旧約聖書はユダヤ教の聖典で、一神教の神とイスラエルの民との関係が語られていたんですが、新約聖書はキリスト教独自の聖典で、語られているのはイエス・キリストという特別な存在なんです。
ふーん🐁
どっちにしてもクソつまらんかったので、途中で読むのやめましたわ。
源氏物語と同じパターンでつ🐀
これはとっても大事だと思うんですけども、
聖書というのはですね、もちろんキリスト教を信仰してる人の本でもあるんですけども、
キリストに出会うための本であるというふうに考えると、キリスト教徒じゃない人に読まれてほしいですね、やっぱり。
なんで?
キリストに出会ってほしいの?🐛
もっと言いますと、キリスト者じゃない人が読むから見えてくるところっていうのも、ものすごく豊かにあると思うんです。
ああそれは言える。
もっと言うと、キリスト者っていうのやめません?
普通にキリスト教徒って言った方が人間らしくない?🐝
おじさん特別な存在でありたいの?🐞
福音という言葉の意味から教えていただけますか?🌻
福音というのは喜びの知らせという意味なんです。
じゃあ何が喜びの知らせなのか。
それは救世主イエスが生まれてくださった。
こんな大きな喜びはないんだというのが「福音書」ということなんですね。
エビデンスあんの?🍄
そもそもキリスト者じゃない人にとっては福音でもなんでもないですよね。
そもそも福音書はイエスの死後に書かれたものですよね。
パレスチナの地で後にユダヤ教のリーダーになる男子誕生。
ほんで30代で十字架にかけられ物笑いの種になった。
どのへんが福音なの?☘️
福音書は4つありまして、
マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる福音書、それぞれバラバラに成立したそうです。
成立の時期はイエスの死後で、紀元1世紀後半から2世紀頃と考えられています。
つまり生前のイエスに会ったことがない可能性も考えられますね🐠
これ書いた人の名前ですか?🐟
かつてはそう言われてたんですけども、今は1人で書いたんじゃないんだろうというふうに言われてますね。
なるほどね。
「マタイによる福音書」っていうとマタイが書いたと思ってしまいがちだけど、そうではなくて、マタイさんの影響がとっても強い共同体の人々が書いた。
つまりイエスに会ったこともない人が多数存在した可能性が極めて高い🐳
ほんでもみんな似たようなこと書いてんでしょ?🐇
いや、そうでもなくて、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、読んでみると意外と違うなっていうのも多いらしいっす🦥
福音書に記されたイエスの生涯。
大きく6つの出来事に分けられます。
誕生、受洗、宣教、奇跡、受難、復活
羊飼いたちが野宿をして、夜通し羊の群れの番をしていたところ、神の使いが羊飼いたちのそばに立ち、あたりが明るく輝いたので、彼らはひどく恐れました。
御使いは言った。
「怖れることはない。
私は民全体に及ぶ大きな喜びの訪れをあなた方に告げる。
今日ダビデの町に、あなた方のために、救い主がお生まれになった。
この方こそ主メシアである」
ホンマかいや🐿️
あなた方は産着にくるまれて飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見出すであろう。
これが印である。
2000年前あたりはみんなそうじゃん?
乳飲み子はみんな飼い葉桶界隈で寝てたんじゃないですか?🦦
しかしこれを喜ばない人もいました。
時の権力者ヘロデ王です。
彼が怖れたのはイスラエルの民の統治者がベツレヘムに現れるという旧約聖書の予言が成就すること。
王はイエスの命を狙いました。
しかしイエスの父ヨセフの夢に主の使いが現れ、エジプトに逃げるよう告げ、一家は難を逃れます。
ヘロデ王の死後ナザレに居を移したイエス。
彼はここで育つのです。
後付けだろ。
旧約聖書の予言にイエスを当てはめただけやろ🦔
やっぱりあの、イエスという、もう一つの世界の王ということなんですね。
私たちが今、世界だといって、今自分が見てる、見えてる世界だと思ってる。
だけどその見えない世界がもう一つ我々を包んでいるんじゃないか。
イエスはその世界の王なんだと。
もう一つの世界の最高権力者ってわけか🐕
ある意味、権力者が固めた順番だったりとか、物事のルールとは違う存在が現れますよ、違う頂点が現れますよと。
それも権力者が固めたルールだよ🦩
やっぱり私たちのこの世界というのは多く持ってる者が力を持ち、優れてる者が上に行き、という世界ですよね。
キリスト教もそうですよね🦢
イエスが教えてくれる世界は等しさの世界、
等しいということが生まれてしまうと王様は困っちゃうわけですよね。
共産主義が生まれると王様は困っちゃう(>_<)
民衆の上に立ってるわけですから。
キューバ革命みたいなもんやね🦚
これ象徴的なのはイエスが頂点にいる価値観が王様が頂点にいる価値観と同じだったら、
王様に伝えればいいですもんね。
はあ?🦘
そうなんです。
そこがとっても興味深いところで。
羊飼い、すなわち民衆に伝えてるんですよね。
一番大事な喜びの知らせが王ではなくて民衆に告げられた。
それはもしかしたら自分の立場を脅かすんじゃないか。
でヘロデ王というのがですね、2才以下の子供を全員殺すよう命じた。
そうなんだ。
ジャンヌダルクみたいに王様に伝えればよかったのにねぇ🐓
ちなみにヘロデ王は紀元前73年頃~紀元前4年。
イエスは紀元前24年~紀元後9年🎄
2才以下の子供というのはどういうことかというと、世の中をまっすぐ見られる魂ということだと思うんですよね。
王はそういうものを怖れるんですね。
ヘロデ王はどれがイエスかわからんかっただけちゃう?🐏
なのでとりあえず2才以下の子供を全員殺しときゃ間違いないと思った🦏
ですんで歴史的事実かどうかということは、まだ少し検討が必要なんだと思うんですけど、
この聖書がここに、私たちに告げているのは、幼子の心というものがどれだけ重要かということは、間違いなく説かれてると言っていいんじゃないかなというふうに思います。
聖書に書かれた幼子の意味は2歳以下とかそういうことじゃないんじゃないかなと思いますが🦒
洗礼者ヨハネ。
この人はやはりユダヤ人なのでユダヤ教なわけなんですけども、
ヨハネは自分の集まりというのを持っていて、そこに入る時に洗礼を授ける。この方もとっても独特な役割を持って、まさにイエスが生まれるということを我々に告げてくれる。
このおっさんは救世主が現れるというユダヤの預言を告げてくれただけじゃん?🦙
「わたしは水であなた方に洗礼を授けるが、わたしよりも力のある方が来られる。
その方は聖霊と火であなた方に洗礼をお授けになる」
水の洗礼というのは私たちが普通に考える、いわゆる儀礼、儀式としての洗礼ですよね。
聖霊というのは神の働きということですから、目に見えず、本当に風のように私たちの間を行き交っている。
実際ですね、「聖霊」という言葉と「風」という言葉はギリシャ語ではプネウマ。
同じ言葉なんですね。
そういう働きが我々を、とっても重要な道に導いてくれるというわけです。
「火」というのは何かというと、私たちの、やはりこの生きていく上での試練なんだと思うんですよね。
ほな「その方は風と火で洗礼を授ける」と訳した方がよかですね🦚
水の洗礼は受けなくても必ずしもいいんだけど、我々は普通に生きてるだけで洗礼と呼ぶべきものを受けているんだということが表現されてるんじゃないでしょうか。
我々は日々、風と火の洗礼を授かっている。
ありがたいありがたい( ^ω^ )
洗礼を受けるということはですね、ある意味ではその受ける人の下にいるということですよね。
本当はキリスト教の世界ではイエスは神であるというふうに考えられているので、神である存在が人間からとっても大事なものを受け取ったということなんですね。
もう一つの世界の王として茨の冠を授かった(≧∀≦)
我々神というと、上から人々に強い力で何かをするという感じだと思うんですけど、イエスは全然違うんですよね。
イエスはむしろ弱い人に、弱い人間に寄り添っていくということのとっても象徴的な出来事なんだと思うんですね。
イエスが教えてくれるのは等しさの世界じゃないのかよ🦂
弱い人が優遇される世界かよ🕷️
彼はガリラヤの全土であらゆる病の人を癒しました。
その奇跡は評判を呼び、シリアからも病に苦しむ多くの人がイエスのもとへやって来ました。
その姿を見たイエスは山の上で群衆に語り始めます。
自分の貧しさを知る人は幸いである。
天の国はその人たちのものである。
そんな決まりはない🐹
悲しむ人は幸いである。
その人たちは慰められる。
それはある🐰
柔和な人は幸いである。
その人たちは地を受け継ぐ。
土地いらね🐌
義に飢え乾く人は満たされる。
憐れみ深い人は憐れみを受ける。
心の清い人は神を見る。
柔和質直者 則皆見我身🐼
平和をもたらす人は幸いである。
彼らは神の子と呼ばれる。
We are the Children👾
義のために迫害されている人は幸いである。
天の国はその人たちのものである。
迫害されていない人は地獄行き👽
いやいや金がない人ほど心がきれいなんだよ、みたいな単純なやつで読み解いてたような気がするんですけど、
そこちょっと違いますね。
そうですね。
本当の意味での心の貧しさってみんな持ってるんですけど、
みんながそうなんだということが見えてくる。
これぞ本当の意味での心の貧しさ(⌒▽⌒)
自分の心の貧しさが見えるのは、まあいいとして、みんながそうなんだということが見えてくるって。
悪魔による福音書だわ(๑˃̵ᴗ˂̵)
アンタ地獄に堕ちるよʕ⁎̯͡⁎ʔ༄
そうすると我々は自ずと手を携えていくんだろうと思うんですよね。
誰がおまえなんかと手を携えるか🐻
天の国はその人たちのものであるって、私はこの言葉を読むたんびに、
ああ天の国は一人で入ることはできないんだなというふうには思いますね。
だからってみんなを道連れにすんなボケ🐨
何かを持てる、たくさん持ってる、私はこんなに優れてるっていう時、我々は知らないうちに独走してるんです。
一人で歩いてるんですよね。
おまえはいつも独走している🦉
そういう時には天の門はなかなか開きづらい。
もし転んでる人がいるんだったら、転んでる人の手を握れって、
その人と共に行く時、お前の前に天の国が開かれるだろうって、
そういうことなんじゃないかなと思うんですよね。
全然違うね🐧
悲しむ人は幸いである。
これはもしかしたら皆さんご経験あるんじゃないかと思うんですけど。
ないね🐤
何か生きてる間はそんなに自分がその人のことを思ってると思ってなかった。
だけど亡くなってみたらものすごく悲しいということ、あると思うんですよ。
わたちそういう人知ってる🌷
そうすると、あっ、私はこの人のことやっぱり愛してたんだなって。
それは愛じゃないよ。
錯覚だよ。
罪の意識といってもよい🌹
あなたが何かを愛したことは、あなたが生きた悲しみがそれを証明しているということをイエスはやっぱり言いたいんじゃないかなと思うんですけどね。
おまえがそう思いたいだけさ🐈⬛
でもその弱肉強食だったり経済優先だったりとかすると、悲しいイコール弱いと結びつけられそうじゃないですか。
それでオッケー🐩
何があっても弱みを見せない人の方が立派だってなりがちじゃないですか。
メソメソ泣いてるより立派じゃん🦌
みんな実は弱いんだって。
みんな強がってるかもしれないけど弱いんだというのがイエスのメッセージなんじゃないでしょうか。
地獄の門が開いた~🦑
続きまして、ぎー🦀
みんなが同じなんだと。
みんな同じ尊さを持ってるはずなんだと。
本当に満たされたいんだったら自分だけのものを探すなって。
みんなみんなってうるせーよ🐡
なんか評価というものの向こう側、突き抜ける感じですね。
錯覚でつね。
全然突き抜けておりません🐳
そうなんですね。
そこに行きたい。
そこに生きるものは満たされる。
アンタどこに行きたいの?😿
これを聞いてる人はイエスの弟子たちとは限らないんです全然。
暇つぶしで聞いてる人も多いでしょうね😹
普通の人たちにイエスが平易な言葉で、本当にその人の心の奥に語りかけた。
ただこの言葉の前に本当に立てば、何かイエスという人と深く対話できる。
イエスの教えの核心というのがあると言っていいんじゃないかなと思うんですけどね。
若松はイエスと対話できていないと言っていいんじゃないかな。
独りよがりのロックンロール🎸
月経の出血がなかなか止まらない病に苦しむ女性がいました。
医者にかかっても治らず、社会からは穢れているとされ、人と接することも許されない。
12年も苦しんだ彼女は勇気を振り絞ってイエスの姿を探し、衣に触れた。
するとたちどころに血の源が乾いて病気が治った。
空海伝説みたいじゃのう(*´∀`*)
イエスは仰せになった。
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。
安心して行きなさい。
もうこの病気に悩むことはない」
衣に触れるというのはとても象徴的なことなんだと思うんですけども、
イエスにどうにか近づきたいと思ったということの表現なんだろうと思うんですね。
あなたの信仰があなたを救った。
安心して行きなさいと。
私たちの中には自分を癒すだけの力は備わっている。
ということをイエスが教えてくれたということですよね。
だったらイエスに触れるな☠️
あの~、僕五十肩がひどいんですよ。
病院に行きなさい👵🏻
名医と言われる人のとこ行くんですけど。
基本的にはわりと地味なリハビリを教わるわけです。
あなたの信仰があなたを救うのだ👴🏼
わざわざネットで調べて名医に行ったのに、
どこが地味やねん👧🏻
治してくんないじゃないか
信仰が足りない🧒🏻
だけどそこに、先生の言うこと信じて通い続けて、全く歩けなかった人が歩けるようになったりとかするわけですよ。
通い続けることがリハビリだった👨🏾🦯
そのおじいちゃんは、自分のおかげだとは思ってないんだよね。
先生のご指導の賜物でと思ってるし、
先生は、よく根気よく続けましたねっていう関係性なんですよ。
俺これが一番、僕の身近で近い関係かな。
ひとりじゃ何もできないが、先生が寄り添ってくれると自己治癒力が高まるとですね👨🏻🦽
イエスという人はどういう人だったかというと、
やっぱりその苦しむ人の立場に立てる人なんですよ。
どんな人でもイエスの方から探してくれる。
この物語の中に象徴されてるんじゃないかなと思うんですね。
「私の衣に触れたのは誰か」と弟子に探さしてましたね👯♀️
えーっ😩
こん群衆の中で衣に触ったやつを探すんですかい。
イエス(ᵔᴥᵔ)
イエスは収税所に座るマタイを見て弟子にしました。
ローマ帝国のために税を取り立てる徴税人はユダヤ人が罪人と同じように忌み嫌う存在でした。
徴税人や罪人が大勢やって来たのでイエスは一緒に食事をした。
これをユダヤ教のファリサイ派の人々が見て、なぜ罪人や徴税人と食事を共にするのかと聞いた。
医者を必要とするのは健康な人ではなく病人である。
「私が望むのは犠牲ではなく憐れみである」ということが何を意味するか学んできなさい。
私が来たのは正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。
おじさん罪人を憐れむために来たの?🐣
善人なおもてシリーズ?🐥
罪人というと犯罪者みたいなイメージがありますけど、
罪というのはギリシャ語でハマルティア、的外れというぐらいな意味なんですね。
へ~🫨
的を外して生きている人々。
自分だけ、自分がよければそれでいいっていうのも罪でしょうね。
あるいは世の中で行われてることはどうでもいいんだって、
そんな決まり事なんかどうでもいいんだって、
あまりに思ってしまっても、もちろんそれも罪かもしれない。
それは罪じゃないよ。
世の中で行われている決まり事の方が罪だよ。
幼子には見えるけど、アダルトには見えない👼
だけどイエスは、私たちの罪を拒絶するのではなく、共に生きるためにイエスは来た。
ここで重要なのはイエスの考えに「裁き」がない。
裁かない、イエスは。
共に生きる。
そうでもないよ🤴🏾
一度も罪を犯したことのない者が石をぶつけろって言ってたじゃん。
石をぶつけた連中を裁いてるじゃん。
アダルトには裁きが見えないのかしら👰🏼♀️
おまえは今の世の中から外れちゃってるから悪いやつで、会う必要はないよ、ということじゃなくて、
芸能人とかのスキャンダルで言えば、それを知ったことでどんなにこれが人を不愉快にさせるのかとか、苦しむ人がいるのかってわかって、
しかも人間って、ああいう時、魔が差しちゃうんだもわかった上で、
もとより立派なやつになるかもしれないじゃん、みたいな。
なんかそういうのをちょっと思い浮かべるかな。
伊集院光の的外れシリーズ〜🧜🏻♀️
我々の存在は誤りゆえに飛躍するのではないか。
まさにそうだと思うんですよ。
それがやっぱりイエスが私たちに教えてくれてることで、聖書の中にはそういう人物が幾人も出てきます。
かつては虐げられ、世の中の人から冷たい目で見られてた人たちが、イエスのそばでとっても深い経験をしていくというドラマがこれからも出てくると思うんですけども、
楽しみ~🧚🏻♀️