和そのものの名称上六トルコですよ。最後にひとつ。狭い学校なので多分お顔を会わしているかと存じますが。機会があればお目にかかりたいですね。
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Shoo様 (cinetama)
2018-05-18 12:56:11
コメント、ありがとうございました。
ずいぶん前の記事ですのに、読んで下さってありがとうございます。

南海飯店の健在ぶりも教えて下さって感謝、です。
HPを見てみたら、50年前と変わらない出血大サービスぶり。
そのライスの盛りの良さはすごいですねー、と思わずHPにつぶやいてしまいました。
ここのところなかなか関西に行く機会がないのですが、今度行くことがあったら寄ってみます。

K語科の皆さんは、確か体育の授業が一緒ではなかったので、ほとんどお顔を存じ上げません。
前にコメントに書いた塚本先生だけは、凄みのある先生やな~、と当時思ったのと、その後辞書を出されたのとで、よく憶えています。
K語はその後、2004年以降の韓流ブームで花形外国語になりましたね。
拙ブログでは韓国映画もよく取り上げていますので、またご覧になってみて下さい。
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