文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

クレージー・キャッツの大進撃とその影響 『スーダラおじさん』の転機

2018-08-21 13:54:42 | 第1章

一方、クレージー・キャッツは、1961年より、日本テレビ系で、歌とコントをメインとしたバラエティーショー『シャボン玉ホリデー』がスタート。クレージーの破壊的なギャグパワーは、更にヒートアップし、作詞・青島幸男/作曲・萩原哲晶による『スーダラ節』、『ハイそれまでョ』、『無責任一代男』といった一連の無責任ソングがスマッシュヒットする。

翌62年からは、植木等を主演に迎えた古沢憲吾監督の東宝映画『ニッポン無責任時代』と『ニッポン無責任野郎』が公開され、こちらも大ヒット。その後も『日本一の色男』、『日本一のホラ吹き男』、『日本一のゴマすり男』等、『日本一の○○男』シリーズが続々と製作されるなど、クレージー・キャッツの活躍は留まることを知らず、映画、テレビ、レコードとあらゆるメディアを通し、彼らは、高度経済成長時代の現代社会にエネルギッシュな笑いと、その歪みがもたらすフラストレーションを発散させて余りある緩和剤の役割を果たしてゆくことになる。

また、クレージーの面々が発する強烈なフレーズ「お呼びでない? お呼びないね、こりゃまた失礼致しましたっ!」、「こりゃシャクだった」、「ガチョーン」、「言いたかないけど、面倒みたよ」は、いずれも流行語となり、日本人の笑いの価値観を根底から覆した。

クレージー・キャッツの大進撃は、我が国における笑いへの時代感覚をも確実に変えてゆき、60年代前半以降、『スチャラカ社員』、『てなもんや三度笠』等、演者の強烈な個性のぶつかり合いがナンセンスな笑いを増幅させてゆく、新鮮且つパワフルなお笑い番組が続々と誕生する呼び水となった。

その後、赤塚は「週刊少年サンデー」に、攻撃的な悪ガキが核実験の反対を訴える宇宙人の子供と遭遇する珍奇譚を綴った読み切り『ミスターかぐや』(62年2号)を間を空けて描き、その翌々週、同じく「サンデー」に『スーダラおじさん』(62年5号~6号)という10ページの短編を二本続けて発表する。

『スーダラおじさん』はタイトルからもわかるように、空前のクレージー・ブームにインスパイアされて描いた一本だ。

後に登場する赤塚マンガ最大の人気キャラクター、バカボンのパパを彷彿させる能天気でグータラな親父が、家族や町の人達を相手にはた迷惑な騒ぎを繰り広げると同時に、自らの道化ぶりを重ね、笑いを誘発してゆくという、取り立てて進取性のない、江戸落語的ともいうべき古典的ファースの定石を基本素材としたユーモア漫画だが、三段抜きの大画面で、十八人もの登場人物達がミュージカル仕立てで、威風堂々と『スーダラ節』を歌い、最後を締め括るシーンは実に圧巻だ。

『ニッポン無責任時代』のようなスタイリッシュな笑いを生み出すまでには至らなかった本作品であるが、個人を拘束するあらゆる柵から超然としたC調ぶりと、高揚感沸き立つミュージカルアクションを威勢良く取り入れたそのズレ下がりの笑いは、日本喜劇映画史上最高傑作として誉れ高い『無責任時代』よりも半年早く世に放たれており、我が国の加速度的な経済発展に伴う、硬直化した集団社会からの解放を夢想する大衆の意識レベルにおける価値観の逆転を、そのままダイレクトに漫画の中に落とし込んだ共時性も含め、赤塚の慧眼ぶりが明瞭に浮き出た好事例と言えるだろう。

傑作にはなり得ていないが、前出の『ミスターかぐや』では、核の根絶が作品のテーゼになっている。

キューバ革命以降、社会主義革命を訴え、容共的と見なされたカストロ政権は、関係が悪化していったアメリカへの侵攻に備え、ソ連との緊密化を進めてゆき、ソ連がキューバ国内に対米の核ミサイルを配置する「アナディル作戦」を敢行する。

それに対し、キューバと国交を断絶したアメリカも準戦時体制に入り、国内にて、核弾頭ミサイルを発射準備体制に置くなど、キューバを挟んでの米ソ冷戦における緊張は、地球的規模での高まりを見せていた。

そんな騒然とした時代の刻印が、この作品のテーマに盛り込まれている。

また、前年に発表された『インスタント君』は、シマダヤの「味付即席ラーメン」のPRを目的として描かれた作品であり、当時、巷で爆発的にヒットしていたインスタントラーメンがコンセプションの原点となっている。

このように、赤塚の発想力に季節的なテーマではなく、時事世相や社会風俗を、子供漫画、大人漫画の媒体を問わず、貪欲なまでにテーマとして取り入れてしまう機を見るに敏なゲリラ的マスコミ感覚が芽生えつつあった。

時代の大きな波に揉まれながら、スタンダードだった赤塚の作品スタイルにも徐々に変化が現れ始める。

そう、赤塚作品がメタモルフォーゼを遂げる瞬間が、この時すぐそこまで来ていたのだ。

 


赤塚ギャグへの助走と過渡期の生活ユーモア漫画

2018-08-21 09:48:16 | 第1章

1960年頃から、赤塚は少女向け生活ユーモア漫画から、少年向けギャグ漫画へと比重を置くようになった。

いずれもヒットには至らなかったが、打てば空振り三振、守ればトンネルエラーという弱小少年野球チームの活躍(?)をドタバタテイストいっぱいに描いた『トンネルチーム』(「たのしい四年生」60年4月号~9月号)、長男、長女、次男の3人兄弟のうちの兄と弟の愚兄賢弟ぶりを、弟のイノセントな視点からユーモラスに綴ったハートウォーミング・コメディー『ボクはなんでもしっている』(「たのしい五年生」61年4月号~62年3月号)、『ナマちゃん』のレギュラーキャラを主人公にしたスピンオフ作品『カン太郎』(「冒険王」61年5月号~9月号)といったタイトルを月刊誌に連載した後、檜舞台の「週刊少年サンデー」、「週刊少年マガジン」に読み切りを単発で執筆してゆくことになる。

「サンデー」、では、お風呂に三分間浸かれば、たちまち頭が冴え渡り、難事件もすぐさま解決してしまう『インスタント君』(61年9号)、グローブを盗まれた少年と泥棒の知恵比べを珍妙に綴った『たまおのどろぼうたいじ』(「別冊少年サンデー 春季号」61年4月1日)、ナマちゃんよりも更に悪戯好きで、ドライな現代っ子が大人をへこます『チャン吉くん』(「別冊少年サンデー」62年1月1日お正月ゆかい号)、父親が務める会社の社長宅に倅がサラリーマン修業に出掛けて、シッチャッカメッチャッカなトラブルを巻き起こす『ぼくは・・・・・サラリーマン』(「別冊少年サンデー 春季号」62年4月1日)といった作品を執筆。「マガジン」では、エイプリルフールの日に、騙し騙され合う子供達の掛け合いを小気味良く綴った『だまそうくん』(61年15号、単行本収録時に『ダマちゃん』と改題)を単発で発表した後、初の週刊誌連載『キツツキ貫太』(61年23号~34号)を執筆する。

『キツツキ貫太』は、元気いっぱいの貫太少年が、真夏の炎天下に幽霊を取っ捕まえてルームクーラー代わりに使用するなど、毎回、ちょっぴり奇想天外な物語とノリの良いスラップスティックが日常の中で展開する、赤塚としても新生面を拓いたコメディーだったが、ページ数の少なさなどによる障壁から、その前衛的才覚をアピールするまでには至らず、連載回数全十二回をもって終了してしまう。

月刊誌時代の黄金期が終焉に近付きつつあったこの時期、生活ユーモア漫画というジャンルそのものも過渡期を迎えていた。

月刊サイクルの生活ユーモア漫画では、その季節の出来事からルーティンなテーマをアレンジすることで、物語を構築してゆくことが可能だったのだが、月に四本もの作品を生み出さなければならない週刊サイクルでは、日常生活を中心とした笑いから飛躍し、テーマを拡張しなければならなかったのだ。

それまでの季節感を伴った生活ユーモア漫画は、お正月号では、凧揚げや餅つき、お年玉、雪合戦というテーマを筆頭に、4月号では、花見や新学期、8月号では、海や山に海水浴やキャンプに行き、9月号では、運動会で大騒動という一つの定型が、毎度の如くストーリーに織り込まれていた。

赤塚は、歯切れの悪いこれらの季節的テーマを主体とした従来の笑いのセオリーを打破すべく、試行錯誤を重ねてゆく。

赤塚にとっての圧倒的な命題は、スラップスティックとナンセンスという異なる二つの概念を同等の妥当性をもって結晶化せしめることだった。

そして、その試みは成功し、赤塚ギャグというハード&ラウドな笑いの形態を新たに打ち立て、戦後ギャグ漫画のメインストリームを切り開くことになるのだが、そこに到達するまでには、今暫くの時間が必要だったのだ。