東京も頑張らなくては 投稿者:k 投稿日:2013年 5月15日(水)16時40分58秒 返信・引用 編集済
下の投稿から想像すると奈良の定期練習会は盛況のようですね。
東京の方ではあまりいいニュースはなく、先日投稿した「戴氏心意拳東京講習会」は参加者が集まらずに開催できなかったようです(-_-;)。
講師の方は「江戸庶民に恐れられた異能の忍者集団闇一族をも葬り去った伊賀忍法の秘術を遥かに凌駕することは勿論、近代市街戦においてならばアメリカの精鋭特殊部隊一個師団を撲滅しておつりのくる中国功夫功のみでなく、その人格と見識により霍一門を代表する高手」M老師に拝師された方なのです。
開催のニュースを聞いた時にM老師は「これで日本における戴氏心意拳の発展基盤も盤石なものとなるだろう!私も霍先生に対して顔向けが出来る!苦労して教えた甲斐があった!参加者が多くて手が回らないときは女子大生の参加者は私が教えよう!!!!」と号泣しておりました。M老師の号泣は川えびさんのDVD購入をお知らせした時「命を削って作った甲斐があった!」と号泣されて以来なので余程嬉しかったのだと思い、それにつけても今回の中止を知った時の心中は察するに余りあるものがあります。
戴氏心意拳の風景(その3) 投稿者:k 投稿日:2013年 5月15日(水)18時05分54秒 返信・引用 編集済
「2013年 4月 5日(金)20時27分」に投稿した「戴氏心意拳の風景(その1と2)」はM先生の表演を観て見学者が来たならば練習の原理にも触れている内容も含めて投稿するつもりでした。
結局見学者はいなかったのでその時は「練習の原理」の部分を割愛して投稿しました。今回の「東京講習会」の参加者がいればこの部分を投稿しようと思っていたのですが、今回も参加者はいなかったようです(-_-;)。
これ以上待つと永久に投稿できそうもないので今回投稿させて頂きます(^_^;)。
先ず、「ハイハイを身につけようとする赤子の戯れ」は大脳生理学の用語では「運動感覚学習」と呼ばれています。この内容をもう少し詳しく説明すると「運動(している時の主として関節部分の)感覚(を大脳に)学習(させること)」となります。その為に必要な三原則は 出来るだけ力を抜く 出来るだけ小さく動く 余り繰り返さない となります。
霍先生の指導では「力を抜いた状態で(胸を押してもらい)胸を凹ます」ことになりますが、この時胸の変化に伴い他の関節部分(特に肩関節)がどのように動くかを感じてもらいます。この時の動きは腕と身体の結合部の丸い骨(要するに肩関節)が付け根のくぼみの中を回転する通常の回転運動となります。
拳譜的に言えば「胸のへこみが肩を動かす」となりますが、同じ原理はフェルデンクライスでも用いられています。つまり、骨の一部を動かし繋がっている骨の他の部分がどのように動くかを感じることはフェルデンクライスでも重視されています。
ただ、拳譜では「腹が肩を催す」(94ページ)と違った表現となっています。
これは、丹田がよく回ってくると(体液の流れが増えると)肩関節の部分に「節が現れてくる」、つまり、丹田を回すことで「肩関節の部分が回転しながらその一部分が締まるように動く」ことが「腹が肩を催す」という拳譜の意味ではないかと思っています。
言葉は悪いですが、尿意を催す感覚が現れるように、肩の部分に「回転しながらその一部分が締まる」感覚が徐々に現れることを、拳譜では「催す」と表現したのではないかと思います。
ちなみに私は最初拳譜のこの部分を読んだ時「催す」という言葉の意味が、物産展を催す を連想しよく理解できませんでした(^_^;)。動くではないことは感覚的に理解できていたのですが、この言葉の意味が正確に理解できずに練拳仲間のHさんに「どういう意味ですかねぇ」とお聞きしたところ「尿意を催すと同じ意味だろう」と言われ、「その通りだ!」とその表記の適切さに驚いたことがあります。
Hさん、その際はお世話になりました。中国語は勿論日本語も不自由な私ですが今後とも宜しくご指導下さいm(_ _)m。
習熟を旨とする武術 投稿者:うさぎ 投稿日:2013年 5月15日(水)21時22分58秒 返信・引用
戴氏心意拳は、派手で華美な武術ではありません。伝統武術自体あまり人が集まってはこない現状があるでしょうから、やはり戴氏心意拳は本物志向の人たちしか集まってこないように思います。だから、たくさんは集まりませんけれども、練習にこられた人たちは、ほとんどの人たちが、真剣に続けてくださる人が多いのです。
他のスポーツや武術にはない価値、片手間ではなく人生の一部をかけてもいいのではないかと思える価値を戴氏心意拳は有していると思いますし、私たち教える側の者たちが、しっかりと参加者の方々に教え伝えることができなければならないと感じています。ですから、私たちは、常に学び続け自分自身の功を高めていかなければならないと感じています。
一方、学ぶ側の人たちには、習熟することの楽しさをしっかり捉えてもらう必要があると思うのです。
やはり、秘伝あさりをして様々な套路を覚えるのが、武術の上達なのだという先入観は取っ払ってもらわなければならない。習熟することは辛いことや根性の上に成り立つものではなく、繰り返しはただの繰り返しではなく、様々な感覚の変化、発見があるその面白さに気づくような、指導者側からも積極的に気づくようなはたらきかけが方が必要だと感じています。
習熟したいという気持ちがあれば、師からも先輩からも、仲間からも謙虚に学んでいく構えができていくようになるのではないかと思います。
私は、戴氏心意拳の仲間には、いじめのような関係や自分だけ師から教わって、他の人には教えないといったいびつな人間関係は生まれにくいと思っています。それは一人一人が、謙虚にすべての人に学んでいこうとする姿勢がもっているからです。「私だけがこのことを知っている。だから教えてやろう。」「私が一番だ。他のものには学ばない。」という気持ちや姿勢を持った時、その関係は崩れていくのだと思います。
知識資本主義、套路資本主義ではなく習熟資本主義へと移っていく武術としての当たり前の過程を再確認していくことは大事かなと思っています。