その頃、何処にでも点在していた空き地や横町を舞台にした賑わい豊かな仮想世界は、ギャグやアクション、珍妙な言葉や台詞を次々と打ち出し、奇想天外な笑いを誘発する反面、腕白盛りの少年達の等身大の生活や不変的心性と鮮やかに連動し、ナンセンスな笑いを標榜しつつも、作品世界によりリアルな実在感を高めてゆく。
そのリアリズムの根源となったのが、引き揚げ直後、赤塚が少年時代を過ごした奈良県大和郡山市での悪ガキ生活であった。
『おそ松くん』の名バイプレイヤーにして、赤塚キャラの最初のスーパースターであるチビ太は、キャラクターデザインこそ、『ナマちゃん』に登場したカン太郎と『キツツキ貫太』の二つのキャラクターをフュージョンしたものだが、イジメや逆境に負けず、しぶとく生き抜くその野性的性格は、小学生当時の赤塚ら悪童が虐めたり、からかったりして遊んでいた馬車屋(運送業)の息子の「ジョンジョン」という下級生のそれをイメージしたものだった。
では、チビ太のモデルになったジョンジョンとはどんな子供だったのだろうか。
若干長くなるが、ジョンジョンについて綴った赤塚の回想をここに引いてみたい。
「ぼくはいつもこのチビ(名和註・ジョンジョン)を狙っていじめていた。こいつは馬車屋のムスコだった。タフなやつでハラがへるとミミズでもネズミでも平気で食ってしまう、おそろしいガキだった。だが、いつもハラをへらしているぼくは、そんなジョンジョンがうらやましかった。
ある日、町はずれで火事があった。ぼくらの仲間はたちまちいままでの遊びを中止して、火事見物の遠征にでかけることにした。たまたまそこにいたチビのジョンジョンはやっかいなのでおいていくことにした。ところがやつはどうしてもつれていけといってきかない。ゲンコツを二、三発お見舞いしても、泣きもせず必死になってせがむのだった。
しょうがないのでそのかわりに、
「ハトのクソをくうてみい」
と要求した。ジョンジョンはいやいやながらも、それを口に入れたので、ぼくはいささかびっくりしたが、
「味はどや?」
ときくと、
「にがい」という。
「うまいといわんか、われ」
ぼくが命令するとやつは、
「うまい」
とひとこといった。
このジョンジョンがぼくの漫画にでてくる、チビ太の原型となった。」
(『ギャグほどステキな商売はない』廣済堂、77年)
ジョンジョンがチビ太の原型とするなら、赤塚には、殊更チビ太を厳しく扱うおそ松との近似性を感じる。
『おそ松くん』が発表された当時、子供は汚れなく純真な存在であるという幻想を引きずっていた時代であったが、赤塚は、自身の少年時代を反芻し、子供が本来持つ弱者への容赦ない残酷性や強者には徹底して媚びへつらう蝙蝠的性格、金銭や物質的な欲求を第一に優先する即物的な生き方など、大人が眉をひそめるであろうダークな情動さえも、ストレートにキャラクターへ投射させた。
だが、そうしたキャラクターの性格付けにおいても、赤塚らしい複眼的な視点が注がれ、読者の共鳴要因となって然るべき血の通った人間的な感情も、各々の個性に吹き入れられる。
そのようなヒューマンな側面を各パーソナリティーに味付けするヒントになったのも、やはり赤塚の記憶に甦る少年の日々の郷愁であり、その心のアルバムをセピア色に彩る仲間達の間で芽生えた友情と連帯であった。
前出のジョンジョンは、この後、赤塚らに仲間として認められ、無事火事見物へと連れて行ってもらえたのだが、身体が小さく、みんなよりも遥かに体力の劣る彼は、帰宅の際、疲れ切って足が棒になってしまい、もはや歩いて帰れる状態ではなかったという。
それでも、赤塚達は、そんなジョンジョンをひっぱたいたり、小突いたりしつつも、代わる代わる交代で彼を背負いながら、自宅まで送り届けてあげる。
乱暴だけど、気まぐれに優しい、悪ガキ達の心根と温かい連帯感が伝わってくる好エピソードだ。
赤塚少年らがジョンジョンに注いだ気まぐれなその優しさは、形を変えて、六つ子やチビ太ら悪童どもが時折見せる正義感へと純化され、その性格描写は、屈折した感情や粗暴さ、C調ぶりといった禍々しい負の要素だけに偏ることなく、バランス感覚に満ちたキャラクターの多面的な魅力を引き立ててゆく。
特に、悪戯好きで、大きなトンカチを片手に暴れ回るキカン坊のチビ太が、カエルや猫などの小動物や人間社会から疎外、迫害される黴菌や鬼の子供といった異形のマイノリティーにも、慈愛と友達意識を持って接する優しさは、そこはかとない哀愁を湛えながらも、読む者の心のひだに触れ、赤塚の性格描写の確かさを改めて窺うことが出来る。
因みに、ジョンジョンの鳩の糞のエピソードは、鳩の糞からフーセンガムの包み紙に変換され、「ハタ坊をマークしろ」(65年26号)のイントロダクションにて、六つ子とハタ坊のやり取りとして描かれた。
六つ子がフーセンガムを膨らませながら歩いていると、ハタ坊が「ぼくもガムほしいじょー」と話し掛けて来る。
六つ子が「アーンしてみな。」と、ハタ坊に口を開けさせ、ガムの包み紙を放り込む。
クシャクシャとガムの包み紙を食べるハタ坊。
「ハハハ ガムの紙をくってら。」「こいつヒツジ‼ ハハハ」とからかう六つ子達は、更なる追い打ちを掛け、「ウメーといってみな‼」とハタ坊に対し、徹底的に弄り倒す。
それに対し、ハタ坊は「ウメ~」と答えるが、六つ子は「ばっかやろう。」とハタ坊にゲンコツを喰らわす。
正に、いじめっ子の赤塚が、腕力に乏しいジョンジョンにした理不尽な仕打ちと重なり合って見えるシーンだ。
ハタ坊のキャラクターデザインは、アメリカのカートゥーン全盛時代を牽引したアニメ界の巨匠・テックス・アヴェリーの短編動画(『クレイジーな取り替えっこ』)で、登場人物が驚いた瞬間、両耳からフラッグが飛び出してくるギャグからイメージしたものだが、主体性に欠け、依存心の強いその性格的傾向は、スローモーな動作や思考回路も含め、ジョンジョンの力無し故に哀弱を帯びたそのキャラクターを思い描いたものなのだろう。
それに対し、不運な境遇に晒されても、本能の赴くままに生き抜く強靭な生命力と反骨心を持つチビ太は、ジョンジョンのもう一つのメンタリティーとも言うべき、どこまでもタフで負けん気の強い戦災孤児を彷彿させる強烈なバイタリティーをその性格に託して描いたキャラクターとして見て取れる。
そして、チビ太と言えば、忘れてはならないのが、大好物の串おでんだ。
チビ太が執着する△◯□を模ったおでんは、貪欲なまでに食欲旺盛なジョンジョンのハングリー精神を抽象化した想い出の産物であり、また、赤塚が思い描く終戦直後の貧しさの象徴でもあるのだろう。
このように、六つ子やチビ太、ハタ坊といったキャラクターを創案するにあたり、赤塚の少年期の切なくほろ苦い記憶の数々が、それぞれのキャラクターの輪郭や心の奥底に秘めた内的徳性を形作る構成因子としてホリスティックに統合し、時代を越えても変わらぬ、子供共通の深層心理や普遍的な行動原理と密接に連なり合ったのだ。
これこそが、『おそ松くん』の作品世界にリアルな空気感を醸し出すこととなった最大のファクターと言えるだろう。