1965年頃から、『おそ松くん』の爆発的ヒットにより、漫画家として一気に知名度を上げた赤塚のもとに、青年向け漫画誌からも、ポツポツと執筆の依頼が舞い込むようになる。
当時「週刊少年サンデー」の主力作家だったため、メインとして迎えられることはなかったが、1968年の「ビッグコミック」創刊に際しては、人間の本音と建前における本音の部分を、壁一面に映し出される影を使い、戯画化した『影一族』(68年10月号)、台詞や擬音が全て漢文調で書かれた、新種の時代劇パロディー『用心棒的人物』(68年12月号)、『用心棒的人物』の西部劇バージョンで、お尋ね者と悪徳シェリフとインディアンの三つ巴の決闘を描いた『猛烈的西部人』(69年1月号)、様々な形状の足跡を通し、そこに反照される人間模様をサイレント映画風に描出した『アシアトモノガタリ』(69年10月10日号)と『アシあとものがたり』(69年10月25日号)、日常で起こり得るハプニングや災難を記録映画風に捉えた『わが家の日よう日』(69年9月10日号)と『ナンでも見てやろう』(69年9月25日号)、アメリカナイズされたブラックジョークをオムニバス形式で綴ったヒトコマ漫画集『秋です』(69年11月10日号)、『たき火』(69年12月10日号)といった単独作品を多数寄稿し、刊行間もない同誌の一角を支えた。
だが、本格的に青年漫画に着手するようになったのは、第七章にて後述する『ギャグゲリラ』の連載開始以降のことで、「ビッグコミック」系列の諸誌のほか、「リイドコミック」、「週刊漫画アクション」といった比較的メジャーな媒体にも進出し、やはりブラッキーな臭気を強めた迷作、奇作、怪作を立て続けに発表してゆく。
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「リイドコミック」では、『名人』、『ニャロメ』といった作品が、創刊よりレギュラー執筆されていたが、赤塚が、同誌で異常性際立つナンセンス読み切りを多数発表するようになったのは、1975年を境にしてからである。
同誌で赤塚は、誇大妄想癖を患っているとある高校生が、ふとした出会いにより、早老病をも併発してしまう異端の恋愛譚『かけあし人生』(75年11月7日号)、幸せな新婚夫婦が不幸のどん底に叩き落とされてゆく様が、寒々しくも可笑しい『恐怖のネゴト男』(76年5月6日号)、一人のマッドサイエンティストの常軌を逸した価値観とそれに乗じた暴走を、複数回に渡りシリーズ化した『ナンセンセイ』(「リイドコミック増刊」76年8月12日号、10月14日号、12月9日号、77年4月14日号)、無知無能な産業スパイのトホホな失態が、鮮やかな落ちとなって際立つ『イレズミ作戦』(76年10月7日号)等の奇作、怪作を、ポツポツと単発で発表した後、暫しのブランクを挟み、『赤塚不二夫のギャグランド』(79年2月15日号~9月27日号)を約半年間連載する。
擬似乱数や芸能古事記といった雑問で、読者の硬くなった頭をほぐす赤塚版「頭の体操」とも言える「共通第3次試験」(79年3月1日号)、歪な純和風の装いの世界観を画稿狭しと展観する「日本に来たことのない外国人の筆による日本のまんが」(79年6月7日号)等、いずれも、手を変え品を変え、遊び心溢れるアイデアを目一杯に詰め込んだバラエティーページ的なコンテンツを包含したシリーズだが、特筆すべきは、当時好評を博していたNHK大河ドラマ『草燃える』をパロディー化した「秘話ここほれワンワン」(79年4月5日号)だ。
殿様であるレレレのおじさんが滅亡した徳川家を再興すべく埋めた小判を巡り、様々な人間が数奇な運命に翻弄されてゆく様を、軽快且つシニカルなユーモアに染め上げて綴ったナンセンス叙事詩で、その無駄のないコマ運びとストーリーテリングの冴えは、まさにギャグの鬼才の面目躍如といったところだろう。
ラストは、時空が現代へと飛び、小判を見付け出したチンピラが、それを元手に純和風高級トルコ風呂(現在の名称はソープランド)〝江戸城〟を立ち上げ、徳川家が再建されるという、意想外の落ちへと流れ込み、読む者の虚を衝く。
尚、単行本では、今一つわかりづらいが、原画展などで、本エピソードの生原稿を見た者は、その異様とも言える大きさに、皆一様に驚くという。
それもその筈、雑誌掲載用の漫画原稿は、通常その1・2倍で描かれるが、この原画は、凡そ2倍もの大きさで執筆されているのだ。
原画が大きくなれば、製作面において、手間が掛かるばかりか、版元側にも、更なる経済的負担がのし掛かることは必至だ。
しかし、笑いに一切の妥協を許さない赤塚は、担当編集者と何気ない会話を交わす中、一気呵成にこのエピソードを描き上げてしまったそうな。
この「秘話ここほれワンワン」もまた、『天才バカボン』の「実物大のバカボンなのだ」や「説明つき左手漫画なのだ」といったメタフィジカルなナンセンスにも一脈通じる、稀代のギャグマスター・赤塚ならではの執筆パフォーマンスと言えようか。
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「週刊漫画アクション」では、『荷車権太郎』(「週刊漫画アクション」78年7月27日号~8月17日号)と『いじわる爺さん』の二タイトルが、短期集中連載作品として、立て続けに発表される。
新潟の片田舎から、一旗上げようと上京してきた厳つい風貌の中年男・荷車権太郎。御年四三歳で、学歴もコネもなく、おまけに童貞という八方塞がりの状況の中、持ち前のガッツと努力で一段の奮闘を重ねてゆくが、底抜けに純情で、世間知らずの権太郎にとって、都会の風は余りにも世知辛く、冷たかった。
しかし、そんな権太郎にも、女神のような女性が現れる。
同じアパートの住民で、神永アスカという若く麗しい女性だ。
権太郎は、アスカの激励に発奮し、職探しに奔走するが、頑張れば頑張るほど、全てが空回りし、いつしか精神の均衡を失ってゆく……。
不器用にしか生きられない人間の純粋結晶されたある種の悲壮感を、暗い現実の闇の中で、燦然と横たわる逆説的な輝きに準えつつ、濃密な情感を込めて綴った異色のトラジェディー。
いずれのエピソードも、爆笑シーンになる筈のところを、そうならない一歩手前で留めており、そこはかとない哀切を帯びた作劇の妙が、突出したインプレッションを残している。
そして、それに続く、あっけなくも衝撃的な幕切れもまた、自己存在の不安に苛まれている全ての現代人の心の傷と重なり合い、誇り高き虚無として、読者に深い感銘を刻まずにはおかないだろう。
長期連載を意識した展開にも耐え得るテーマだっただけに、全四回をもって終了したことが、甚だ遺憾なところでもある。
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『いじわる爺さん』(78年11月30日号~79年3月20日号、不定期連載)は、一兆円の倍の倍のその一〇倍の、そのまた一〇〇倍の財産を持つが、そのドケチな性質ゆえ、住む家にも、着るものにも無頓着な褌一丁の意地井の爺さんが、人生の終焉期を迎え、これまで、人間のあらゆる愉悦を犠牲にし、貯めに貯めた巨万の富を如何にして遣うかが、毎回のそのあらましとなるブラックコメディーである。
アメリカ国内でも、有数のカートゥニストであったボブ・バトルの『意地悪じいさん』とは、タイトルこそ同じであるものの、意地悪へのアプローチは、カラッとしたエスプリを交えたボブ・バトル版よりも、赤塚版の方が更に刺々しく、サディスティックな戦慄を局在化せしめており、より逸脱性を強めたシックジョークに彩られている。
芸者遊びをしたかった若き日に想いを馳せ、酒と女で身を持ち崩した重症患者に、自らの代理として、散々っぱら遊ばせ、死に到らしめたかと思えば、町全体をミュージカルの舞台にし、出演させた住民達を全員、筋肉痛で動けなくするなど、その異常なまでのサディズムの欲求は、自らの欲望を徹底的に制して生きてきた青春期へのルサンチマンに貫かれたものだ。
しかしながら、意地井の爺さんは、拝金主義の世において、無秩序を体現したトリックスターであり、それゆえ、社会のあらゆる束縛のもとで生活を余儀なくされている人間にとって、その心の奥底に蠢く根源的自由への憧憬、延いては破壊的願望を代償的に充足させてくれる、ある意味痛快な存在と言えなくもない。
同じく「漫画アクション」誌上に、読み切りとして発表された『赤塚不二夫のタリラリラーン』(78年10月19日号)は、ある日突然、食事立法なる新法案が法制化され、人間の根源的な欲望である、性欲と食欲における倫理的観点が逆転してしまったらという、不条理な局面へと突入してゆくパラレルワールドを描いた好短編。
父親が、セーラー服を着た美少女がカレーライスの大盛りを頬張っている写真に欲情したり、息子が部屋で隠れてガムを噛んでいるところを見られまいと、マスターベーションに耽っている振りをして誤魔化したりと、お約束とも言えるベタな展開が途方もない倒錯を伴い、連打されているが、その脱常識の根拠となるテーマには、果たして、性欲とは否定されて然るべきものなのか否かという、人間の存在の根源に根を下ろした深い問い掛けが、極限の形で刻み込まれている。
共通のサブジェクトを扱った藤子・F・不二雄の傑作短編『気楽に殺ろうよ』と読み比べてみるのも一興だ。
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「ビッグコミック」系列誌を発表媒体とした作品も、シリーズ連載に関しては、『「大先生」を読む。』(「ビッグコミックオリジナル」86年~89年)まで、暫く待たねばならないが、読み切り作品に限っていえば、この時期、快笑をもたらして余りあるエピソードが、連続して複数本描かれることになる。
「ビッグコミック増刊号」に発表された特別読み切り『家族』(78年11月23日号)は、家庭環境に嫌気が差した中年男が、レンタル家族に束の間の安らぎを求め、赤の他人でも、気が合えさえすれば家族であると納得するものの、このレンタル家族間においても、いつしか、その人間関係が泥沼化してゆくといった、病理現象としての家族の孤立化に痛烈なアイロニーを滲ませた一作。
赤塚を含む四大作家が同一のモチーフ(ポスト)から想を得て、競作執筆した『拝啓おまわり様』(『ビッグゴールド』79年№3)もまた、読者にシニカルな快感を誘発し得る、マスターピースに類した一本だ。
ある日、目ん玉つながりが勤務する交番に、指名手配中の怪盗23号から、「このたび 左記の住所に落ち着きましたので ご近所にお出かけの節には ぜひわが家にお立ち寄り下さい」と書かれた手紙と一緒に、現在住居としているアパートの写真が送付される。
目ん玉つながりらは、アジトと見られるアパートに急行するが、何と、怪盗23号は、彼らが到着する一時間前に、既に別の場所へと引っ越していた。
だが、その翌日、交番に怪盗23号からの速達が、またしても舞い込む。
今度は、下落合一丁目のマンションにいるという。
再び、目ん玉つながりらは、そのマンションへと怪盗23号を確保すべく向かうが、またまた現場は裳抜けの殻だった。
だが、そんな追跡劇を続けているうちに、警察は怪盗23号の立ち回り先に関する一つの法則を見出す。
警察は、記者会見を開き、ホワイトボードに貼られた地図に、これまで怪盗23号がアジトとしていた場所と、これから立ち寄るであろう逃走経路を点と線にして結び、そのエリア内をマジックで黒く塗り潰した。
そして、黒マジックで塗り潰したエリア内に、必ず犯人がいて、犯人逮捕も時間の問題であることを記者達に説明する。
だが、その地図上に浮かび上がった点と線は、真っ黒く大きな星状の形を現しており、即ちこの追跡劇そのものが、警察の大黒星を意味していたという皮肉な展開へと、ドラマは更なる急転を見せる。
警察組織の怠慢や愚鈍ぶりを嘲笑うかのような攻撃的な笑いと、警察サイドから見たネガティブな苦笑が、一種の対位法的構造を辿ることによって、ドラマの劇的葛藤を盛り上げており、その同一の妥当性を伴ったフレキシブルな落ちに至るまで、ショートショートとしては、掛け値なしの逸品と言えるだろう。
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