文化遺産としての赤塚不二夫論 今明かされる赤塚ワールドの全貌

赤塚不二夫を文化遺産として遺すべく、赤塚ワールド全般について論及したブログです。主著「赤塚不二夫大先生を読む」ほか多数。

ニャロメ誕生までの奇跡

2020-06-22 21:58:04 | 第4章

さて、ニャロメの活躍により、人気作品となった『ア太郎』であるが、そもそもニャロメとは、いつ頃、どのような形で発生してきたキャラクターなのか、余り知られていない。

元々ニャロメは、ドラマの進行を促すべく、コマの片隅に幕間的に現れては消える、台詞すらない単なるペットマーク的なキャラクターに過ぎなかった。

1968年頃より、赤塚は『バカボン』の作中、リアルなタッチで描かれた月夜の景観を、ページ半分程を使い、ドラマのインターミッション的役割を担う特殊効果として、頻繁に取り入れるようになった。

下絵の段階で、赤塚が大きく鉛筆で「夜」とだけ書いたものを、古谷三敏が、そのリリシズム溢れる繊細な筆致で、バラエティーに富んだ様々な夜景に仕上げ、美麗且つシュールな幻想的空間をヒトコマに凝縮して描いてみせたのだ。

赤塚が下絵の段階で、特にシチュエーションを指定せず、古谷の叙情的センスに一任して描かせたのも、その作品世界に斬新なエフェクトを生み出す一因となったのだろう。

その夜のシーンに、赤塚は一つの点景として、直接ドラマの進行とは関係ない、下弦の月に照らされては、片手倒立する野良犬を神出鬼没に配置させ、読者の意表を突いていた。

そんな類縁性に基づく、自然延長線上に位置するキャラクターとして、『ア太郎』にも、同じく夜景の大ゴマ等に、尖った耳と大きな目が印象的な野良猫を好んで描き加えるようになり、これがニャロメのキャラクターメイクの原点となったのである。

また、「ニャロメ」というネーミングは、1970年代より、オリベッティ社配下のエットレ・ソットサスのデザイン研究所を拠点に、デザイナー、前衛アーティストとして世界を股に掛けて活躍することになる立石鉱一ことタイガー立石と知遇を得た際に、赤塚が直接彼から見せてもらったという自作のナンセンス漫画のワンシーンからヒントを得て、名付けられたものだ。

元々立石は、「ボーイズライフ」のユーモアページを中心に、アメリカンコミックを彷彿させる小洒落たサイレントギャグを複数執筆しており、後に公私に渡り密接な間柄となった赤塚は、前述のフジオ・プロ発行のファン向けギャグ漫画誌「まんが№1」に、やはりシュールな前衛的感覚を際立たせた『ガギググゲゲラ』なるナンセンス漫画を立石に連載させるなど、その才能を高く評価していた。

立石作品の登場人物達が激昂した際に発する、「コンニャロメ」、「キショウメ」といった奇抜な言語表現に直截的な影響を受けた赤塚は、そんな場面転換にのみ登場していた前述のマスコット猫に、ひと言「ニャロメ」と鳴かせ、ここで漸く、ニャロメのキャラクターの原型が形作られることになったのだ。


『バカボン』最初のアニメ化と「週刊少年マガジン」での再連載

2020-06-22 20:09:28 | 第4章

だが、翌1971年、『バカボン』の第一弾目のテレビアニメ化の企画が、当時数々のヒット番組を手掛け、飛ぶ鳥落とす勢いで規模を拡張していたアニメ製作会社・東京ムービーより立ち上がり、日本テレビ系列での放映が決定する。

赤塚は、このアニメ化企画を手土産に講談社の重役に陳謝し、『バカボン』は「週刊少年マガジン」の兄弟誌である「週刊ぼくらマガジン」で再開される。

しかし、四回掲載した後、雑誌が休刊。その後、ワンクッションを置いて、掲載誌を『タイガーマスク』(原作・梶原一騎/作画・辻なおき)や『仮面ライダー』(石ノ森章太郎)といった「週刊ぼくらマガジン」の看板タイトルとともに、ホームグラウンド「週刊少年マガジン」へと切り替え、前述の通り再連載される運びとなった。

古巣に返り咲いた『バカボン』は、バカボン一家を中心としたファミリー向けの日常的笑いは影を潜め、ブロークンギャグとも言うべき狂気と破壊性を高騰させた超ナンセンス漫画へと覚醒を遂げる。

そして、「マガジン」本誌では、途中休載を挟みつつも、1976年49号まで、再び「マガジン」人気を牽引する強力連載の一本として足掛け五年に渡って掲載された。

更に、74年8月号から78年12月号に掛けては、「別冊少年マガジン」(75年6月号より「月刊少年マガジン」と改題)にもレギュラー連載され、同誌のイメージリーダーとなるなど、まさに『バカボン』は、70年代の「マガジン」ブランドをシンボライズする名タイトルとして、各講談社系少年漫画誌をクロスオーバーし、赤塚ギャグ最大級のホームランにして、最長連載記録を樹立するに至った。

『バカボン』関連の事柄で、やはり特記すべきは、完全版や傑作選など、数多の数ほど刊行されたコミックスの存在である。

版元である講談社KCコミックスやアケボノコミックス、竹書房漫画文庫等、この約半世紀で、様々に判型を変えて出版された二〇〇点余りにも及ぶ各シリーズの単行本の発行部数は、累計一二〇〇万部以上を誇り、セールス面においても、赤塚漫画随一のロングランヒットとなる。

また、移籍によるトラブルから、急遽講談社児童まんが賞の受賞を取り消される悲運に見舞われたものの、1972年には、この時同時連載中であった『レッツラゴン』とともに、児童漫画家としては初の快挙となる文藝春秋漫画賞受賞の対象作品となり、『バカボン』特有の反秩序反理性の発想原理を基盤としたギャグのダイナミズムは、アフォリズムの次元へと転位して余りある鋭峰なカリカチュールとして、あらゆる世代より圧倒的評価を獲得するまでに至った。

テレビアニメにおいても、第一作目に当たる『天才バカボン』放送終了後以降も、『元祖天才バカボン』、『平成天才バカボン』、『レレレの天才バカボン』と、赤塚存命中においても計四度に渡ってシリーズ放映され、その都度アニメ企画に連動する形で、児童誌を中心に複数本の新作が断続的に新連載、もしくは旧作が再掲載された。

また、様々な企業のイメージキャラクターとして、広告やテレビCMに幾度となく登場するなど、『天才バカボン』は、名実ともに赤塚漫画の代名詞となった。