ココロ散歩道

心理士の何気ない日記です 

カサンドラの憂鬱②

2025-03-09 15:38:39 | 日記
カサンドラの憂鬱②

パートナーともはや通じ合わないことが私にとって当たり前になって久しい。
結婚24年目。
相手(ASD)は自分のことは(妻に)伝わっている、相手(妻)のこともわかっていると思っているが、
私は永遠にそんなことはありえないことをもはやよくわかっている。

彼にとって私は、一部であり彼であり、私自身ではない。
彼が愛している私は彼自身であって私ではない。

思い通りにならないのは彼自身であるけれど、それを私に投げかけて腹を立てているのが通常運転。

うまくいかない原因は自分にしかないのに、自分は実際視覚的に見えないから、
(視覚的に)見える相手にその感情があると思いこんで、傷ついたり腹を立てたりする。

構造が素直じゃなくややこしいから、腹立ちを向けられて
私が悪いのかな?失敗したのかな?と思って十何年振り回されてきたけど、そうじゃない。

たまたまそこにいるから、そこにいる人(家族)に向かって自分のいたらなさや思い通りにならない苛立ちを、
人(家族)に投げかけて、それをやっつけようとしている(精神的なバランスをとるため)にすぎない。

私たち(家族)は本来、彼には関係ないのだ。

彼にとっては「何かが心の中にいる」とかそういうことは理解できない。
人が亡くなって悲しいとか、そういことも理解は難しい。

お葬式ではこうするのが普通、というのを学んで、人と同じような表情や振る舞いをすることが礼儀であって、
それをしておけば収まるということを知っているから、そうしているだけ。

私の父が亡くなったとき、娘にどうしてパパは泣かないの?と聞かれて、
「(ママのお父さんは)パパとは関係ない人だから」と言ったそうだ。
それが単に血のつながっていないことを指しているのか、どうなのかわからないけれど、
とにかく、そういう無神経な物言いに、何度も何度も傷ついてきた。

挨拶はなぜするのか。贈り物はどうしてするのか。どうして記念日を大切にするのか。
みんながするから、しないといけない。そうしないと村八分、変わり者、と思われることを避けるため。
一人では不具合なことはよくわかっているから。

彼らにとっては、物理的にそばにいて、触ったりご飯をもらったりお金をもらったりすることが、
「大事にする」ということのすべて。それがないと心もとなくて寂しくて不安でたまらない。
遠距離恋愛なんて絶対に無理である。
そばにいない(見ること触ることができない)のは、この世に存在しないということと同義だから。

一方私(おそらく多数派)は、(見たり触ったりプレゼントをもらったりという)直接的な証拠がなくても、
優しい言葉や、ふるまい、まなざし、日々の隙間の空気なんかで、
その人が誰を大切に思っているのかはだいたいわかるし、
そうして示されたものを受け取って、何がなくても、気持ち的に満たされていく。
この世から去っていった両親のことも、時に偲んで涙することができるし、
愛されたことをいつでも感じることができる。人の気持ちという形のないものを信じるということができる。


最初から私にとってはミスマッチだったのだ。
彼にとってはマッチだった。私の察しの良さや、思い遣りがすぎるところが、
彼的に、自分の思い通り、期待通りになるような気がしたから、私に執着したに過ぎない。
私を幸せにするとか、そういうことには興味がないし、
自分が楽で楽しくて思い通りになるということが彼にとっては最高の結婚の条件だったわけだ。


最初の10年は、彼がASDだと気づいて心から納得するまでの苦しい10年だった。
通じ合わなさに何度も涙したし、あまりの共感のなさに驚愕した。
流産をして泣いている私(妻)がいるのに、お笑い番組を見て笑っている彼には絶望しか感じなかったし、
切迫流早産で長く入院していた私の目の前で、彼は娘に「今度のサンタはなにがいい?新しいお母さんがいいよね」
と言い放ったりしていた。(これは看護師さんが、「ひどい。かわいそう」と代わりに涙してくれた。)

命の瀬戸際で頑張っている妻やその子(自分の子でもある)の苦労や不安や悲しみや寂しさは、
彼にとって「見えない」=ないもの、ということだったのだろう。
娘を預けられた自分の大変さだけが、しんどいことの中心だったのだろう。
このあたりでもう私は彼と心を通わせるということは完全に無理だなと悟ったし、
あきらめもついた。私には私そのものを愛してくれる夫は与えられなかった。仕方ないこと。
私は生涯女としてはひとりで行く。それでいい。

娘たちがいい子たちで、母としては過分の幸せをいただいているから、トントンなんだろう。と納得しようとずっと頑張っている。


頭のいいASDは膨大な「一般常識みたいなもの」を学習しているので、見過ごされる。
結婚してから、色々出てくる。感情的な処理がもともととても難しいので、
感情的な都合を考えないといけない要因(家族の人数)が増えるほど彼の感情処理は追いつかなくなり、
まっとうに見える言葉をなんとか見つけ出して事なきを得ていた彼の脳は簡単に限界が来た。


私一人と付き合っていた時は、時々感じるけどまあ見過ごせるかと思う程度の違和感で済んでいたのが、
彼のキャパを優に超えてくる、予測不可能な子どもたちの成長に、
「子どもの前でそんなこというなんて。」「子どもの前でそんなことするなんて。」
という不具合を連発して、ついにASDなんだなぁと、納得に至った。


別に、いい。夫は毎朝キチンと(フレックスであるにもかかわらず同じ時間に)仕事に行き、
任された仕事をこなし、普通の人のようにふるまって問題も起こさず、
むしろ真面目さに評価をいただいて、私の娘たちを養うお給料をもらってきてくれる。

家やパソコンや車の管理をしてくれ、様々なものを修理もしてくれ、
運転も上手で方向感覚もあるし、家族が望むところへは一発で連れてってくれる。
私のできないことを多くしてくれている。だから別に、いいのだ。


もういいけど、時々、女として生涯愛されるとか、そんなことが完璧に無理だということが寂しく感じたりもする。
彼が愛したいのは、大切にしたいのは、彼自身に他ならないことは、本当によくわかるから。
いいの、別に。
この理解と諦観こそが、私の乗り越え方だった。それでいい。


ただ仕事柄、同じように苦しんでいる女性に出会うと、胸が痛い。
あなたは後悔しないように、これ以上悲しい思いをしないように。と願う。
傷が浅いうちに別れるもあり、腹をくくってあきらめ、今を耐え、
子どもが大人になり人質に取られなくなってから熟年離婚する道もある。
もちろん、苦難は伴うし孤独感はぬぐえないけれども、
心砕いて一部未発達な夫を大人へと育てていく涙の道もある。


カサンドラになる人は、パートナーから子を守っていくのに必死で自分の幸せを忘れがちだ。
だからせめて、どんな道をたどろうとも、「自分の幸せ」を自分で追求してほしいし、感じてほしい。
結局自分を幸せにするのは、自分だ。


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