文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

藤子不二雄『オバケのQ太郎』との相乗効果

2019-10-17 08:35:04 | 第2章

乗効果

 

このように、日本中の少年読者を爆笑と熱狂の坩堝へと引き込み、漫画とは縁遠い高年齢層にも人気と知名度を上げた『おそ松くん』だが、既に、テレビアニメ化もされ、社会現象を巻き起こしていた藤子不二雄の『オバケのQ太郎』が、『おそ松くん』と同じく「週刊少年サンデー」を発表媒体としていたことによる相乗効果によって、更なる輝きを引き立てたのも、また事実であろう。

元々『オバQ』は、スタジオ・ゼロの財務を支えるべく、新設された雑誌部の企画として始まった藤子・F・不二雄と藤子不二雄Ⓐによるコラボレート作品であり、石ノ森章太郎が脇キャラを描いたほか、当初は赤塚も仕上げと背景を担当するなど、スタジオ・ゼロの豪華メンバーが作画協力に携わったシリーズとしても知られている。

そして、これまで科学冒険物やアクション物などドラマ性を強く打ち出したスタイルの作品を得意としていた藤子不二雄が、ギャグメーカーとしてのそのポストを確固たるものにした磐石こそが、この『オバQ』なのだ。

本来なら、同じ雑誌に連載される競合作品であり、しかもギャグ漫画という形態上、互いの気受けを損ないかねないライバル関係に陥りがちだが、ナンセンスな飛躍にドラマの展開を委ねた、即効性の強い爆笑誘発型の『おそ松』に対し、『オバQ』は、一見オバケという異質で超常的なキャラクターを主人公に据えながらも、子供達のリアルな生活感覚に即した、遅効的な微笑誘発型のギャグを身上としており、両者の笑いにおける質感と起爆性が全く異なるものであるという作品の温度差からも、この二つのギャグ漫画は、互いの魅力を際立たせ、隣接し合う結果となったのだ。

実際、1965年から66年に掛けての『オバQ』、『おそ松』の存在感の際立ちは、同時期におけるあらゆるジャンルの人気漫画とは明らかなディファレンスを放ち、ギャグ漫画という少年漫画の新たなメインストリームをリードする両輪として、漫画出版界に『オバQ』&『おそ松』の二強時代を現出した。

版元の小学館と広告代理店の主導による、他媒体との流通に基準を合わせた斬新なブランディングも効を奏し、両作品のブランドプレミアムがより強化された点も、メディアミックスの先駆けと言えるだろう。

本誌においても、『西遊記』をオリジンとし、『おそ松』、『オバQ』の人気者達と、つのだじろうの『ブラック団』のキャラクター達が一堂に介するグルービーなノリが、お祭り騒ぎ的な高揚ムードをもたらす『ギャハハ三銃士』(『週刊少年サンデー増刊 お正月まんが号』66年1月5日発行)、オバQとチビ太がお互いの優秀さ(?)を競い合う、ドツキ漫才のようなやり取りが緩やかな笑いを振り撒く『オハゲのKK太郎』(「週刊少年サンデー」66年10号)等、作品の垣根を越えて客演するオールスターキャストによる大作漫画のコラボレーションが続々と企画された以外にも、巻頭ページでも両作品の特集記事が頻繁に組まれ、様々な『オバQ』、『おそ松』グッズが、ほぼ毎号のように裏表紙等に広告として大きく宣伝された。

このように、当時、漫画雑誌史上最大の発行部数を誇った「週刊少年サンデー」のツートップとしての『オバQ』、『おそ松』の超絶的人気と、二次媒体との連動を伴ったセンセーショナルなプロモート戦略が、誌面上からもひしひしと伝わってくる。

人気絶頂期の両作品は、総集編として、幾度も「別冊少年サンデー」に纏められ、また、その特集号が、軒並み数十万部という爆発的な売れ行きが続いたことも、特筆に値するだろう。

留まることを知らない『オバQ』&『おそ松』人気に着目した東宝映画は、『喜劇駅前』シリーズの第十五作目『駅前漫画』(監督/佐伯幸三)で、この二大ギャグ漫画を起用。ブラウン管から飛び出したオバQ、おそ松は、森繁久弥、伴淳三郎、フランキー堺といった喜劇界の大御所スター達とも夢の共演を果たし、遂にスクリーンデビューを飾ることになる。

更にブームを拡大した両作品は、この映画のヒットも一つの跳躍材料となり、戦後大衆文化史の一幕に『オバQ』、『おそ松』時代の刻印を刻んだ。


新書版コミックス初の大ベストセラー 『おそ松くん全集』

2019-10-17 02:37:41 | 第2章

丸美屋の『おそ松くんふりかけ』、東京渡辺製菓の『コビト・おそ松くんチョコレート』と同様、『おそ松』人気の圧倒性を印象付けたもう一つのヒット商品に、『おそ松』連載末期より刊行された『おそ松くん全集』全31巻+別巻2巻が挙げられよう。

『おそ松くん』の単行本は、「シェー‼」が流行語として全国的に広まる以前の比較的早い時期に青林堂と東邦図書出版から、それぞれ全5巻として発売されたが、ベストセラーには至らず、版元の小学館の「ゴールデンコミックス」レーベルより選集が一冊リリースされた後、68年に曙出版が新たに設立した新書版レーベル「アケボノコミックス」の第一号として叢書化され、ここで漸く特大ヒットに繋がったという複雑な経緯を辿ったことでも知られている。

続々と刊行された『おそ松くん全集』は、小学館系各児童誌、少年誌に掲載された作品のみをほぼコンプリートした24巻までの初版分だけでも、一五〇万部以上のセールスを記録し、その後も80年代に入るまで重版に重版を重ねた本シリーズの総売り上げ部数は、最終的に五〇〇万部を遥かに上回ることになる。(『おそ松くん全集』の総発行部数を一〇〇〇万部とする文献(『シェーでギャグのパフォーマンス おそ松くんはギャグの先生だった』/「サンデー毎日」90年8月5日号)も存在する。) 

因みに、連載が終了した70年代後半以降も『おそ松くん』は、ホームコミックス(汐文社・全5巻、76年)、サンコミックス(朝日ソノラマ・全10巻、79年)、ボンボンKCコミックス(講談社・全34巻、88年~89年)、竹書房文庫(竹書房・全7巻、95年+全22巻、04年~05年)、小学館文庫(小学館・全1巻、05年)等、複数の出版社から傑作選や完全版が復刻され、そのシリーズだけでも、凡百のギャグ漫画とは桁違いの冊数を弾き出している。

また、テレビアニメ化の決定により、当初はホームグラウンドである「週刊少年サンデー」一誌のみだった『おそ松くん』の連載が、その便乗企画で、「幼稚園」、「小学一年生」、「小学二年生」、「小学四年生」、「ボーイズライフ」といった小学館系各月刊誌において、相次いで開始されるようになると、そのポピュ ラリティーは弥増しに高まってゆき、連日、赤塚のもとに返信しきれない程のファンレターが、それまで以上に舞い込むようになった。

そうした流れから、オフィシャルファンクラブ「六つ子クラブ」を組織し、ファンとの連帯の輪を広げてゆく。そして、1965年からは、愛読者へのレスポンスとPRを兼ねたファン向けの会報誌「おそ松くんニュース」(全12号)、「おそ松くんブック」(2・3合併号を含む全12冊)、「まんが№1」(全7冊)を、赤塚自ら主宰するフジオ・プロより発刊。日々、驚異的な執筆スケジュールに忙殺され、講演やサイン会などの各種イベントやテレビ出演などにも借り出されていた赤塚が、その編纂にタッチすることは一切なく、マネージャーの横山孝雄に実務のほぼ全てを委ねるが、それでも、赤塚自身、レギュラーの連載や読み切りの執筆の合間を抜い、真心の篭った楽しいコマ漫画や漫画教室を熱心なファンに向けてコンスタントに提供するなど、ファンサービスを怠ることはなかった。

同じく1966年には、『おそ松くん』の爆発的人気に目を付けた華書房より、赤塚にとって初の自伝本『シェー‼の自叙伝』が刊行される。

赤塚の自伝的クロニクルは、僅かに90ページ程度で、残りの不足は、『おそ松くん』、『おた助くん』といった初期の代表的な赤塚ギャグ漫画で穴埋めした、些か杜撰な体裁の新書本であるが、「シェー‼」で満天下を沸かせ、一躍時の人となった赤塚の話題性と、漫画家という職業そのものがまだ広く認知されず、存在自体が物珍しかった時代のバックボーンもあり、『シェー‼の自叙伝』は順調に売れ続け、小規模ながらも、ロングセラーとして注目を浴びた。

尚、この本は、アイデアブレーンからスケジュール管理、スタッフの月給計算に至る雑用総務として、その後も長きに渡って赤塚をサポートしてゆく長谷邦夫がゴーストライターを務めた口述筆記本だ。(赤塚名義で発表された活字媒体の作品の多くは、長谷によって執筆されたものである。)

因みに、この華書房は翌67年に不渡りを出し、倒産したため、フジオ・プロがその在庫の多くを買い取り、新規描き下ろしのカバーを巻き直して読者へ頒布することとなる。

その後、華書房の社長であった末広千幸は、ロッキード事件に揺れ動く1976年、パラグアイにコミューンを作り、日本経済の破綻と国家の滅亡を煽ることで、壮大な移住計画を企てるといった大々的な霊感商法詐欺を働き、世間の耳目を集めるが、この詐欺事件をモチーフにした作品で、彼女をモデルにしたキャラクターとして広く世に知られているのが、藤子・F・不二雄の人気漫画『エスパー魔美』の「大預言者あらわる」に登場する銀河王であることをこの場にて補記しておきたい。