祈りを、うたにこめて

祈りうた(導かれて  星野富弘の「芙蓉家族」に導かれて)

星野富弘の「芙蓉(ふよう)家族」に導かれて

 

 

 星野富弘の詩「芙蓉家族」に導かれた。

 

 

芙蓉家族   星野富弘

 

花がお母さん

つぼみが子供たち

我家の庭の

芙蓉家族です

私は神様の扶養家族です

(星野富弘「星野富弘全詩集Ⅱ 空に」学研)

 

 

 わたしは十九歳で家を出た。その後、正社員の職に就くまで奨学金とアルバイトで生活した。父母の「扶養家族」であった年数と「家族」として一つ屋根で過ごした年数とは、重なっている。
 扶養家族は、身柄を預け、衣も食も与えてもらう存在。まるごとお世話になります、という存在である。そのくせ甘えもし、不平不満も感じ、文句もつけ、心配までかける存在である。
 キリスト教・プロテスタントの洗礼を受けたのが三十二歳だった。それ以来長い間、わたしもまた「神様の扶養家族」である。
 神さまのお世話になっているのだから、しかるべき感謝なしでは人として
おかしい、ということになる。
 だが、わたしはどうであるか。
 暮らしも支えていただいている。心の課題にも応じていただいている。衣食住のたすけと、魂の養いとの両方をぜんぶ世話していただいているのだ。
 だが、と思う。
 感謝にとぼしい―これはそのとおりで、恥ずかしい。クリスチャンの特殊用語に「感謝です」という言い回しがあるが、朝に夕に祈るとき、真心から「感謝です。神さまありがとうございます」と、床(ゆか)に額をつけるような思いでお礼をいうのは毎日毎度のことではないのだ。正直なところ。
 だが、と思う。
 わたしはそもそも、どれほど神さまに身柄をお預けしているか。神さまに心配をかけるのは得意だが、「甘え」のほうはどうか。素裸の気持ちになって甘えているか、と振り返ると怪しくなってはこないか。
 心をすっかりお預けして、神さまと毎日毎度お話をし、悩み事を相談し、アドバイスをいただいているか。弱さもいやらしさも隠さず、プライドも棄てて。
 実際のところは、自分の考え、気持ち、判断などを優先させ、決めてから、「こう決めましたから、あとは神様、よろしくお願いいたします」と、得手勝手な祈りをしているのではないか。
 星野富弘は、若いときに事故にあい、体のほとんどの部分が動かなくなった。けれど、口で絵筆をくわえることを知った。その口で花々を描き、詩を紡(つむ)いでいる。知っておられる方も多いことと思う。その絵の透明さに、その詩の真実味に心慰められる方も少なくないにちがいない。
 私がこの「芙蓉家族」という詩から教えられたこと、それは、神さまへの全幅(ぜんぷく)の信頼、ということである。
 カッコ悪さこそ神さまはくるんでくださるのだから、嘘をつかなくていい、隠し立てをすることはない、虚勢を張らずに全部をお預けし、「神様の扶養家族」となればいい、それがいちばんの感謝なのだから―と、そうユーモラスに教えられたのである。

 

●ご訪問ありがとうございます。
 ブログを始めて一年経ちました。あきっぽいわたしですが、ここまで続けてこられたのは、目を通してくださる方々のおかげです。
 詩でもエッセイでも川柳でも俳句でも、「作品」の形にしていこうと思って投稿を始めました。出来の良し悪しは、というより、満足のいくような作品はあまりに少ないのですが、「掘り下げて書こう」「嘘を書かないようにしよう」「平易なことばで書こう」などという思いで書いてきました。

 新しい一年が始まりました。他の優れた方々の作品に導かれながら、「でくの坊」の歩みを続けていきたいと思います。

 



 

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