吉本新喜劇の礎を作り上げた“奥目の八ちゃん”の愛称で親しまれた岡八朗さんが、26日呼吸不全のため亡くなった。 67歳だった。
大阪で22歳まで過ごした僕にとっては、吉本新喜劇をその当時の生活の中で、これを除いて語れないくらい大切な時間だった。
ボケとツッコミの文化(少なくても僕にとっては)は、この吉本新喜劇がベースで構築されたといっても過言ではない。 そのくらい生活の中に浸透していた。
まだまだ漫才ブームなんてなく、やすきよの時代も到来する以前の、この岡八朗、花紀京、平参平を中心とした新喜劇にはかなり強い影響力があった。
当時の梅田花月にはよく行った。 なにせ自宅から子供の足でも歩いていける距離にこの花月はあった。 その花月の前の信号で、まだ駆け出しの頃のやすきよやコメディー№1やカウスボタンをよく見たものだ。 紳助やさんまなどはまだまだ下っ端でその存在も薄かった。 やすきよの西川きよしも新喜劇の舞台を踏んでいる。
まあその舞台はほんとコテコテの上方芸人の溜まり場のような場所で、しかもお決まりでお約束のコケには、わかっていても毎回大爆笑していたもんだ。
岡八朗は、この新喜劇の黄金時代を築き、「くっさ~」、「どっからでもかかってこんかい」など、ホント多くのギャグを生み出し、客を笑いの渦に誘い込んだ。 舞台の上での花紀京との絡みは、本当に楽しかったし、天然の花紀京の“間”にお笑いのプロである彼がウケていたことも記憶にしっかり残っている。 真面目さから来るおかしさが彼にはあった。
大阪で22歳まで過ごした僕にとっては、吉本新喜劇をその当時の生活の中で、これを除いて語れないくらい大切な時間だった。
ボケとツッコミの文化(少なくても僕にとっては)は、この吉本新喜劇がベースで構築されたといっても過言ではない。 そのくらい生活の中に浸透していた。
まだまだ漫才ブームなんてなく、やすきよの時代も到来する以前の、この岡八朗、花紀京、平参平を中心とした新喜劇にはかなり強い影響力があった。
当時の梅田花月にはよく行った。 なにせ自宅から子供の足でも歩いていける距離にこの花月はあった。 その花月の前の信号で、まだ駆け出しの頃のやすきよやコメディー№1やカウスボタンをよく見たものだ。 紳助やさんまなどはまだまだ下っ端でその存在も薄かった。 やすきよの西川きよしも新喜劇の舞台を踏んでいる。
まあその舞台はほんとコテコテの上方芸人の溜まり場のような場所で、しかもお決まりでお約束のコケには、わかっていても毎回大爆笑していたもんだ。
岡八朗は、この新喜劇の黄金時代を築き、「くっさ~」、「どっからでもかかってこんかい」など、ホント多くのギャグを生み出し、客を笑いの渦に誘い込んだ。 舞台の上での花紀京との絡みは、本当に楽しかったし、天然の花紀京の“間”にお笑いのプロである彼がウケていたことも記憶にしっかり残っている。 真面目さから来るおかしさが彼にはあった。
とにかく私生活では無類の酒好きだったようで、若いころから結核、痛風のほか、胃がんで胃を全摘したそうです。 また芸能生活40周年記念の舞台の前夜に酔って転倒し、脳内出血で緊急入院したこともあるそうです。
息子さんが30歳の若さで肝硬変のため急死。 それを機に芸名を「八郎」から「八朗」に改名していた。 彼の出世弟子にはオール阪神・巨人がいる。
このニュースを聞いたとき、子供の頃の大切な想い出が、大きく切り取り去られた寂しさと苦さが去来した。
ご冥福をお祈りすると共に、「八ちゃん、おおきに!」と叫びたい!
また、立ち寄らせていただきます。
こちらからもTBさせていただきます。
映画100本はすごいですね。
私は頑張っても映画館では20本です。
またお邪魔させていただきます。
こちらからもTBさせていただきます。
ご冥福をお祈りいたします。
是非また覗いてみて下さいね^^
参平さんですね(笑)
あの頃は吉本新喜劇、黄金時代でした^^
ふたたびありがとうございます^^
映画中心のブログなので、参考になれば幸いです!
また覗いてみて下さいね^^
また一つお笑いの火が消えて寂しいですね><
花紀京は天才(肌)で、この人はほんと、
マジメさが滲み出ていましたね。
「酒も女も、芸の肥やし」と言い放つ世代、
あたしもkyoto離れたし、もう長いこと
TVでもお目にかかっていなかったのですが、
病的に痩せてらっしゃいましたね。
本人さんは、食いのない芸人人生だったのでしょうね。
ご冥福をお祈り致します。
合掌
やはりなくてはならない人でした!吉本には。
若い人に道を譲って、自分たちは別の世界へと進んで行かれたのですが、
天国できっと、今度はのんびり笑いをとっていることでしょう^^