「自ら命を絶つ」のはいけないことか お釈迦様の答えは
何でもかんでも釈迦に聞いてんじゃねーよ、クズ🐿️
お釈迦さまがいらした約2500年前も、自分の意志で命を絶つ修行僧はいました。自らの命を自分で終わらせるのは、果たして悪いことなのか。それはお釈迦さまのいた時代から議論され続けてきた議題でもあります。
たまにガソリンかぶって焼身自殺する僧侶がいますね。
本人は抗議のつもりらしいけどキチガヒとしか言いようがない(>_<)
仏教には悟りを開くことを目指す者たちが守るべき「十重禁戒」という「戒」があんだろ🐀
その冒頭には「不殺生戒」といって、生き物を故意に殺してはならないことが掲げられてんだろ🐁
答えは出てんじゃんか🦘
何を議論しとんねん、おまいらは🦏
仏教には「殺生してはいけない」というルールがあるけれども、自ら死を選択するのは果たしてどうなのか。弟子たちは解釈に迷い、お釈迦さまに問いました。
生臭坊主めが🦂
するとお釈迦さまは、自死を選んだ人に対して、こうおっしゃいました。「涅槃に入られた」と。それはつまり、永遠の悟りの境地に入ったということ。
それってあなたの解釈ですよね🐣
究極の安楽の状態に入ったと表現されました。
永遠の悟りの境地と究極の安楽の状態は全然違いますけど何か🐥
涅槃とは、
サンスクリット語でニルヴァーナといい、「吹き消す」ことを意味します。煩悩の火が吹き消された状態。すべての束縛から解脱すること🌻
「涅槃に入られた」などというもったいぶった表現が逆に誤解を生んだんじゃないすか?🦩
要は肉体という衣を脱ぎ捨てた、
生の苦しみから解放された、
地上におけるありとあらゆる束縛から抜け出した、
ってことですよね🦢
不殺生というルールからも解放されたっちゃー🧚🏻♀️
めでためでた🧞♀️
ま、私としては、おめーら俺の骨を拾ったりすんなよ、そんなもの川に流して捨てちまえ。
テメエはそれでいいかもしれんが、川の方はたまったもんじゃねえな🐸
と生前に言われていたにもかかわらず、わんわん泣きながら師の骨を拾って懐に大事にしまい込んだ弟子たちが自分の考えをこそっと織り込みながら伝えたのが今の仏教なわけで、
そうそう🦆
仏教なんてどこまでが釈迦の教えなのかきわめて怪しいものだと思っています。
過去はすべて消え去った。
釈迦の教えも消え去った。
末法末法。
残っているのは伊勢白山道の教えぐらいのものじゃ🦉
コワイネー
お題目を唱えながらどかどかどかどか太鼓を叩いて練り歩く、ご近所迷惑以外の何ものでもない、うるせぇ宗派の坊主と信徒がこんなこと言うのをよく聞きますね。
聞いたことないでつね🐹
仏教界では釈迦は輪廻転生を否定していたかどうかについての議論がいまだにあります。
たぶん否定してないと思いますよ。
だってエビデンスないもん🐰
釈迦が何を考えていたかについて会ったことも無い私が語れるはずも無いけれど、彼の思想の核となる世界観「空」などをみても、彼はきわめて現実的で哲学的な思索しかしていなかった人のように思えます。
そもそも「空」だって彼の思想かどうかわかったもんじゃないぜ🐼
もしもそれが釈迦の世界観だとしたら、不殺生戒など無意味。
輪廻転生を否定していたとしたら、やはり不殺生戒は無意味。
てゆうか悟りそのものが無意味www
「空」は般若心経の世界観であって釈迦の思想ではない。
要するに日本仏教はいろんな思想がごちゃまぜになって、時代に合わせて都合よく書き換えられて今に至っていると観じます🦚
インドもそうだよね。
ヒンドゥ教の神様の中にお釈迦さんが紛れ込んでたりとかʕ⁎̯͡⁎ʔ༄
そして死後の世界や霊魂といったものについては「無記」すなわち、俺ぁ死んでねぇからわかんねぇよ、という姿勢を貫いている。
要するにあやつは何もわかっちゃいなかった🐧
悟りなんざ開いちゃいなかった🐦
瞑想のやりすぎでアッチに行っちゃっただけだった🐤
ギャハハ
むしろアンタどうしてそんな死んでみねぇとわかんねぇような無駄なことに思い悩むの?という姿勢さえも見える。
要するに未熟者だよ。
一休と同じさ(ᵔᴥᵔ)
ギャハハ
彼が出家したきっかけとなったものが、人は生前に積んだ徳によって善きところに生まれる。ゆえに善き所に生まれなかった者は前世の悪業を積んだものだから差別されて当然だ、という今も残るカースト制に基づく不平等社会であり、それに対する大いなる疑念だったはずです。
本来のカーストは完璧な平等なんやけどね~
哲学というより形而上学なので霊的人間でないと理解できない。
釈迦はコテコテの物質主義者。
二足歩行のうんこ王子にすぎなかったいうオチでんな👾
わざわざうんこを拭いた布を纏ったり、乞食やって喜んでいたあたりは前世の悪業の結果と言わざるを得ませんわ😹
だから望まずとも「何者か」に生まれついてしまった皇太子ゴータマは、「何者でもない」乞食修行者の道をあえて選んだ。
皇太子は「何者か」で、乞食修行者は「何者でもない」と?😿
無知無明の一般凡人らしいものの見方でワロタ🎃
つまり解脱というのは私からみると、生きているうちにそういった世界観を「くだらない与太話だ」と明らめて「捨て」て迷いを断ち切ることであって、そういった世界観にとらわれながら解脱するというのは、ありえないことだと思っています。
くだらない与太話だと明らめて捨てて迷いを断ち切るのも、そういった世界観にとらわれながら解脱するようなもんやで🤖
脱スピ界隈なんか観察していると、そのてのスピリチュアルな世界が99%がウソであっても1%ぐらいは本物が残っているかもしれないと妙な期待をしている人が多いように思います。
つまり脱スピしてないってことだ🦄
だからいつまで経ってもその世界から足を洗えない。
お前もな🐻
でもその1%への期待が・・・落とし穴なんじゃないですかね。
考えすぎだよ🐨
たとえ落とし穴でなくとも、それは間違いなく「迷い」の姿そのものだと思いますよ。
お前もな🐷
その迷いはもちろん自ら作り出しているものですよ。でも彼らは気づかない。
お前もな🐮
彼らはおのれを立派なものだと信じている「何者かでありたい」願望に囚われ続ける小さき人たちだから。
小さいものほど大きく見せたがるもんでございます🐕
ちなみに
以上の話は、解脱して悟った私が教えちゃるわい、というふざけた話ではなく、もし仏教的な悟りとか解脱とかいうものがあったら、そういう現実的なものなんでないの?という単なる感想を善きも悪しきもひっくるめ現実以外ものの見えない小さき私が述べたものに過ぎません。
んなことは言われなくても知っとるわ🦎
あ、最後のところだけね。
ものの見えない小さき私でんでん🐌
お前は現実すらちゃんと見えていない。
仏教的な悟りとか解脱とかいうあたりがそもそも非現実そのものなのだしヽ(´▽`)/