Life Goes On

by Madonnalily

純粋ヘーゲル批判

2023-05-30 06:01:12 | 日記
自由と共同性を両立する世界を築くにはどうしたらよいのか?

啓蒙をやめる🐰


これまで様々な意識が芽生えては挫折してきました。

啓蒙するから挫折するんだよ🐧


まあ教養の意識も啓蒙の意識も他者と共同して普遍的な知を作ることができなかったんですけれども、そうした絶望の経験を踏まえた意識が最終的に辿り着くのが「良心の意識」になります。

最初にそれをやるべきでしたね🐦
その経験があって初めて教養や啓蒙の道が開かれるのであって。
ちょこっと勉強したぐらいですべてを知った気になって啓蒙するから失敗するんだよ🐤



まずは定言命法。
定言命法とは、カント倫理学における根本的な原理であり、無条件に「〜せよ」と命じる絶対的命法である。

かっくいい(^ー^)



無条件で従うべき道徳義務を「何々せよ」という命令形で理性が問いかけ、吟味するもの。

いいね👍


「嘘をついてはいけない」という例で見てみましょう。
あなたの家にDVを受けている女性が逃げ込んできました。
彼女をかくまっているとその夫がやってきて、「ここに彼女はいないか?」と聞きました。
あなたは何と答えますか?

いるかな?
いないかな?
どっちかな〜?(´-`)

と答える🐱


カント的には「ここにいます」と答えるのが正しい行為。
引き渡すと殺されてしまうかもしれないという状況下でも「嘘をつくな」という道徳法則に反するからです。

引き渡すと殺されてしまうかどうかは引き渡してみなきゃわからない🐼


カントの考える道徳法則はどんな場面でも、どんな時代でも、どんな社会でも通用すべきものなので、一切の例外を許しません。

「嘘をつくな」は自己批判のためのツールです🐨


私たち一人一人が自己意識の中で、本当に論理的矛盾がないか自問自答し、徹底的に検証していくものなのです。

正解🌻
それが「嘘をつくな」の意味です。


しかしですよ、真面目に守ってしまうと、またDVの被害を受ける可能性がありますよね。

通報すりゃいいじゃん🦙
あるいは夫と話し合って問題解決という手もある。
嘘をつかないことはバカ正直になることではない。
よくよく聞いてみたら夫の方が正しかったということもあり得る。

「嘘をつくな」という命令を何のために守るのか、何のために破るのか。
動機は何なのか。
それが問題だ🦉



それぞれ個別のケースがあるのに、それを徹底的に排除したカントの道徳法則は独り善がりと思われてもしかたがないですよね。

だからこそ一人一人が自己意識の中で論理的矛盾がないか自問自答し、徹底的に検証していかなければならないのだよ、おバカさん🍄


そこでヘーゲルは、

またお前かよ🌴


自己が正しいと考えた判断が普遍的な意味を持つためには、なぜ正しいのかを皆に説明し、その判断に従って果たすべき行為、すなわち”純粋義務”を自ら皆に実践して見せ、賛同してもらう過程が必要になる。

アホくさ🐿️


これがヘーゲルの言う「良心」の意識なんですね。

陰謀ですね。
例えば「俺は正義を貫くぞー」と宣言した宮城のジジイ。
宣言するからには、いつでもどこでも正義を貫かねばならない。
が、やれ疲れた、やれ年のせいでと言い訳しつつ、不正義やりまくり。
大うそぶっこいても謝れば賛同してもらえる。

福島のヒャクショーも然り。
良心の欠片もない。

がー、
なぜ正しいのかを皆に説明し、純粋義務を自ら実践してるふりすりゃあ賛同してもらえる。

どこに良心があるというのか🌹



「良心」も伝統や宗教などに従うのではなく、自分が正しいと思うことを自らの判断で行うという点においてはカント的な共通点があるわけです。
ただしヘーゲルが強調するのは、しかし何が正しいかは見方や立場によっても変化すると。

ヘーゲルの道徳はどんな場面、どんな時代、どんな社会でも通用する普遍的な法則ではないと🌷


だとすれば良心には単に自分が「正しい」と思うからやるだけでは不十分で、他の人たちにも善であることを承認してもらって普遍性が獲得される。
その意味では、1人では駄目で、他人を巻き込んだ対話型の道徳論であるということが画期的な点ですね。

SNS大流行中の現代社会には全く通用しない道徳論。
1ミリの普遍性もない。
画期的すぎて超絶ワロタwww

道徳はどんな場面、どんな時代、どんな社会でも通用すべきものであって、例外は一切認められません👾



これ例えば、こいつは悪いやつだから

こやつ完全に巻き込まれてますぜ、だんな🐕


殺してもいいんじゃないかって自分が思った時に、周りの人もそう思っちゃったら、
殺すっていう行為は・・・。
どうなるんだ?

ヘーゲルには良心が欠落している証明だよ、伊集くん🐞


例えば今の日本社会でも死刑制度は別に悪いことだとは思われていない。

はい🐷


人の命を奪うことだけれども、それをみんなが受け入れてるから善として受け入れられてる。

ミィは善としてませんけど🐛


でも他の国に行けば、いや、死刑制度は良くないから、やっぱりそれはやめようというふうに今、世界はなっていますよね。

なぜ死刑制度が良くないのかもわからずに🐝


でもやっぱり「正しい」が周りの価値観で変わるのはすごいよくわかるな。

やめようというふうに世界がなっていると聞くと価値観が変わる日本人🦋



ヘーゲルによれば私たちの良心は「行為する意識」と「評価する意識」に別れるのだと。

ややこしいおっさんでんな🦖
カントにライバル意識があるんやろ🦕


行為する意識は自分の義務だと思うことを良心に従って行動します。
一方で評価する意識は自分では行為せず、他者の行為を「本当に正しいことか?」と吟味し、批判します。

はあ?🐒


行為する意識の中には世間から称賛されたいなど、個人的な欲求が隠れているかもしれません。

宮城はそうでつね🐧


評価する意識はその点を挙げて「偽善」と批判し、自分こそが正しいと主張します。
しかし結局は何も行動しない口先だけの偽善者にすぎません。

何も行動しないってなんでわかるのさ🦥
SNSでアピールしないだけじゃね?

そもそも評価する意識は他者じゃなくて自分自身に向けるべきものだよ、ハゲ🦦
自分が自分の行為を「それは本当に正しいことか?」と吟味し、批判する。

つまり客観性だよ、ハゲ🦏


よく知り、より知っているとうぬぼれているにすぎないのに、現になされたことを散々こき下ろし、自分自身をその所業の上に置いて、自らの何もなさない語りが卓越した現実と受け取られることを要求しているわけである。

お前自身だろ🐖


こうして行為する意識も評価する意識も互いに偽善であることが明らかになってしまいましたが、
ヘーゲルはこの対立、どう収束させるんでしょうか?

収束不可能👽
だって精神分裂だもの🤡


行為する意識は、確かに自分の行いには独善的なところがあったんだ、
従って「悪である」と自己批判する。
それが告白という行為になるんです。

告白は教養や啓蒙の意識にはなかった新たな行為。
それを受けて評価する意識の側が「然り」と述べて相手の行為を赦すんですね。

それによって成立するのが・・・

統合失調症〜🕊️


双方が今までの自分の見解を改めて修正する、「相互承認」という関係性になるわけです。

自作自演の三次元劇場〜🧜🏻‍♀️



しかし場合によっては、そのような行為する意識の側の告白を前にして、そんなうまくいかない場合もある。

「ネットなんかそんなことばっかりですよ」

「SNSではね」


これをヘーゲルは「かたくなな心情」というふうに呼んでいる。
そのような態度をとって相手を赦さない場合には双方は分裂して、決裂して、社会はバラバラになってしまう。

それがカント倫理学だからしかたがないʕ⁎̯͡⁎ʔ༄


基本的に相互承認は強制できるものではないんですね。
赦してもらうことも相手に強制できないので、むしろ相手が逃げ出してしまう可能性もある。

でもやっぱりヘーゲルは、そうなる可能性もあるけれども、私たちの中には他の人たちと社会の中で生きていきたいという欲求があるので、そこに「告白」と「赦し」を通じた相互承認が成立する可能性を見出していたんですね。

どっかのカルトみたいですね🪯


この赦しとは自身を断念し、自らの非現実的な本質を捨て去ることであって、この本質のかたわらに、後者の意識は問題の他者をーーこちらが現実的に行為することであったのだーー同等のものとして定立し、思想にあって行為することがまとう規定からすれば、悪と名ざされていたものを、「善」として承認する。

悪魔教徒といっても過言ではない🤖


相手の真摯な告白を前にして、しかし自分も悪かったと。
なぜならば自分は非現実的な本質にとどまっていた。
つまり口先だけで何もしなかったじゃないかと。
それに対して相手は少なくとも現実的に行為をしていた。
そのような「自分こそが善である」という立場を捨てて、むしろ悪って呼んでしまっていたけれども、「相手の方が善であった」というふうに自分の善悪の判断もひっくり返す。
それによって赦しの行為に立ち入ったということがこの相互承認の決定的なポイントですね。

ペテンだな🧞‍♂️
そんな関係はいずれ破綻するっちゃ🧚🏻‍♀️


最初はお互いに「自分が善」「相手が悪」と固定化して非難し合っていたが、「自分の善は悪」「相手の悪は善」と弁証法的に転倒させることで両者が統合される。
これがヘーゲルのアウフヘーベン。

善と悪の統合にゃ〜😹


ヘーゲルも相互承認で万事解決とは言ってないですね。
というのも有限で様々な判断をする個人が集まる現代社会で必ず対立そのものはなくならない。
だからこそ共に変わっていこうとする姿勢こそが欠かすことができない。

進撃の巨人的にいうと、
私たちは森から出られない。
だからこそ森から出ようとし続けると🦜


うん、すごくわかる。

わかっちゃダメだよ、バカー🦅


具体的に良くなった例というのはあるんですか?今までに🦮

歴史を振り返ると18世紀に言われていた「人権」って実際には白人男性の権利にすぎなかったわけですよね。
まさにその点を批判されて、だんだんと女性や非白人や子供も人権の下に含まれるようになっていった。
もうそれで本当に普遍的な人権概念ができたかというと、例えばLGBTの人権は十分に保障されてないということで批判がある。

それって人類の権利にすぎないですよね。
動物も人権に含まれる日は来るんでしょうか🐁


批判とそれに対する応答を歴史的に繰り返す。
それがなぜ起きるかというと私たちは社会の根底に相互承認関係をひいているから、という構造をヘーゲルは明らかにしてくれるわけです。

動物は批判しないし、それに対する応答もせずに実験を繰り返す。
それがなぜ起きるかというと、おまいらの根底に相互承認関係もヘッタクレもないから🐀

という構造をミィが明らかにしてやる義理はない。
どっちみち却下されるのだし。
ギャハハ(^∇^)




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