文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

「漫画少年」への投稿 漫画家デビューの夜明け前

2017-11-09 22:38:32 | 序章

藤雄が「漫画少年」(学童社刊)の入選常連になったのも、ちょうどこの頃だった。

戦前、「少年倶楽部」(講談社刊)の名編集長として活躍し、終戦後、GHQの指令による公職追放処分を受け、講談社の退職を迫られた加藤謙一が自ら起業し、創刊した月刊誌「漫画少年」は、手塚治虫の名作『ジャングル大帝』や後にライフワークとなる『火の鳥』といった良質の作品をプロデュースするだけではなく、漫画家志望者のために多くのページを割き、手塚治虫を選者に迎えた大規模な読者投稿欄を設けるなど、プロ漫画家への登竜門として大きな役割を果たした。

投稿規定は、いずれも一コマや四コマなどのコマ漫画であったが、歴代の入選常連の投稿家には、その後漫画家として功なり名を遂げた者が多く、寺田ヒロオ(代表作『背番号0』、『スポーツマン金太郎』)、藤子・F・不二雄(『ドラえもん』、『パーマン』)、藤子不二雄Ⓐ(『忍者ハットリくん』、『怪物くん』)、石ノ森章太郎(『サイボーグ009』、『仮面ライダー』) 、松本零士、高井研一郎(『総務部総務課 山口六平太』、『プロゴルファー織部金次郎』)、石川球太(『原人ビビ』、『牙王』)、森田拳次(『丸出だめ夫』、『ロボタン』)、板井れんたろう(『ポテト大将』、『おらぁグズラだど』)と枚挙に暇がない。

また、惜しくも入選を逃したものの、毎回熱心に自作漫画を投稿していた者の中には、イラストレーターの横尾忠則や和田誠、黒田征太郎、写真家の篠山紀信、作家の筒井康隆や平井和正、眉村卓といった、その後、漫画以外のフィールドで、戦後カルチャーを牽引する一流クリエーター達の顔が並び、当時の感性豊かな少年達に「漫画少年」が与えた影響力の大きさを改めて痛感させられる。

藤雄の初入選は、1954年5月号で、この時初めて、自作の漫画とともに「赤塚不二夫」の名が活字となって大きく踊った。 

以降、藤雄(以後、赤塚少年)は「漫画少年」の入選常連となり、投稿家の通信欄で会員募集をしていた、同じく入選常連の横綱であり、その華麗なペンタッチと奇抜なアイデアで既に天才少年の名を欲しいままにしていた石ノ森章太郎が主宰する「東日本漫画研究会」に入会する。

その後、自らの漫画製作プロダクション「フジオ・プロ」を設立した際、アイデアブレーン、作画スタッフ、マネージャーとして赤塚不二夫を支える長谷邦夫、高井研一郎、横山孝雄といった同会の会員達と文通を通じ、知遇を得たのも、入会して間もなくのことであった。