ブタ松一家やココロのボスファミリーが『ア太郎』のレギュラーメンバーとして常時出演するようになったのは、当時「週刊少年サンデー」の赤塚番記者を務めていた武居俊樹の影響だ。
赤塚同様、熱心な映画フリークだった武居記者は、この頃、絶大な人気を誇っていた『渡り鳥』シリーズ、『流れ者』シリーズといった小林旭の日活の活劇物や、高倉健、鶴田浩二といったスター俳優を主演に迎え、大ヒットを記録した『昭和残侠伝』、『博奕打ち』の各シリーズ等、勧善懲悪劇を磐石に持つ東映任侠路線の熱烈なファンでもあり、まさにブタ松一家とココロ・ファミリーの激化する勢力抗争の縮図などは、そうした武居の好みが充分な触発材料となって実ったアイデアと言えるだろう。
尚、余談になるが、武居に感化され、大の旭ファンとなった赤塚は、その熱烈なファンぶりが、テレビ局の知るところとなり、後にトーク番組で小林旭と共演したり、小林旭のリサイタルにゲストとして招待されたりと、公私に渡って親交を深めてゆくことになる。
このように、松竹大船調の香り沸き立つ人情路線をルーツとした生活ギャグ漫画のスタイルに、当時、幅を効かせていたヤクザ映画の世界観を持ち込み、新たなエネルギーを拡散するとともに、フォーマットの刷新を図った『ア太郎』であったが、連載一年を経ても尚、その人気は好不調の荒波に揉まれ、深く静かに沈んでいた。
確かに、肉体を持たず、超常たる存在に帰属する×五郎が、無意識の状態にある動物などに突然憑依し、ア太郎以外の人間に話し掛けては、周囲をパニックに陥れるというアイデアも、ギャグ漫画としては決して質の低いものではないし、前述のココロのボスをはじめ、面構えも悪ければ、発するジョークも笑えず、診察も誤診だらけという医者としてのモラルが完全に欠落した福笑い病院の医院長といった容貌魁偉なキャラクターらがレギュラー陣に加わり、徐々に作風の趣は、パワフルな度合いを強めつつあった。
しかし、高度経済成長の熱気に溢れ、サイケデリック、フラワーレボリューション、ピーコック革命といった軽佻浮薄な風俗用語が、中学生世代の間でも日常用語化しつつあった時代に、戦災孤児のようにハングリーなア太郎やデコッ八を中心とした義理と度胸の男の世界は、明らかに流行から離反した先祖帰り的な趣向であったし、ギャグの存立基盤においても、因果律に支配された、情緒的風合いが濃厚な人情コメディーでは、『バカボン』の破壊的ナンセンスに匹敵する笑撃的震撼を引き起こすレベルになり得るには至らなかった。
因みに、1968年の時点で、『バカボン』を除くギャグ漫画の人気の中心にして、少年漫画界をリードする鋭角的なナンセンスを弾き出していた作品は、藤子不二雄Ⓐの『怪物くん』であり、ジョージ秋山の『パットマンX』であり、永井豪の『ハレンチ学園』であった。
成る程、『ア太郎』がこれらの諸作品に比べ、些かアナクロニスティックであり、ドメスティックな印象を与えている点は否めない。
テレビメディアにおいても、さしものクレージー・キャッツが往時の人気に陰りを見せ始めていたこの時期、萩本欽一、坂上二郎のコント55号が爆発的ブレイクを果たしたほか、(赤塚も『ウォー!コント55号』(69年7月2日~12月24日)というNET系(現・テレビ朝日)列の公開バラエティー番組に絵師として登場し、55号と共演した。)翌69年には、今尚語り継がれる伝説のコントバラエティー『8時だョ!全員集合』、『巨泉×前武のゲバゲバ90分‼』等、圧倒的スケールを放つお笑い番組が立て続けに放映開始するなど、笑いの質や感覚そのものが、大きく変質を遂げようとしていた転換期でもあった。
従来の傾向を引き継ぎながらも、新たな展開と変革を見せ、土壌を拡大してゆくテレビバラエティーの影響を伴ってか、斬新なギャグ漫画のスタイルを提案する偉才秀才が、群雄割拠しつつあった同時期の少年誌メディアにおいて、その存在を埋没させないためには、ディテールに拘った笑いをテクニカルに紡ぎ出してゆくドラマの内実性以上に、もっと作品総体から醸し出される華やかさと刺激が不可欠とされていたのだ。
本作『ア太郎』が、『おそ松』、『バカボン』と並ぶ赤塚の三大ヒット作として根付くまでには、今暫くの時間が必要だった。