続きましてゲツセマネの祈り🌹
弟子たちと最後の晩餐を済ませたイエスは明日の処刑を覚悟してエルサレム近くのゲツセマネへ。
さて、一同がゲツセマネと呼ばれる所に着くと、イエスは弟子たちに仰せになった。
「私が祈る間、ここに座っていなさい」
そしてペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れていかれたが、イエスは深く怖れ、悶え始め、彼らに仰せになった。
「私の魂は悲しみのあまり死ぬほどである。ここにいて目を覚ましていなさい」
そして少し先の方に進み、地にひれ伏し、もしできることならこの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう仰せになった。
アッパ、父よ、あなたにはおできにならないことはありません。
私からこの杯を取り除いてください。
しかし私の思いではなく、み旨のままになさってください。
ここ重要そうですね。そして難しい。
ですね。イエスが祈ってましたね。
最後のひとことが余計でしたね🐠
アッパっていうのはですね、とっても親しみ深いお父さんへの呼び名なんですよ。
お父ちゃんっていう意味なんだ🐟
ほんとにもう、深い深い信頼があって、そういう存在に対する呼びかけ。
これとっても大事なところだと思うんですね。
若松は 何でもかんでもとっても大事🦋
さきほど信仰というのは信頼なんだってお話をしましたけど、
ここでイエスが表現してくれてるのも全幅の信頼ということですよね。
全面的に信頼してんなら、わざわざゲツセマネくんだりまで行く必要なくない?🐛
ドラマ、ドラマ🎭
あなたの思いの通り、あなたの思いが実現しますようにって、
そういう少し複雑な祈りなんですよね。
複雑というよりも、
なんだろう。
自己矛盾?🐁
人間イエスの葛藤を見事に表現しておるな🦉
今までの話だと、苦しみを取り除いてくださいって願うのはあんまりよしとはされてはなかったですよね。
そうでしたっけ?😿
み旨のままになさってくださいというここが、我々が苦しみを取り除いてくれということを願うものを包み込むような感じなんじゃないでしょうか。
意味わかんない🐰
父のみ旨の中に自分の願いを包み込む。
そんな作戦、悪魔でも思いつかんわ🐻
ですんでこのみ旨のままにというところがとても大事なんだと思うんですよね。
なんで?🐏
ここがやっぱり信頼ということですよね。
逆ですね。
本当に心から信頼してんなら、
苦しいのやだー
磔やだー
パパ様助けてー
ってお願いすんじゃね?🐀
でもこれ処刑される寸前のイエスの立ち位置を、すごくきちんと表現してるような気がするんですよね。
哀れな子羊=生贄という立ち位置を見事に表現してますね🦙
ほんとに怖いんだ、ほんとに苦しいんだっていう感情は、それは当然あるじゃないですか。
死刑が確定した囚人の心境ですね🦚
その中で、それは取り除いてほしいんだけれども、でもそれは、あなたの思うことが正しいんですっていう。
たとえ取り除かれなかったとしても大丈夫ですっていうところだと思うんですよ。
自分に言い聞かせてるようなもんだね🐕
あ、今とっても大事なことをおっしゃってくださった。
ほんとその通りなんです。
何でもかんでもとっても大事〜🧚🏻♀️
たとえばですね、一人の人が病気になって亡くなってしまう。
亡くなってしまったらもう駄目だって我々は思いがちだけれども、おっしゃる通りで、たとえ人が亡くなっても大丈夫なんだっていうところまで、イエスのこの言葉は含んでるんだと思うんです。
それってあなたの感想ですよね🐥
だから私たちはですね、神の前でどんなに弱音を吐いてもいいんだと思うんですよ。
どんなに弱くあってもいい。
だけども神の思いというのがそれを超えてくる場合があるということも、やっぱり私たちは忘れずにいたいなということなんじゃないかと思うんですね。
なぜ忘れずにいたいの?🐣
神の思いが自分の思いを超えてくる場合への備え。
天災は忘れなければやってこないシリーズ🧜🏻♀️
要するに死神への備えっことさ🧞♀️
仏教学者で鈴木大拙という人がいるんですけど、
無心になんなくちゃダメだと。
無心というのは、この感覚ととっても近いんだということを言うわけです。
逆ですけどね🐸
無というと何かない感じがするじゃないですか。
しねーよ🦂
うん、空っぽの。
バカくさ🕷️
仏教における無というのはですね、ないというよりも超えてくるというようなイメージなんです。
それは無じゃないよ。
むしろ逆で、無だと思っていたけど無じゃなかった。
空っぽだと思ってたけど空っぽじゃなかった。
それらすべてを超えてくる〜🐋
これぞまさしく神の業。
鈴木のバカが知らない世界🐳
ですんで自分の心を超えてくる。
それが無心ということなんだ。
だからみ旨のまま自分の願いを超えていく。
一生やってな🐹
そういうところに我々を導こうとしてるということなんじゃないかと。
そんなところに導いてどないしまんの?🐒
祈りの正体がわかったとは言わないけど、近づいてきたなと思うのは、
自分が今こういう状態ですということの報告が終わったら、
下手すりゃ何が起ころうと一番ベストだと思う決心を報告に行くというか、その感じですね。
ギャハハー🤣
神への報告、まじウケる👍
そう!まさにそれだと思うんです。
あ、おまえの正体わかった!🙀
ガキの使いだよ~ん👻
なぜ祈るのか。
あるいはなぜ祈らねばならないのか。
まあ同じことだと思うんですけどね。
まず一つ、絶対的に動かせないのは、見失っている自分とつながること。
それは言える🦆
表面上の願いが叶えられることよりも、もっともっと深い人生を生きられる自分がいるって。
その自分とつながっていこうとする、ほとんど僕は本能的な営みだと思うんです。
いやむしろ意図的な営み🐧
人はなぜ祈るのか。
それは我々の中に祈ることでしか埋めることのできない空白が生まれるからなんですよね。
もともと空っぽなんだよ、おまいらは🐦
それを充たすのはやっぱり自分に出会うことなんだと思うんです、一つは。
実はエゴに出会ってるだけだった🐤
”自分と出会う”と”神と出会う”は同じこと。
ひとり3次元劇場だった🐞
よくあの苦しい時の神頼みと言うじゃないですか。
僕ぐらいもう理屈バカ、理屈バカと言われて、
何とか理屈にしようと思ってきた人間でも祈る時はあるわけですよ。
そうするとね、理屈ではどうしようもないことがあるっていう、覚悟のためっていうか、僕はちょっとそんな気がしてきましたね。
あ、理屈バカの話を聞いて、ギターバカのクラプトンを思い出した🥳
ある意味ギブアップ宣言を口に出したり強く思ったりする時に、初めてそれ以上の存在にしか何とかしてもらえることはできないとか、
そこに委ねて、もう理屈の構築をやめるしかないんじゃないかみたいな、入り口な気が僕はちょっとしましたね。
Exactly🗽
理屈バカのくせにいいカンしてるね~
宗教バカを超えてくるかんねー😹