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鼓曲萬来

昭和の日(釜山港に帰れ) 改

 

昭和の日に 4/29
 
僕の叔父は三桂令二(名和治良)といって母の弟にあたる
当時の東芝音楽工業のディレクターとして越路吹雪、加山雄三といった
看板スターを担当して
裕也さんを神戸から連れてきてヤングワンを日本語で歌わせたのも叔父だ
 
僕は叔父が大好きで、会社から近くに家があったので
ちょくちょく顔を出してくれるのが本当に嬉しかった
使わなくなったドラムセットをくれたのも、制作している歌手を家に連れてくるのも
又、当時買えなかったレコードを何枚も持ってきてくれるのも
いつもこころ待ちにしていたのだ
 
あの黒いはなびらの第一回レコード大賞歌手の水原弘にかなり強引に
「君こそわが命」を歌わせて
(なんでもレコーディングは虚飾を捨てろといわんばかりに、
水原弘を裸にさせたとか)
八代亜紀を「舟歌」でカンバックさせた時も、
キャンペーンもかなり派手で
仕事のはねた後に家にやってきて音楽が全く解らない僕の父と
「お兄さん」、と言って一緒に飲んでいる姿は忘れられない
 
で、そんな華やかな肩で風切るような状況とは別に
昭和のイメージとでもいおうか
僕にとっての昭和のイメージは叔父によって作られたといっても過言ではない
 
で、本題に入るけれど
叔父は当時、韓国の女性と付き合っていて、その方と結婚した
今ほどの嫌韓、ヘイトといった状況ではなかったにせよ
親戚中からバッシングを受け、親戚方から総スカンの状況
そんな中で母だけが叔父の理解者で
母の事を「お姉さん、お姉さん」とその女性も家に来るようになった
 
と同時に叔父は新しいチャレンジに入っていったのだ
韓国の歌は日本ではヒットしない
そんな事がいわれていたのだけれど
叔父はここも又なかば強引に社内を根回しして
自らで日本語の詞を書き上げ
リリースしたのが「釜山港へ帰れ」だった
 
僕は叔父がそんなプレッシャーを受けながらも
かなりの過酷な日々を過ごしていたのを
中学生ながら「どうしてあんなに周囲の人とぶつかるんだろう?」
と正直、もっと楽にやればいいのにとさえ思っていた
 
或るときに叔父が家に泊まる事になって
僕の部屋で話せる機会が出来た時に色々と質問した
僕もバンドを始めた頃だから
色々と参考になる意見を貰おうとでも思ったのかもしれない
 
叔父はこんな事を僕に言った
 
誰でも身体に馴染んだもの、耳に聞き覚えのある音
昔から肌に馴染んだもの
そんな物を聞いたり演奏したりするのが一番気持ちが良いもんだろ
 
だけど、リスナーではなく制作者はそれを踏まえつつ
新しいものにチャレンジしていかなくてはならないんだ
たとえ、それが最初、受け入れられないものや
全く馴染みがないものであってもだ
 
今、ポルトガルのファドっていうのが好きでね
それに、よしみ、いいか、これからカラオケという時代になっていく
 
そうなると歌のうまい連中は沢山大衆の中から出てくるだろうし
外国の人たちが歌えるような日本の歌も必要となってくる
そんな視点で音楽を作っていくといいよ....と
 
いまから50年以上も前の話だ
その時は正直言ってカラオケって何?
ビートルズに夢中だった自分は演奏して歌うといったものしか認めなかったけれど
叔父の考えは僕には理解できなかったのも確かだ
 
叔父は9年前に亡くなった
光と影というか
「カスマプゲ」にしろ「釜山港」にしろ
何故あれほど周囲とぶつかってでも精力的に動いたのか
 
今のこの隣国との状況を叔父は生きていたらどのように思うのだろうか
偏見なく素直に聞いてみたい
 
当時の芸能界の影の部分は叔父の背中に
確かにやばい部分も含めてびっしり貼り付いてはいたけれど
 
グループサウンドや日本のロック、シティーポップ以前の
そんな叔父のイメージこそが、僕の昭和のイメージそのものである。
 
もう誰もこの時代の音楽については知る人もすくなくなっていくだろうけど
叔父の事は何故か無性に書きたくなったのだ
 
昭和の日......。
 

【 釜山港へ帰れ 】



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