祁県映海戴氏心意拳倶楽部 公式ブログ

戴隆邦から脈々と受け継がれる戴氏心意拳。王映海伝戴氏心意拳の日本での伝承を行う祁県映海戴氏心意拳倶楽部の公式ブログです。

ライフワークとしての武術

2014-11-01 22:33:15 | 練習日記

Re: 目指すもの 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 5日(日)08時02分35秒 返信・引用 編集済


うさぎさんへ

> 九要論については、インターネット上にも探せば出てくると思いますので、調べて見てください。

実は以前にも探したことがあります。この時は「武術」に掲載されている「九大要論」で検索したのですが、ヒットしませんでした。今回「九要論」で検索すると、ヒットはするのでがいずれも中国語(だと思う)のサイトでした。

このへんが私の限界のようです(^_^;)。

> 安田さんは、多分私とは方法論も違う

くどいと言われそうですが方法論は習っている武術、老師、そして個人の環境や資質によって違ってくると思います。というか全く同じになったらそちらの方がビックリですね。
この違いを優劣論で語ることは時間の無駄ではないでしょうか。

土曜日に大阪在住のOさんとN先生が来て同じ場所で蟷螂拳の練習をしていかれました。練習の合間にチョコチョコ見ただけなのですが、「戴家拳に取り入れられている」蟷螂拳ですので、じっくり学べば戴家拳の理解を深めるヒントが得られる可能性があると思います。

Oさん!七月の全国大会頑張ってください。

「江戸庶民に恐れられた異能の忍者集団闇一族をも葬り去った伊賀忍法の秘術を遥かに凌駕することは勿論、近代市街戦においてならばアメリカの精鋭特殊部隊一個師団を撲滅しておつりのくる中国功夫功のみでなく、高い人格と見識を兼ね備えたうさぎさんにその人格と見識を認められた」M老師が「前祝会をしよう!」と提案されたぐらいですので、ぶっちぎりの優勝を確信しております。







優劣論 投稿者:土佐の光龍 投稿日:2013年 5月 5日(日)13時47分23秒 返信・引用


私も優劣意識、優劣論は意味がないと思っています。世の中には100%、絶対は存在しないし、あり得ないと思っています。優の中にも劣は存在するし、劣の中にも優は存在します。劣の中の優をいかに見出だしていくのか、優もまたしかりです。ここにも、陰陽論が働いていますよね。相手の武術の良い所を見つめ、また、自分の武術の悪い所を見つめる。そして、互いに補いつつ、同じ頂点を目指して行く。それが理想だと、私は思っています。





趣味の世界 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 5日(日)18時36分51秒 返信・引用 編集済


大部分の方は生活の糧を得る目的ではなく趣味として武術を楽しんでいると思います。

「爆弾を作って市街地で爆発させよう!」といった反社会的な趣味は許されるべきではないでしょう。

また、「体力と寒さには自信があるので、このゴールデンウィーク中のヒマラヤ登山は競泳パンツを着用しただけで挑戦してみよう」といったオリンピックの競泳選手の趣味も、捜索隊の迷惑を考えれば適切なアドバイスが必要となると思います。「オレ様はオリンピックの競泳選手だぞ!一般人に何が判る!!ヒマラヤの雪男はパンツも履いていないぞ!!!」といった反論は傲慢以外の何物でもありません。

ただ、それ以外の場合で「お前の趣味(の練習方法)は間違っている」というの発言に対して上記競泳選手と同様の傲慢さを感じるのは私だけではないと思います。

ちなみに英語圏では一番保守的な感覚器官は舌で「味覚の好みは三歳までに決まる」と考えられていますので、「matter of tast」は「味覚の好みの問題、つまり趣味の問題」といったニュアンスになります。

三十年以上前の話なのですが某ラーメン屋でみそラーメンに「入れ放題のおろしニンニク」をたっぷり入れたらカウンター越しのおばさんに「そんなに入れるものじゃない」と言われ大変腹立たしい思いをしたことがあります。
趣味の方法にケチをつけられた方も、「このおばさんの傲慢発言と同じ匂い」を感じるのではないでしょうか。

ちなみにみそラーメンはおろしニンニクをタッブリ入れるとほのかな辛みがでて大変美味しくなりますので機会があればお試し下さい。
これは私の体験から導かれた信念に基づいた投稿なのですが「味覚の問題」なので他の投稿同様、参考程度に留めて頂き「不味かったぞ」と感じられた方は「ラー油を大量に入れる」等の他の方法を試されるのが適切な大人の対応だと思います。









楽しむことが成長の原動力 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月 6日(月)21時26分12秒 返信・引用


kさん 趣味の世界って、ひとつのライフワークにできていくところって楽しいですよね。ハマっちゃうっていうか。たかが趣味、されど趣味っていうところがありますよね。根っこのところには、楽しむっていうのがある。それを失ってきたら、趣味じゃなくなってしまいますよね。中国語の九要論是非挑戦してください。中国語が出来る人だって、全てはわからないし、逆に言うと中国語が出来なくったって、日本人も同じ漢字圏ですから、書かれていることを読もうとすれば、大体は読めるわけです。大切なのは、わかろうとする気持ちでしょうから、ぜひ読んでみてください。
土佐の光龍さん そのとおりだと思います。比較すると、そんなつもりじゃなくても優劣をつけてしまうところがありますよね。心すべきところですよね。それにしても陰陽論が考え方のなかに生かされていますね。それがあると戴氏心意拳もだんだん理解しやすくなってくるとおもいます。好!と言われてすぐにその後には不好!と言われるってこともよくあるわけですが、全肯定も、全否定もせず、自分を見つめていくことができていくっていうことだと思います。





ご返事 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 7日(火)10時29分27秒 返信・引用 編集済


うさぎさんへ

>趣味の世界って、ひとつのライフワークにできていくところって楽しいですよね。

その通りですね。

>中国語の九要論是非挑戦してください。

じつは以前NHKの中国語講座にトライして一週間くらいで撃沈したことがあります(^_^;)。
ただ、日本語の続編の出版まで待とう といった他人任せの消極的な気持ちでは、続編が出版されてそれを読んでも「判ったつもり」の理解がせいぜいでしょう。
義撃精要の理解を深めることが先なのでしょうが、少しづつでも頑張ってみようかと思います。

>土佐の光龍さんへ

霍先生も「他の拳法は貶しても褒めてもいけない」と言われたことがあるそうです。

霍先生の講習会に参加されたうさぎさんからみると「そんなことを言うのかなぁ」といった感想を持つかもしれませんが、「理想の境地として話した」と解釈して頂ければ宜しいのではないでしょうか(^_^;)。

ちなみに私も四日の飲み会の時、黒のホッピーを「こんな不味いものを誰が注文するんだろう」と発言し、SさんとOさんから「味覚の問題だから」とたしなめられました(^_^;)。

「霍一門はみんなそうなのか」と思われたかもしれませんが、「江戸庶民に恐れられた異能の忍者集団闇一族をも葬り去った伊賀忍法の秘術を遥かに凌駕することは勿論、近代市街戦においてならばアメリカの精鋭特殊部隊一個師団を撲滅しておつりのくる中国功夫功のみでなく、その人格と見識により、自他共に霍一門を代表する名手と認められた」M老師おけれましては、決してそのようなことはありませんので、この事実を持って了解して頂ければと思いますm(_ _)m。






九要論 投稿者:濠 投稿日:2013年 5月 7日(火)20時37分44秒 返信・引用


もしかすると形意拳の本などに日本語訳があるかもしれません。
ですが、原文の方が味わいがありますよ。
味わいがありすぎて、直訳する以外に何もできないほどです。
訳すと原文の境地損ないやすいのが難点ですね。

日本は太極拳が盛んなので、
『太極拳十大要論』の日本語版のほうが見つかりやすいかもしれません。
こちらもいいですよ。内容はほぼ同じです。


>私も優劣意識、優劣論は意味がないと思っています。
>霍先生も「他の拳法は貶しても褒めてもいけない」と言われたことがあるそうです。

おっしゃる通りです。
特に中国武術に関しては同じものを違う角度から見て、違う形で表現している場合が多い。
そのため、正しい伝承のあるものは皆素晴らしいと言っていいでしょう。
あとは、それこそ個人の好みだと思います。
武術に限らず、ほかのこともそうですね(^^

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九要論と十六注

2014-11-01 07:14:38 | 理論―陰陽五行、名言集

九要論と十六注 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月 2日(木)22時19分41秒 返信・引用


kさんへ 九要論も十六注も拳譜の重要な一部だと思います。「戴氏心意六合拳 技撃精要」は拳譜のすべてを解説した本ではなく、拳譜の拳理と練拳がどのような関係にあるかということを趣旨とした本として書かれたものです。九要論や九歌などまだまだ取り上げなければならないところはあるわけですが、それは次回以降ということでご了解ください。





岳飛と戴氏心意拳 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月 2日(木)22時35分19秒 返信・引用


岳飛は伝説上の戴氏心意拳の始祖とされています。があくまでも伝説上ということであって、事実上は姫際可でしょう。大東流合気柔術の始祖が源氏の誰それといったのと同じようなことでしょう。
 九要論も伝統的な拳譜の一部ですから、岳飛が伝えた九要論という表現になっているわけです。九要論は岳飛が伝えたかどうかはたしかに疑わしいですね。私達練拳者にとって大切なのは、九要論の内容の意味するものであると思います。





言葉はついてくる 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月 2日(木)23時07分43秒 返信・引用


霍先生の例を出していただいているように、理論や言葉ははじめは意味のないものですよね。
功が深まってくると、ああこういうことだったんだなあとか、わかってきますよね。その時初めて拳譜のありがたい言葉が自分のものになってくるというか、そういうことってよくあると思うんですよね。





Re: 岳飛と戴氏心意拳 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 3日(金)07時35分49秒 返信・引用


> No.432[元記事へ]

うさぎさんへ

> 岳飛は伝説上の戴氏心意拳の始祖とされています。があくまでも伝説上ということであって、事実上は姫際可でしょう。

「武術」で黄さんという民間の研究家の方も同じ見解を発表していますねぇ。
最近の研究ではこの考え方が主流なのでしょうか。

>  九要論も伝統的な拳譜の一部ですから、岳飛が伝えた九要論という表現になっているわけです。九要論は岳飛が伝えたかどうかはたしかに疑わしいですね。

霍先生もその辺のことが頭にあったのかもしれません。

>私達練拳者にとって大切なのは、九要論の内容の意味するものであると思います。

2013年 1月 1日(火)14時11分32秒に「霍先生の説くところによると「昔、戴氏心意拳では、全身全ての節(肩、肘、手首、足首、膝、股、丹田、胸、頭)に9つの拳法があったと言った。だから9×9で81の拳法があったことになる。しかし多くのものは失伝した。私は研究して(霍先生のところの)5膀7炮をもともとの理論に合うように増やして9膀9炮にした。」なのだそうです。」と投稿したことがありますが、ここの「もとの理論」は「九大要論」のことではないかと何となく思っていました。(霍先生に確認したわけではないのですが)







Re: 戴家拳における科学の有用性 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 3日(金)08時04分47秒 返信・引用 編集済


> No.430[元記事へ]

補足です(^_^;)。

>「ある現象を考える時、異なった視点からの多角的な解釈があればその現象をより深く理解できるので特定の視点に拘る必要はない」といった感じの主張をしたつもりでした。

上記の具体例については2013年 1月 5日(土)09時51分の
「実はその次に「頭が悪いなぁ!」と実感したのは2010年に開催されたうさぎさんの講習会に参加したときでした。この時はいつまでたっても背中に力が現れず、「年齢的に限界なのかなぁ」と思いながらの参加でした。「技撃精要」の63ページの元の図が掲載されているテキストで講習を受けたのですが、この図を見て「膝も回り、更に踵も回るのだ」と気づきました。
これも少し考えれば当たり前なのですが、「体液が下腹部に流れ、下腹部の一部が回転するように動く」のであれば下腹部に近い上下の筋肉から力が入ってくるハズですが、やはり早く手法が使えるようになりたいと言う思いが目を曇らせていたのでしょう。太ももに現れた力が膝方向に伸びてゆき、やがて膝に節が現れる(膝小僧が締まる)ということには考えが及びませんでした。膝小僧はおろか、踵の関節まで回転させなくては(締めなくては)ならないのだ と判った時うさぎさんに「踵まで回転させるのですかねぇ」と暗く問いかけてしまいました(^_^;)。」
を参考にしてください。

「バカ」でも視点を変えると気づきがあるということです。

この気づきのおかげで
「それでもこの講習会の後、再び太ももにも意識が向くようになり、より大きく力が入るようになるにつれて、力の入る範囲も伸びてゆくことが感じられ、これが練拳を続けるときの励みになりました。
結果として二年くらい前に背にも力が入り、この後少しして(以前投稿したように肌の)保湿性が増し、その後暫くして膝小僧に力が届くようになり(膝小僧が締まるようになり)、その後暫くして土踏まずが上がるようになり、最近本当に時々ですが、踵の関節の一部(足の外側の出っ張った部分)も締まるようになりました。
腰掛けた状態で足の指に力を入れて土踏まずが上がる時、踵の関節に手を当てて締まり方を確認しましたが、この締まり方は膝関節が締まることで生じる力で催される踵関節の締まり方とは感覚的に異なっているような気がしています。」
となり、今は何とか踵の関節も回る(締められる)ようになりました(^_^;)。

拳譜の内容は「判らない箇所」も多いのですが、「判る箇所」については、(私的解釈ですが)「本当にそうだなぁ!」という「感じ」で納得できることも多いです。

まだ、具体的な投稿については、2013年 4月 5日(金)20時27分の「戴氏心意拳の風景(その2)」の「赤子の戯れ」だけなのですが、機会があれば、この内容についてももう少し詳しく投稿し、他の拳譜の記述についても自分の練拳体験と他の視点からの解釈を投稿したいと思います。

「赤子の戯れ」はフェルデンクライス(大脳生理学の運動感覚学習)の視点からの投稿ですが、他の投稿もフェルデンクライスか間質液の視点からの投稿になると思います。

まぁ、バカによる「複眼的視点による気づき」として気楽に読んでください。







Re: 理論が生まれる(その2) 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 3日(金)21時04分42秒 返信・引用 編集済


うさぎさんへ

> 私がよく感じることなのですが、中国人の老師からは、拳譜の中の表現があふれる如く伝えられるのに、日本人老師は、学生に伝えるときに、そのような表現はほとんど出てこず、自分なりの解釈や喩えを使って教える事を見て私は残念だなあと思ってしまうんです。

私は中国武術の講習会を受けことはほとんどないのですが、安田先生の太極拳の講習会には一度だけ参加させて頂いたことがあります。
この時は確かに西洋科学的な説明が多かった様な気がしました。
正確さを若干犠牲にして、理解しやすさを優先したのかなぁ とも思ったのですが、後日雑誌で「太極拳の動きはすべて力学的に説明できる」と発言されていたので特に正確さを犠牲にしたわけではなかったようです。

ただ安田先生のように極端に実力のある先生はやはり例外として考えるべきでしょう。

>  堅物な考え方かもしれませんが、日本人が解釈した物を伝えるというのは日本化中国武術であるのではないかと思うんです。

確かにそういった場合が多いのではないでしょうか。

ちなみに私が参加している会を主催されているM先生は中国式の説明方法を採用されることが多いようです。
やはり、実力があるということなのでしょう。

謙虚さが洋服を着ている様なM先生ですが、内から溢れてくる自信は隠しようもなく、NHKの「驚異の中国功夫」については「武術的に意味があるのかなぁ」と漏らしているのを聞いたことがあります。

「近代市街戦においてならば江戸庶民に恐れられた闇一族をも葬り去った伊賀忍法の秘術を遥かに凌駕するM先生の驚異の中国功夫」については明日にでも時間があれば投稿したいと思います。(いつもにもまして判り難い文章ですが、何となくスゴいなぁ と感じて頂ければ宜しいかと思います)






M老師 ナナフシ 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 4日(土)08時58分38秒 返信・引用 編集済


きもいタイトルですが「丹田功の風景」と違って内容には自身があります。

江戸時代のことです。伊賀の村雨一族の霧丸と闇一族の忍者が秘術をつくして闘っておりました。霧丸の秘術に敗れた闇一族の忍者は、最後の力を振り絞って仲間へのメッセージを残します。土の上に残されたそのメッセージは「霧丸 ナナフシ」。

ナナフシとはその擬態能力で木の一部となることが出来る昆虫なのです。

霧丸の秘術はナナフシのように木に擬態化する術でして、木の一部となった霧丸の姿を見失った闇一族の忍者は霧丸が逃げたと勘違いして「向こうを探してみようv(^_^)v。」と振り返ったところを後ろから刺されてしまった というわけです。(出典 伊賀の影丸 闇一族の巻 より)

これを読んだ時の私の感想は「緑が少ない市街地では使いにくいのではないか」というものでしたが、浅い理解でしかありませんでした。ナナフシの秘術の本質は「擬態化」であり「擬態の対象」は状況に応じて変わってくるのです。

Sさんからのメールに添付されていた中国でのM老師を撮影したビデオには「中国人と同化して人ごみにまぎれこんでいるM老師を見つけるのは難しい」とのコメントがつけられておりました。

ビデオを観るとその功夫は同化などというというレベルではなく「現代の市街戦でアメリカの精鋭特殊部隊一個師団を撲滅しておつりのくるナナフシの秘術」の域に達しておりました。「人を殺しておつりがくる」中国歴代の武術家でもこの域に達した人は少数なのではないでしょうか。






目指すもの 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月 4日(土)22時24分23秒 返信・引用


九要論については、インターネット上にも探せば出てくると思いますので、調べて見てください。
安田さんは、多分私とは方法論も違うし、私には、安田さんのような才能はありません。私がやっていることが正統なものだとは、いいません。私は、私のような才能もない、体力もないような人間が、コツコツとやって行けば何とか武術家になって行くことができるかなあっていうところなんです。
M氏は、私が評するのは僭越ですが、非常に人格が高く、中国武術に対して高い見識と功をお持ちの方です。私もM氏のような方のようになれたらと思っています。

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理論化するということ

2014-11-01 07:13:20 | 理論―陰陽五行、名言集

理論が生まれる 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月 1日(水)21時24分24秒 返信・引用


kさん そのとおりですよね。「理解が必要かと言えば、練拳の内容をより精密化する為に有用だから」私もそう思います。
拳譜の言葉も、老師の口訣もすべて練拳をより精密にするためにあると思います。極端に言えば、理解や理論がなくても達人は現れえる。武術がはじめにあって、理論はついてきたとも言えます。戴氏心意拳だとか太極拳といった門派が生まれてきたのは、異なる伝達理論が生まれてきたからこそ門派が生まれてきたとも言えるのだと思います。
 そのことを考えると、独自の理論が生まれたからこそがその門派の特徴だとも言えるわけです。ですから私自身は、はじめから各個人がさまざまな解釈でいいというのは違和感があります。まずは、戴氏は戴氏の理論から入っていくべきだし、太極拳は太極拳の理論から入っていくべきなのではないかと思っています。
 私がよく感じることなのですが、中国人の老師からは、拳譜の中の表現があふれる如く伝えられるのに、日本人老師は、学生に伝えるときに、そのような表現はほとんど出てこず、自分なりの解釈や喩えを使って教える事を見て私は残念だなあと思ってしまうんです。
 堅物な考え方かもしれませんが、日本人が解釈した物を伝えるというのは日本化中国武術であるのではないかと思うんです。
 拳譜を学びましょうと言っているわけではないんです。拳譜だけ学んでも死んだ理論だと思うんです。練拳を通して、その脈絡の中で出てくる言葉だから生きた理論になる。
 自分の言葉で語れとよく言われます。しかし、まずはその武術の言葉で理解すること、その言葉を謙虚に受け入れ、練拳し続けること。そこから生まれてくる自分なりの言葉であれば、自由で豊かなものであると思うのです。堅物ですね。







戴家拳における科学の有用性 投稿者:土佐の川えび 投稿日:2013年 5月 1日(水)22時34分41秒 返信・引用


> No.426[元記事へ]

kさんへのお返事です。

「古代の賢人」=じっくり観察、考察する人。

「知性のない大学生」=実験、探究しない人。と言うところでしょうか?


> 「動作を観察して得られる動きの解釈」は単なる知識による科学的迷信でなければ、つまり科学的態度が維持されている限りは「五行説」であっても「怪しげな体液説」であってもその目的を達成できるわけですから特に拘る必要はないのではないでしょうか
>
「科学的態度」=「語学を学ぶ方法」としてみると。
スペイン語、イタリア語等、ラテン語系の勉強している人がフランス語を学ぶのと、普通の人が学ぶのとは方法がちがってくる。しかし「語学を学ぶ方法」は存在し拘る必要もない…かな?。
今回は、文章が何か分かりにくいと感じました。

丹田功の始まりについて
姫際可先師は、八極拳の扎槍(さっそう、腰を横に回す)の様な方法より、体の縦回転を使う槍法を採用した。
その方が、集団で密着する時使いやすい。槍ぶすまを並べる様な時。復生元の岳飛将軍は個でなく軍隊で戦ったので、そう指導した。その後、道教の丹田功に共通項を見いだし採用するようになったのかな?と想像します。うちのボスは、あんまし歴史的考証に興味がないのだ…。
ちなみに、私は戴氏の槍の知識は0です。





Re: 理論が生まれる 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 2日(木)12時30分21秒 返信・引用 編集済


> No.427[元記事へ]

うさぎさんへ

ご返事有り難うございました。

>  そのことを考えると、独自の理論が生まれたからこそがその門派の特徴だとも言えるわけです。ですから私自身は、はじめから各個人がさまざまな解釈でいいというのは違和感があります。まずは、戴氏は戴氏の理論から入っていくべきだし、太極拳は太極拳の理論から入っていくべきなのではないかと思っています。

伝統的かつ正統的な主張だと思います。

霍先生も段先生からそのような形で学ばれています。ただ霍先生の場合は「私はまだ子供で、解説してくれる拳譜の意味がよく理解できなかったのだ。」と言うことだったようです。判ったつもりにならないところに霍少年の知性を感じるのですが、それでどうしたかというと「だからひたすら練習に励むしかなかったのだ。」ということになったようです。
以上は雑誌に掲載されたインタビュー記事なのですが、「その結果丸い力が出るようになったので拳譜の内容は理解していなくても戴家拳は身に付けられる」と言う結論に達したらしいのです。

ただ、霍先生は決して頑固な先生ではありません。拳譜等もよく研究されているようですし、何よりも中国に行く前にM先生から「なるべく質問をした方が良いよ」とアドバイスを受けました。以前霍先生のところに習いにいった人が全く質問せずにノートだけを取っていたら「お前はやる気があるのか!」と怒りだしたのを目撃している というのがその理由でした。
この辺りは講義内容に対して批判的な質問が歓迎されるアメリカの大学の授業を彷彿させます。

理論面についても質問したことがあるのですが、岳先生と同じで「戴氏心意拳の拳理は宋代岳飛の「九大要論」に基づいている」と言うことでした。ただ岳先生と違っているのは「と言うことになっているがかなり怪しい」と言うことでした(^_^;)。
以前「武術」に「岳飛の「九大要論」は実在した!」という記事が掲載されていたので、M先生にお聞きしたところ「信憑性に関しては疑問の余地がある」と言う様な答えだったと記憶していますので、霍先生の主張もまったくの「でたらめ」ではないような気もしています。

ちなみに貴会が発行したテキストの242ページの拳譜では九大要論、つまり九つの構成ではなく、十六注法となっていますが、これも広義の意味での道教なのでしょうか。

うさぎさんも述べられているように、同じ戴氏でも異なる系列の各門派が独自の拳譜を理論の礎とすることは自然なことだと考えております。
単なる野次馬的好奇心からで正当性を含む優劣を論じるつもりはさらさらありませんので、その点に関しては好意的にご理解下さい。









Re: 戴家拳における科学の有用性 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 2日(木)12時40分10秒 返信・引用 編集済


> No.428[元記事へ]

土佐の川えびさんへ

ご返信有り難うございました。

>
> 「古代の賢人」=じっくり観察、考察する人。
>
> 「知性のない大学生」=実験、探究しない人。と言うところでしょうか?

そんなところだと思います(^_^;)。

> 「科学的態度」=「語学を学ぶ方法」としてみると。
> スペイン語、イタリア語等、ラテン語系の勉強している人がフランス語を学ぶのと、普通の人が学ぶのとは方法がちがってくる。しかし「語学を学ぶ方法」は存在し拘る必要もない…かな?。
> 今回は、文章が何か分かりにくいと感じました。

確かに私の投稿からはそのようなニアンスは感じらますが、「ある現象を考える時、異なった視点からの多角的な解釈があればその現象をより深く理解できるので特定の視点に拘る必要はない」といった感じの主張をしたつもりでした。
事実私はこの本の発刊は首を長くして待っていましたし、読んで有益な点も多かったので続編の発刊も期待しながら待っています。

ただ、あの投稿を読んだ方は川えびさんのように解釈するでしょうねぇ。

下の投稿でも触れましたが、批判的な質問も歓迎したいと思っております。

何かあれば遠慮なく投稿してください。

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