一人では、広がるのは自分の目の前の道。
だけど、人と出会い、話し、気持ちを少しでも互いに理解するだけで、その人の先にも自分の道が見えてきます。
その誰かの先に見える道は、無限の可能性があると感じます。
1人からは一つだけど、2人からは二つじゃないといいます。
実感してます。
人と人が出会うとその可能性は無限大に増えるようです。
そして、選択肢もその分増える。
ただ、全てが自分の人生にとって良い選択肢ばかりではないことも、しっかり納得しておく必要があると感じます。
十人十色で世間で出会う方は本当に皆さん様々な考え方だったり、環境だったりです。
そして、類は友を呼ぶように、その時の自分と何かしら同じ感じ方の人に出会うと思います。
良いと感じる方も、苦手と感じる方も。
色んな方々と出会うことで、見えてきた道を、自分の良心と相談して選ぶ。
誰かの責任にする事なく、自分の責任で選ぶ。
それがとても大切だと思います。
良心と相談するとは?で、一番の根底には、「それが良心に反するかどうか」があります。
ただ有難いことに、自分の心が感謝を感じて生活できるようになると、実は「良心に反するかどうか」で選択しなければならないことには出会わなくなるみたいなんです。
もしかすると、以前と同じように自分の前には来ているのかもしれませんが、自分がそれを《選ぶ》感覚で受け止めてないのかも。
「良心に反する」その道はもう細い細い枝のような道で、自分の認識を外れているのかもしれません。
その次は、《自分が笑顔で居られるかどうか》かな?
それは周りにとっては有難いことだけど、それを選ぶことで、自分の笑顔が消える。もしくは、表面だけの笑顔になってしまう。なら、選ばない方が良いと思います。
きっと、心に無理をさせてる。
ただ、自分の癖や習慣を変えないとならないと感じてのちょっと自分に厳しい選択なら、きっと先の自分のイメージは笑顔でしょうから、明るい未来の自分の為に選ぶ。
そして、その次にくる選択のポイントは、《自分の先祖を想像すること》かな?
それは、家族の賛成を貰えることを選ぶということではないんです。
子供が親の賛成を得られなくても、自分の道を進むことは、良い面が沢山あると思うので、互いに傷つけ合わなければ、その選択も良いと思います。結果は進んでみなければわからないから。
だから、家族の心ではなく、もうこの世にいない先祖を想像する。です。
昔の人の「そんなことをしたら、ご先祖様に申し訳が立たない。」もそんな感覚かもしれませんが、ただ、表面的な心情ではなく、とりあえず、《ご先祖様を想像してみる》ことが大切な気がします。
自分が見たことも聞いたこともない先祖です。
血のつながりではなく、今自分が名乗っている苗字の先祖が大切な気がします。
自分は凄い数の先祖のつながりで生まれて来ている事実を受け止めることが、多分、大切だと感じるんです。
私は結婚してからは、夫の姓を名乗っていますから、私は主に夫の先祖を想像します。でも、実家姓の先祖も想像します。
今私が存在しているのは、全て先祖あってのこと。
結婚してからは、夫の先祖の沢山の見えない恩恵を受けている気がするので、私を主に助けてくれているのは、夫の先祖70%実家の先祖30%のような感じがしています。
私は宗教は何もしていませんが、先祖は実在した方々なので、自分なりの感謝の供養はすごく大切だと感じています。
お寺や神社やどこかの宗教の門を叩く必要もなく、ただ、自分なりに、《自分が生きてることをただ感謝する》供養です。
方法が分からなくても、探せば、自分にしっくり来る方法が見つかるとおもいます。
日々起こることは全て、今の自分にとって必要なこと。
自分がその出来事に出会うことで、どう行動するかの自分を知るために起こること。
そして、その先の選ぶ内容は、感情ではなく、良心に相談する。
もしも感情で選んでしまっても、自分で責任を持つ。人の責任にしない。
人はみんな死ぬ時が来るようです。
むしろ、生き物はいとも簡単に死んでしまうのに、自分は39年間も生きていられてる。
それが本当に奇跡だと思います。
だから、自分にいつどんな《死ぬ時》が来るのかは分からないけど、生きている時も死ぬ瞬間も、自分が今生きてることにただ笑顔で《有難い》って思える人生を生きられたらいいなと思っているんです。
死ぬから、今を一生懸命生きられることを忘れないようにしたいんです。
だから、自分の行動や言葉に常に責任を持つ必要があると思うんです。
それが《選ぶ》ということ。
心から、私と私の大切な人たちを今日も生かして頂いて、ありがとうございます。
だけど、人と出会い、話し、気持ちを少しでも互いに理解するだけで、その人の先にも自分の道が見えてきます。
その誰かの先に見える道は、無限の可能性があると感じます。
1人からは一つだけど、2人からは二つじゃないといいます。
実感してます。
人と人が出会うとその可能性は無限大に増えるようです。
そして、選択肢もその分増える。
ただ、全てが自分の人生にとって良い選択肢ばかりではないことも、しっかり納得しておく必要があると感じます。
十人十色で世間で出会う方は本当に皆さん様々な考え方だったり、環境だったりです。
そして、類は友を呼ぶように、その時の自分と何かしら同じ感じ方の人に出会うと思います。
良いと感じる方も、苦手と感じる方も。
色んな方々と出会うことで、見えてきた道を、自分の良心と相談して選ぶ。
誰かの責任にする事なく、自分の責任で選ぶ。
それがとても大切だと思います。
良心と相談するとは?で、一番の根底には、「それが良心に反するかどうか」があります。
ただ有難いことに、自分の心が感謝を感じて生活できるようになると、実は「良心に反するかどうか」で選択しなければならないことには出会わなくなるみたいなんです。
もしかすると、以前と同じように自分の前には来ているのかもしれませんが、自分がそれを《選ぶ》感覚で受け止めてないのかも。
「良心に反する」その道はもう細い細い枝のような道で、自分の認識を外れているのかもしれません。
その次は、《自分が笑顔で居られるかどうか》かな?
それは周りにとっては有難いことだけど、それを選ぶことで、自分の笑顔が消える。もしくは、表面だけの笑顔になってしまう。なら、選ばない方が良いと思います。
きっと、心に無理をさせてる。
ただ、自分の癖や習慣を変えないとならないと感じてのちょっと自分に厳しい選択なら、きっと先の自分のイメージは笑顔でしょうから、明るい未来の自分の為に選ぶ。
そして、その次にくる選択のポイントは、《自分の先祖を想像すること》かな?
それは、家族の賛成を貰えることを選ぶということではないんです。
子供が親の賛成を得られなくても、自分の道を進むことは、良い面が沢山あると思うので、互いに傷つけ合わなければ、その選択も良いと思います。結果は進んでみなければわからないから。
だから、家族の心ではなく、もうこの世にいない先祖を想像する。です。
昔の人の「そんなことをしたら、ご先祖様に申し訳が立たない。」もそんな感覚かもしれませんが、ただ、表面的な心情ではなく、とりあえず、《ご先祖様を想像してみる》ことが大切な気がします。
自分が見たことも聞いたこともない先祖です。
血のつながりではなく、今自分が名乗っている苗字の先祖が大切な気がします。
自分は凄い数の先祖のつながりで生まれて来ている事実を受け止めることが、多分、大切だと感じるんです。
私は結婚してからは、夫の姓を名乗っていますから、私は主に夫の先祖を想像します。でも、実家姓の先祖も想像します。
今私が存在しているのは、全て先祖あってのこと。
結婚してからは、夫の先祖の沢山の見えない恩恵を受けている気がするので、私を主に助けてくれているのは、夫の先祖70%実家の先祖30%のような感じがしています。
私は宗教は何もしていませんが、先祖は実在した方々なので、自分なりの感謝の供養はすごく大切だと感じています。
お寺や神社やどこかの宗教の門を叩く必要もなく、ただ、自分なりに、《自分が生きてることをただ感謝する》供養です。
方法が分からなくても、探せば、自分にしっくり来る方法が見つかるとおもいます。
日々起こることは全て、今の自分にとって必要なこと。
自分がその出来事に出会うことで、どう行動するかの自分を知るために起こること。
そして、その先の選ぶ内容は、感情ではなく、良心に相談する。
もしも感情で選んでしまっても、自分で責任を持つ。人の責任にしない。
人はみんな死ぬ時が来るようです。
むしろ、生き物はいとも簡単に死んでしまうのに、自分は39年間も生きていられてる。
それが本当に奇跡だと思います。
だから、自分にいつどんな《死ぬ時》が来るのかは分からないけど、生きている時も死ぬ瞬間も、自分が今生きてることにただ笑顔で《有難い》って思える人生を生きられたらいいなと思っているんです。
死ぬから、今を一生懸命生きられることを忘れないようにしたいんです。
だから、自分の行動や言葉に常に責任を持つ必要があると思うんです。
それが《選ぶ》ということ。
心から、私と私の大切な人たちを今日も生かして頂いて、ありがとうございます。