daddy-kのいきあたりばったりⅡ

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続 月の沙漠~砂漠サ日コ落ちて

2023-09-08 | 音楽つれづれ

月の影に見える部分は国によってカニだったり、吠えるライオンだったりするそうですが、日本の多くの地域はウサギの餅つきに見立て、これはお隣韓国も同じだそうですが。

沖縄の民話ではウサギではなく水桶を担いだアカナーという少年で、お月様に助けられたお礼に水汲などのお世話をしていて、沖縄の子供達はアカナーを月の世界の人と言い、真っ赤な夕焼雲を見るとアカナーの家が火事になったと言って「アカナーの家やけたんど 泣ちゅる童は水汲ませ 泣かぬ童は鐘打たせ」と歌ったそうです。(採集:喜納緑村/日本の民話26:未来社より)

一方、北海道のアイヌの民話にはひどい怠け者の息子が出て来て、その罰としてカムイ(神)たちにより月に閉じ込められ、柄杓を片手に佇んでいる。という話があり、北と南とで「水」「少年」という共通項があったのにはびっくりしましたが。 ※アイヌ民族文化財団ホームページより「月に閉じ込められたなまけ者」  https://www.ff-ainu.or.jp/children/files/kamui02.pdf

 

「月の沙漠」の続きで、月と砂漠の話をもう少しだけ。

昭和初期の歌謡曲で二村定一が歌った「アラビヤの唄」は、♪ 砂漠に陽が落ちて 夜となる頃 恋人よ懐かしい 唄をうたおうよ~ と歌われ大ヒットしたそうで、戦後もたまにラジオから流れていた記憶があり、元歌はアメリカ映画「受難者」の主題歌だったそうです。

もっとも私は「さ~ばく落ちて…」という、私の父よりもう少し上の世代が口ずさんでいた東北替え歌バージョン?で印象に残っているのですが。

同じ頃ですか「酋長の娘」という歌もヒット。やはり私のオヤジ世代が「私のラバ(lover)さん 首長の娘…」と歌っていましたし、戦後では「ミネソタの卵売り」(笑点で林家木久扇のネタの一つ)や、「桑港(サンフランシスコ)のチャイナ街」など、こうした世界が舞台の気宇壮大な(?)歌謡曲がそこそこありましたねぇ。

 

月や星の話に限ると稲垣足穂は好き。綺麗に光ったものを拾ったら死んだ星だった…とか、黒猫の尻尾を切ったら悲鳴が上がり、ホーキ星が逃げて行ったなどの掌中小説「一千一秒物語」。

砂漠の中に神々の都を模して造られたバブルグンド、その興亡と併せ巡る星と月。純白の大理石の敷石の街、贅沢品を扱う店、赤い衣のキャラバンの行列…そんな幻想的なシーンが浮かぶ「黄漠奇譚」とうい中編も、西アジアのエキゾチックなムードが伝わり好きでした。

見た事の無い沙漠や、そこを照らす月灯り。そんなエキゾチックな幻想に合う絵で思い出すのが、ルソーの「眠るジプシー女」

ルソーの説明では「放浪するマンドリン弾きの女が疲れて壷の傍で眠る。通りかかったライオンが女の匂いを嗅ぐが食べようとはしない。それは詩のような月の光のせいである」と。

 

子供の頃に母に手を引かれ、夜道を急ぐときふと見上げたら満月だった。

そんな想い出があったような、無かったような気にさせられ、月はときに幻想的に、ときにルナティックに。

ソロ・キャンプをして、酒を片手にそんな輝く満月と星空を見上げてみたい。そんな難しい話では無く、オーロラを見に行くとかよりすぐに実行出来る小冒険のはずが、なかなか踏み出せなくて…道具は一応揃っているのですけどねぇ。酒代と(?)行動力が…。

※2019年9月にteacupに書いた「砂漠に陽は落ち~黄漠奇譚」を加筆し再掲載しました。