金曜日のダンスクラスでは、しばしばピアノを弾きながらレッスンする。水曜のオイリュトミークラスはクラシック音楽が主なのでピアニストを頼むが、このクラスはインプロビゼーションが主なので音楽にも即興性が欲しくて自分で弾く。感覚と感覚のやりとり。感性に的を絞った時と場所。このクラスはそんなふうにしたい。伴奏というより、音でリズムで旋律や和音で踊る人に語りかけたり促したり共感したり、時には敢えて異和感を出して刺激したり問いかけたりする。具体的なアドバイスには言葉や動きも発するが、それ以上にダンスには音楽で語りかける必要を強く感じる。ダンスは右脳の芸術だ。踊る肉体や美意識は音楽によって育てられると僕は実感している。言葉を踊る時でさえ、ダンサーは言葉の奥にまどろむ音楽性に身を開く。ダンスにとっては言葉も形も色彩も空間も全ては響きであり音楽なのではないかと、僕は体験している。音楽とダンスには境目がない。
僕自身、音に身体を育てられた記憶が強い。中学まで体操をしていたが、ある時から何故か音楽にのめり込んで打楽器を学んだ。やがて踊りたくて仕方なくなっていた。ダンサーとして舞台を踏むようになって、あるピアニストと親しくなり、毎月一度の即興セッションを一年間やったが、そこから得たものは絶大で今の現在に道をくれた。劇場公演を止めて「プライベートセッション」という名でスタジオパフォーマンスを繰り返した。素のスタジオにグランドピアノと身体だけ。打ち合わせ無し。入場料なし。完全即興の演奏とダンスをしたあと観客とトークセッション、その繰り返しを淡々と一年間。苦しくもあったが、それは脱皮の時期だった。音に心身を開く、というより、音が心身を叩き破き変える、という体験だったと今思う。素直さ、しなやかさ、いさぎよさ、それらを音は呼びかけてくる。ダンスとは関係であると、関係から自由は生まれてくると、音は語りかけてくる。そんな体験だった。例えばそんな具体例も含めて、僕は音や響きとの関わりから心身が開き自由が動き始めると信じている。ヴァイブレーション。現場。変化。流動。共振。
そんな様々を感じ思いながら、レッスンの時間を過ごした。早く次をやりたい。
僕自身、音に身体を育てられた記憶が強い。中学まで体操をしていたが、ある時から何故か音楽にのめり込んで打楽器を学んだ。やがて踊りたくて仕方なくなっていた。ダンサーとして舞台を踏むようになって、あるピアニストと親しくなり、毎月一度の即興セッションを一年間やったが、そこから得たものは絶大で今の現在に道をくれた。劇場公演を止めて「プライベートセッション」という名でスタジオパフォーマンスを繰り返した。素のスタジオにグランドピアノと身体だけ。打ち合わせ無し。入場料なし。完全即興の演奏とダンスをしたあと観客とトークセッション、その繰り返しを淡々と一年間。苦しくもあったが、それは脱皮の時期だった。音に心身を開く、というより、音が心身を叩き破き変える、という体験だったと今思う。素直さ、しなやかさ、いさぎよさ、それらを音は呼びかけてくる。ダンスとは関係であると、関係から自由は生まれてくると、音は語りかけてくる。そんな体験だった。例えばそんな具体例も含めて、僕は音や響きとの関わりから心身が開き自由が動き始めると信じている。ヴァイブレーション。現場。変化。流動。共振。
そんな様々を感じ思いながら、レッスンの時間を過ごした。早く次をやりたい。