文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

フジオ・プロダクション設立 大量生産時代へ

2019-10-15 12:21:17 | 第2章

西新宿に移転した後、保留されたままであった『おそ松くん』のアニメ企画は、具体的な放映開始日時からスポンサーに至るまですんなりと可決した。

因みに、アニメ『おそ松くん』の作画監督と総合演出は、この時スタジオ・ゼロの初代社長に就任していた鈴木伸一が担当することに相成った。

方位学見地に照らして、スタジオ移転が開運効果に繋がる鍵になったとは思い難いが、新天地へと飛翔した赤塚以外のスタジオ・ゼロの漫画家達も、既にその中心勢力がSFとギャグに二極化しつつあった折からの少年漫画誌隆盛の中で、更に人気作家としての活躍の度合いを増し、業界トップのシェアを寡占してゆく。

そして、三階の三四坪のフロアを、藤子不二雄の藤子スタジオ、つのだじろうのつのだプロダクションと三分割して貸し切り、市川ビルは、漫画ブームの上昇気流に乗って、自らも大空に大きく羽ばたきたい、そんな希望を抱いた若者達の烈々たるエネルギーで活気を呈するようになる。

TBSの大晦日の列島生中継で、藤子スタジオの様子が全国ネットで放映されたり、スタジオ・ゼロやフジオ・プロにも、NHKをはじめ多数のテレビクルーの取材が殺到したりと、都心に位置するだけの、ごく一般の複合ビルに過ぎなかっただけの市川ビルが、人気漫画の一大拠点ともいうべきファクトリーとして、一般にも広く認知されるようになったのも、移転後間もなくのことであった。

何しろ、観光バス会社からも、ツアーガイドの申し込みがあり、多数の団体旅行客が見学に訪れたというのだから、如何に市川ビルが注目のスポットとして話題を集めていたかがよくわかる。

社屋拡張に伴い、仕事もスタッフも一気に増えた赤塚は、自らのグループを株式会社フジオ・プロダクションと命名。執筆のスピードアップを図るべく、正式に完全分業制のシステムを採用し、長谷をアイデアブレーンとして、フジオ・プロに所属させた。

長谷のフジオ・プロ入りから程なくして、今度は、1970年以降、曙出版から刊行される赤塚単行本のカバーデザインや赤塚のトータル的なマネージメントを一手に引き受けることとなる横山孝雄もまた、フジオ・プロに新規参入することになり、ここで漸く、長谷、古谷、高井、北見、横山という、赤塚ギャグの全盛期を長期に渡り、バックアップしてゆく布陣が出揃うことになる。

赤塚は、これら有能なスタッフを率い、その才能を惜しみなく放出しながら、ギャグ漫画の第一人者として時代をフルスロットルで駆け抜けてゆく。

フジオ・プロでの執筆作業の分担やアイデア会議の合議制等の詳細は、後程スペースを割いて言及するが、ここでは、当時のハードスケジュール故の内部事情がもたらした、ギャグ漫画を地で行く『おそ松』関連の逸話を紹介したい。

六つ子が主人公である『おそ松くん』は、当然ながらヒトコマ、ヒトコマ、通常の漫画以上に多くのキャラクターを描かなければならない。

そこで、赤塚とスタッフとの間で、作業の効率アップを図るべく、コピー機を導入し、大量複写した六つ子の輪郭部分に表情を描き入れたものを原稿に切り貼りしてみてはどうかという意見交換がなされた。

そのアイデアに乗じた赤塚は、早速、当時としては高価なコピー機を購入し、その提案を実行に移すものの、細かな切り貼り作業は予想以上に手間が掛かった。

結局、描いた方が早いという結論に達し、このアイデアは僅か一年足らずで挫折してしまう。

しばし、都市伝説的に赤塚漫画のキャラクター達は、全てシールとなって画稿に貼り付けられていると語られることがあるが、それは恐らく、このエピソードを下敷きにネット上で自然発生した風説の流布だと思われる。