祁県映海戴氏心意拳倶楽部 公式ブログ

戴隆邦から脈々と受け継がれる戴氏心意拳。王映海伝戴氏心意拳の日本での伝承を行う祁県映海戴氏心意拳倶楽部の公式ブログです。

七情と練拳

2014-11-02 22:35:41 | 練法・技撃・学び方・健康・技法体系
七情と練拳 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月10日(金)21時43分28秒 返信・引用


中国の伝統的な身体観の中で七情ということがよく言われます。病院に行っても、「ストレスですね」といわれ、ストレスが体には良くないとわかっていても、どのように身体に悪い影響を与えるかは語られない。感情が身体に与える影響をどのようなシステムで働くのかを数千年前の中国の人たちが考えていたなんて、私はすごいと思いますし、戴氏の練拳には、そのような古代からの理論が、守られてきているわけです。霍先生が言われた「怒っている時には、練拳をしてはいけない」というのは戴氏心意拳では一般的に言われることですし古代からの伝わってきた理論が生かされている一つです。
 七情というのは、「悲しむ」「憂う」と気は消え、「喜ぶ」と気は緩む。怒る」と気は上がり、「思う」と気は結ぶ。「驚く」と気は乱れ、「恐れる」と気は下る。それぞれの感情は、五臓に対応し、それぞれの感情がどのように身体に影響するかを示しています。
 練拳者が練拳をしている時には、その神気を見て、気を緩めていけばよいのか、結ばせていったほうが良いのかを指導していきますし、それだからこそ外形だけを見るものではなく、内面を見つめていく心意拳の真骨頂だと思います。この七情や神気と練拳については、
「戴氏心意六合拳 技撃精要」では、うまくまとめきれなかったため、削除したところなのです。続編では掲載したいと思っています。
 話を元に戻しますと
「怒っている時には、練拳をしてはいけない。」というのは、怒ると気が上るわけですからのぼせたり、体力が急激に消耗したり、卒倒したり、血圧が上がったり、気持ちが急激に落ち込んだりするわけです。ですから、練拳をして気を使ったり、気を上げたりしますと、
体にわるいわけです。こういうことってきちんと教えを受けていたほうがいいことですよね。成長することは、死に向かう道ですし、武術することは、自分を強くする道であると同時に、自分の体を痛める道でもあるわけです。だから、自分を成長させるために武術をしていくわけですが、一方では自分を傷め、悪くする可能性も同時に秘めている。その傷め悪くすることを予防するために、戴氏なりのいろいろな教えや戒めがあるわけです。そこのところはP18~20、47~49とかに書いていますので、そんな視点で見ると、小難しく感じた文章も面白く読めるかもしれません。
 ちなみに、私は、怒った時も練拳することもあります。「怒ったときは、練拳をしない。」ということはよくわかるのです。ですから怒ったときは、練拳はしない。だけど、」一方では、怒ると気は上がるわけですから、沈める練拳をすればいい。だから、してはいけない練拳としてもいい練拳もあるわけです。私が、陰陽五行拳の身体観と戴氏心意拳の練拳をセットにして理解していったほうがいいですよと皆さんにおすすめするのは、戴氏の伝統の中にもともとそれを元にしてたいしが語られてきたわけですし、その中に戴氏心意拳の深奥があるからだと思うからです。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「拳無拳、意無意、無意之中是真意」

2014-11-02 09:24:07 | 理論―陰陽五行、名言集

原典の味わい 投稿者:土佐の川えび 投稿日:2013年 5月 9日(木)14時53分17秒 返信・引用


> No.448[元記事へ]

事務局さんへのお返事です。

> また、来は歌訣の語呂合わせの意味もあります。読むと「拳無拳、意無意、無意之中是真意」より少し柔らかい感じになります。

>表現って、面白いですね。

> 実は意があっても無拳はできます。
> でも、意図があるので、真の無拳ではありません。

興味深いですね。
>「拳に拳なく」の意味はあまりよく分かっておりません。まだ、当たり前かも知れませんが。
かつて、私の太極拳の師が
「人は、人前で演舞するのを恥ずかしがったり、また、イタズラに自分をかっこよく見せようとする。しかし、有りのままの自分、かざらない自分で良いではないか」
と。そういう事を考えさせてくれる先生でした。今にして思えば「無意」のプロセスの一つだったのかも知れません。





雑感 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 9日(木)16時44分5秒 返信・引用 編集済


公式ブログを読んでいたら「霍永利老師と村上さんからご指導を頂いたことがあります。しかしあるとき練習を参加しても、いくら指導を頂いても、前へ進めませんということを悩み、やめようかと考えたことがありました。」という投稿が目に留まりました。

この投稿がきっかけという程でもありませんが、以前から投稿しようと思っていた「人と人の心が交わる」についての雑感を書いてみたいと思います。

「股を閉めることで体液を下腹部に集め」ながら「胸を凹ませることでへそが上を向く腹を作る」ことで「体液を下腹部で回転させている」のではないかと気づいた時から、「股の締め方は霍先生の股を指で触って感覚的に理解している」し「胸の凹まし方とそのタイミングも霍先生に直接指で押してもらって身に付いている」のだから「戴家拳の基礎を身につけるのは毎日ゆっくりと練習していけば時間の問題ではないか」と思った時期がありました。

まぁ、これはこれで間違いではないのですが一番大切なものを見落としていました。

寒い日に外出から帰ってホッとした時、身体は疲れていたのですが、何故か「丹田功が巧く出来そうだ」と思ったのです。試してみると 下腹部が本当に良く回る スグ疲れが出たので二分くらいで止めたのですが、「リラックスしているとこんなに効果が違うんだ」と再認識しました。
「怒っている時は練習してはいけない」と霍先生から教えられてはいましたが、休日の練習で「胸の凹ましと股の締めのタイミングを合わせよう」と(集中ではなく)緊張していると1日練習しても(2ないし3分程度の時間ですが)このリラックスした練習程の効果がないことも体験しました。

「親に見守られて安心しきった状態で初めてハイハイが出来るようになる」ので、この原理を適用しようといのがフェルデンクライスの要諦の一つとなっていますが、この「親に見守られて安心しきった状態」が「人と人の心が交わる」と重なる様な気がします。

どちらに原因があるということではなく「身に付かない」と判断した段階で「怒っている」とか「緊張している」と同じ様に「戴氏が要求するリラックスした状態」からは遠のいてしまったのではないでしょうか。

この方が今も戴氏を続けられているかどうかは知りません。
勿論、続けていなくても「もっと良い趣味」と出会う、あるいは出会っている可能性もあるわけですから問題はないと思いますが、少し残念な気がしたのも事実です。






雑感(補足) 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 9日(木)17時50分56秒 返信・引用


下の投稿を読まれて「そんなことを言ったら練習できないじゃないか!」と思われた方も多いのではないかと思います。

あくまでも理想的な状態と解釈してもらいたいと思います。
疲れている時はフォームが乱れて悪い癖がつく可能性があるから練習してはいけない は戴氏では「原則」なのですが、寒い晩に自宅に戻りシャワーを浴びようと下着になった時、ホッとしてリラックスし一時的にでも集中力が戻れば、効果的な練習が出来る ということです。

ヨガの方では「リラックスしようと意識的に集中し(不安材料を一時的に忘れて)、身体の力みを取ることが出来る」という考え方もあるようです。(()内は私の私見です。)
この考え方は戴氏の練拳時にも適用できると思いますし、多くの方に取っては必要なメンタルテクニックではないでしょうか。

この部分に関してはもう少し「濃いめの私見」があるのですが、その前に投稿したい内容もあるので、この投稿を読まれた方は「今日は練拳を休もう」と思わずに、「趣味を楽しもう」と考えて頂きたいと思います(^_^;)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

九要論

2014-11-02 08:07:01 | 理論―陰陽五行、名言集

Re: 原典の味わい 投稿者:事務局 投稿日:2013年 5月 8日(水)15時24分14秒 返信・引用


>土佐の川えびさんへのお返事です。

>> p22の「拳無拳来意無意」は直訳すれば「意が無意になることによって、拳が無拳となることが来る」でしょうか?来は由来を意味すると思われる。

素晴らしい!
その通りです。
また、来は歌訣の語呂合わせの意味もあります。読むと「拳無拳、意無意、無意之中是真意」より少し柔らかい感じになります。

> 本には「拳に拳がなくなるには、意に意がないことから生まれ」と訳されますよね。

これは袁先生とだいぶ相談しました。
実は意があっても無拳はできます。
でも、意図があるので、真の無拳ではありません。
無意にいたり、そのなかの真意を見つけてからが、本当の無拳(無形)です。
日本語にすると難しいですね。
今になってみると、ありのままを表している土佐の川えびさんの訳あるいは笠尾先生の訳がいいと思います。






Re: 九要論 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 8日(水)17時09分0秒 返信・引用


> No.445[元記事へ]

濠さんへ

> もしかすると形意拳の本などに日本語訳があるかもしれません。

> 日本は太極拳が盛んなので、
> 『太極拳十大要論』の日本語版のほうが見つかりやすいかもしれません。
> こちらもいいですよ。内容はほぼ同じです。

探してみます。
どうも有り難うございましたm(_ _)m。






Re: 九要論 投稿者:濠 投稿日:2013年 5月 8日(水)18時40分11秒 返信・引用


>kさん
どういたしまして。
見つかるといいですね(^^

もしかすると、M先生がご存じかも?





Re: 九要論 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 8日(水)19時17分57秒 返信・引用 編集済


濠さんへ

> 見つかるといいですね

有り難うございます。一応こんな解説を見つけました(^_^;)。

「五則
郭雲深先生、形意拳術を練するに、三層の呼吸有りを言う。

第一層練拳術の呼吸、将に舌は捲回、上齶に頂住せんとし、口は開くに似て開くに非ず、合せるに似て合せるに非ず、呼吸は其れ自然に任せ、呼吸を著しく意(おも)ふべからず、手足の動作に因りて規矩に合せ、是を調息の法則と為し、また練精化氣の功夫に即すなり。

第二層練拳術の呼吸、口の開合、舌頂上齶等の規則は前に照らし、惟呼吸と前の一層は同じからず。

前者は手足の動作が是の調息の法則、此れここは息調なり。

前者は口鼻の呼吸、此れを借りることを過ぎざるを以て内外に通ずるなり。

此れ二層の呼吸は丹田の内呼吸に著意するなり、又の名を胎息、是を練氣化神の理と為すなり。

第三層練拳術の呼吸、上の両層の意義をともなうも同じからず、前の一層は是明勁、形が外に有り、二層是暗勁、形が内に有り、此れ呼吸有りと雖も無きが若し。

勿忘勿助の意思、即ち是れ神化の妙用なり。

心中空空洞洞、有らず無からず、有るに非ず無きに非ず、是れ無声無臭、還虚の道なり。

拳術を練る終始本末の次序、即ち一氣貫通の理、有より無に化するの道なり。」

ヒットした九要論も「このページを訳す」で観てみたのですが、少し違っている様な気がしています。まぁ、訳自体が機械翻訳そのままといった感じて意味をなしていないのですが、想像を逞しくするに、鍼灸で説くところの五行説に近い様な「感じ」がしていますが、これから頑張って検討してみようと思っています。







九要論 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月 8日(水)22時35分15秒 返信・引用


九要論は、戴氏心意拳拳譜の中では、プロローグ的というか、大綱を示したところだろうと思います。一 気 二 陰陽 三 三節・・・という章立ては、陰陽五行の考え方を中心においているということがよくわかるし、それを生かしながら、武術理論になっているところがなんとも知的というか、素晴らしいところです。「戴氏心意六合拳 技撃精要」でもそういう根本的なところは、大切にしたかったところです。





Re: 九要論 投稿者:k 投稿日:2013年 5月 9日(木)06時20分45秒 返信・引用


うさぎさんへ

ちょっと気になったので質問させてください。

> 一 気 二 陰陽 三 三節・・・という章立ては、陰陽五行の考え方を中心においている

岳先生が「戴氏心意拳は道家にその源をもち」と発言されていますが、その根拠として「(九大要論の九つの章立てが)道家の心法に符合する」ことを挙げています。

九要論の機械翻訳はよく理解できなかったのですが「二の陰陽と五の五行(武術では行と記述されている)」以外は陰陽五行説とは関係ない記述のように読めました(想像できました)。

うさぎさんの発言は「二の陰陽と五の五行」が九要論(武術では九大要論)の中心になっている という意味なのでしょうか。

お時間のある時にでもご教授ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする