むかしの話なので記憶は曖昧ですが、歌舞伎役者は家柄が全てだから、たとえ大根でも周りが引き立てくれて格好がつき、二代三代目と名人が出来上がるが、噺家は個人の力量が全てだから、名人が二代続いた試しがない…みたいな話を読んだ事があります。
もっとも陰で大根と言われた役者が今の際に、自分の力量がわかるのに何代目と言われて生きるのは辛かったと言ったという話もあるし、落語では志ん生の息子の馬生、志ん朝が共に名人でしたし、今は馬生の孫の小駒(金原亭)がどう成長するかが楽しみですが。
さて1965年2月20日付でビルボード№1となったのが、ゲイリー・ルイスとプレイ・ボーイズの「恋のダイヤモンド・リング」でした。
ゲイリー・ルイスと聞いて、ああジェリー・ルイスの息子と思い出す人は、もうそう多くはないと思いますが、父親のジェリーは、コメディアンとして飛ぶ鳥を落とす勢いの有名人だった… と言うと、ああ二世タレントね?と。
なんだ親の七光りかと思いますが、確かに母親が費用を工面しKey.Bにレオン・ラッセルなどを動員し、父親はエド・サリバン・ショーに出られるよう画策…等の逸話※を聞くと、やっぱりねぇと言う気もするのですが、それもバンドにそれなりの力があってこそ。
親の身になってみると、子供にしてやれる最大限の事をと思うのは当然ですし、子供は親を選べず生まれて来た以上、最大限に利用するのも当然の話ですしね。
などと貧乏人のヒガミ丸出しですが、バンド自体は軽くサラッとしていて嫌いじゃなかったです。私が好きなのは彼ら5枚目のシングルとなった「あの娘のスタイル」で、ビーチ・ボーイズのマイク・ラブみたいなバスVoからBメロに移る所が好きでしたからね。
後にゲイリーがインタビューに答え、「あの曲はビーチ・ボーイズを真似ようと思った」と語ったそうですが 納得。私はB.B(baby boomers)世代の生まれですが、B.BをBeach Boysと置き換えても良いくらい好きでした。
そうしたビーチ・ボーイズ・インスパイア系の、美しいハーモニーを響かせるバンドは、当時はアメリカは無論イギリスにも一杯いました。
日本でもブルー・コメッツの「マイ・オールド・タウン」もそんな感じの曲で、シングル発売も検討されたそうですが残念ながら見送り。もし…を言っても詮無いのですが、発売されヒットしていたら、日本のポップスにも別な流れが?…などとボンヤリ思うのです。
以上、BB世代オヤジの【聞きたい365日】 第394話でした。
※ビルボード・ナンバー1・ヒット(上) フレッド・ブロンソン著/かまち潤 監修 音楽之友社刊を参考にしました。