今ここにある幸せという題名のわりには、ずいぶんと暗いはなしを書いてるなぁと、自分でも思います。でも、今ここにある幸せということを書くためには、必要なことなのだということも、わかっています。
今ここにある闇にした方がよくない?🐛
私が幸せというものを見つけるために、必要な経験だった。
ささいな、取るに足りない経験であっても、とても必要な体験だった。
今、そう思っています。
闇ですね~🦋
なぜなら、そうでなければ、こんな小学生のときの小さな体験が、何度もフラッシュバックする理由がわからなくなってしまうからです。
そもそも「こんな小学生のときの小さな体験」っつーのが間違った認識ですからね👼
前提が間違っていれば、今ここにあるのは間違った幸せ。
いわゆる妄想、錯覚、精神病☃️
こんなささいな体験を、50年以上も引きずるなんて思いもかけませんでした。
ささいな体験じゃないからさ🐸
取るに足らない体験でもない。
でも、そこにはなにか、必ず意味があるはずです。そのこと自体は、長年の経験から、わかっています。
おまえは何もわかってない。
今ここにあるのは誤った解釈、いわゆる誤解でつ🐧
誰も何の理由もなく、人を傷つけてはいけない。
それは、自分のたましいを、傷つけることになるから。
自分がゆるしても、たましいは決して忘れないから。
だからこそ50年以上も引きずったわけですよね🐤
今ここで、私の隣にすわり、なんてことのない雑談をしてくれる彼女(私の奥さん)を、うらぎることがなかったことに、感謝するばかりです。
自分が弱い人間であり、短気ですぐ、カーっとなることは、よく知っています。
老害は集団自決せよ🐍
だから、彼女にひどい言葉をなげつけ、結婚生活が終わったとしても、なんの不思議もありません。
奥さんに耳が遠くなったと言われてカチンときたりとかね🐢
ただ、そうはなりませんでした。
ですから、今ここにある幸せは、私の力でも、努力の結果でもないことは確かなことです。
「私の奥さん」がそばにいてくれることが幸せか🐜
いい年こいて🐞
このことを書いているとき、私のなかに、ある一つの発見がありました。
小さい頃のあだなはアイクンです🐨
このブログを書いているとき、(よく私は人の名前をイニシャルで書いていました。)ブログに出てくる(私が傷つけた)友人の名前は、 I 君だなぁと思ったとき。
その瞬間、なぜ、私のあだ名がアイクンだったかという理由がわかったのです。
このブログを書いているとき、(よく私は人の名前をイニシャルで書いていました。)ブログに出てくる(私が傷つけた)友人の名前は、 I 君だなぁと思ったとき。
その瞬間、なぜ、私のあだ名がアイクンだったかという理由がわかったのです。
なんですぐわかるおっさんだな🐼
それは、(何年か後に、このブログに出てくる友人のイニシャルである) I 君という意味であること。
なぜ、50年の間、あのことがフラッシュバックし続けたのか。
意味不明🐰
今となっては、友人の I 君は、私そのものであったこと。
もちろん、友人の I 君は、今もこの日本のどこかに、ちゃんと存在しているだろうことは、わかっています。(時間経過も逆なのもわかっています。)
一生やってな🐓
それでも、彼は私なのだ。
彼にしたことは、私自身にしたこと。なぜなら、彼は私のもう一人の自分。
この世は、私を主役にした舞台なのだから…
そこに登場する人物は、すべて私というものが映しだされたもののはずなのだから…
前提が間違っていれば、導き出した答えも間違いである🦚
変な終わりかたになってしまいましたね。今ここにある幸せ 1~3を終えさせていただきます。いつも読んでいただき、ありがとうございました。
My pleasure✨
こちらこそありがとうございますぅ🙏
世界の真相を知ることがわたちの喜び。
わたちが生まれてきた意味。
なので人類の思考の歪みを知ることが極めて重要なのです。
ギャハハ😹
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