『赤塚不二夫のことを書いたのだ!!』(武居俊樹著/文藝春秋社刊/2005年5月30日発行)
「天知る知知る読者知る」と銘打ち、これまで、『トキワ荘の遺伝子』『漫画に愛を叫んだ男たち』といった赤塚不二夫関連書籍における虚言や歪曲を指摘し、逐一斧正してきた当ブログであるが、今回、取り上げる書籍に関しては、北見けんいちや長谷邦夫が上梓したそれらと違い、事実誤認や記憶違いも多分に含まれているものの、筆者の武居俊樹による、赤塚に対する揶揄や憎悪は皆無と言って良く、赤塚不二夫ディレッタントである筆者としても、赤塚に対する愛情の深さ故か、読後における不快感はほぼほぼない。
勿論、武居による昭和特有の男尊女卑、パワハラ気質の言動など、現在の社会的通念と照らし合わせれば、眉を顰める記述も多分にあるが、筆者もそんな昭和の理不尽極まりない大人達に揉まれて今日まで過ごして来た身。笑って過ごせるレベルであったりする(苦笑)。
そうした負の要素(!?)を踏まえながらも、本書に関する読書感想文を気楽に綴ってみたい。
著者の武居俊樹は、1941年長野県生まれ。一浪した後、早稲田大学第一文学部に入学。卒業後の1966年、小学館に入社し、「週刊少年サンデー」編集部に配属。この時、『おそ松くん』でメキメキと頭角を現わしていた赤塚不二夫番記者となり、その後も『もーれつア太郎』『天才バカボン』『レッツラゴン』といった赤塚の代表作とも言うべき作品を担当し、取り分け、『レッツラゴン』における赤塚VS武居記者における禍々しい誌上バトルは、未だ当時の愛読者の中でも語り草となっている。
そんな赤塚不二夫と蜜月に過ごした武居記者が赤塚に対し、未だ捨て去れぬ目眩く想い出と今尚持ち続ける愛惜の念を綴ったのが、本書であるのだ。
小学館を定年退職した際、武居は常日頃の傍若無人な振る舞いから恐らく快く思っていなかったであろう当時社長であった相賀昌宏に対し、「小学館で仕事をして、凄く楽しかったです。特に、赤塚先生と仕事が出来たことです」と語ったと綴っているが、これも強ち嘘ではないだろう。
事実、武居は本書の冒頭においても、新人、ベテランを含め、二〇〇人を越える漫画家を担当してきた編集者生活の中で、一人だけ特別な存在であったのが、赤塚不二夫だということを記している。
世間的には、あらゆる面により、親の仇の如くボロクソにディスられている赤塚であるが、武居にとって赤塚不二夫とは、その編集者生活、ともすれば、人生において「師」ともいうべき存在であったに違いない。
しかしながら、武居が本書で綴った事実誤認や記憶違いが、赤塚理解に乏しい読者によって真実化され、それが定説となってしまっている点は、誠にもって遺憾であると言わざるを得ない。
本稿では、そうした武居よる事実誤認等の是正も含め、その著作『赤塚不二夫について書いたのだ』について、深く掘り下げて考察してみたい。
まず、第一章「『おそ松くん』担当六代目」で、武居が最初に担当した赤塚作品『おそ松くん』について触れた箇所からの訂正を加えれば、赤塚初の週刊誌連載は、前年に講談社発行のライバル誌「週刊少年マガジン」に掲載された『キツツキ貫太』(61年23号〜34号)というユーモア漫画である。
第二章では、「赤塚藤雄『偽自伝』」と表し、入社翌年の1967年の元旦明け、前年に新築した中野区弥生町の赤塚邸に新年の挨拶に向かうところから始まる。
そこで、サシ呑みした武居は、ほろ酔いの赤塚からこれまでの半生を聞かされるという設定なのだが、これは、それまでの赤塚のプロフィールをエッセイやインタビューから抜粋した内容で、赤塚不二夫ディレッタントとしては、さして誤った記述や真新しい情報はない。
続く第三章「漫画アパートの落ちこぼれ」では、眠ってしまった赤塚に代わり、当時の妻だった登茂子が、結婚から『おそ松くん』誕生時期について語り出すのだが、前章同様、これまでの赤塚のエッセイやインタビュー記事からの引用も目立つため、ここもほぼフィクションであろうことは想像に難くない。
その上で、登茂子は『おそ松くん』の初期の頃の話を始めるのだが、武居は、登茂子に「『おそ松くん』で、赤塚の作ったキャラの絵は、六つ子と、その父母、トト子ちゃんくらいね。他のキャラは、ほとんど高井さんの絵よ。」と語らせている。
事実、イヤミ、デカパン、ハタ坊、ダヨーンは、高井研一郎によってその原型が作られたわけだが、チビ太に関しては、武居の誤りで、『バカボン線友録! 赤塚不二夫の戦後漫画50年史』(学研、95年)で、構成を担当したメモリー・バンクの綿引勝美辺りのミスリードを参照にしたのだろう。
チビ太に関しては、赤塚のオリジナルキャラであり、その原型は、前述の『キツツキ貫太』の主人公と、赤塚の出世作『ナマちゃん』(「漫画王」58年11月号〜61年3月号ほか)に登場する乾物屋の小倅・カン太郎を融合したキャラクターだ。
筆者も資料協力、情報協力という形で参加した2016年公開、シネグリーオ制作によるドキュメンタリー映画「マンガをはみ出した男 赤塚不二夫」(企画、プロデュース/坂本雅司・監督/冨永昌敬)における武居のインタビューでも、劇場公開されたバージョンでは、チビ太についての下りがそのまま流されたものの、後にDVD化された際には、その正確性を重視すべく、カットされている。
また、2017年に刊行された、赤塚不二夫特集号となる「スペクテイター」(Vol.38)所収の高井研一郎へのインタビュー「新しいキャラクターがでる時は、赤塚氏がイメージを言うだけですよ」では、記憶が改ざんされ、「そのときぼくがスケッチしたのがチビ太です。」と述懐する高井に対し、インタビュアーであるエディターの赤田祐一が「チビ太には「カン太郎」という原型がいたみたいですね。」と訊ね、高井が答えに窮するという一幕もあった。
因みに、赤田は、同誌所収の斎藤あきらへのインタビュー「先生、せめてアタリだけでいいから入れてください」においても、代作について語る斎藤について、「他のアシスタントの方々にも聞き取り調査してみましたが、ベテランの斎藤さんが大分を任されたケース(「狂犬トロッキー」「建師ケン作」など、作品掲載時/単行本時に協力者とクレジットされたもの)」は、数多くの赤塚作品のごく一部であると判明されております。この点、誤解なきよう明記しておきます。」と、注釈を添えており、赤塚特集に関する媒体でありながらも、決してやっつけ仕事ではなく、冷静な目を向けてくれたその得難い仕事に、赤塚不二夫ディレッタントとして深く感謝している。
第四章「都の西北、早稲田の隣り」では、『おそ松くん』の最初のアニメ化、『もーれつア太郎』の連載開始時について話は及ぶ。
まず、『おそ松くん』のモノクロアニメであるが、武居の記述のように東映動画制作ではない。
正しくは、チルドレンズ・コーナーとスタジオ・ゼロによって制作されたコラボレート作品である。
スタジオ・ゼロに関しては、拙ブログをお読み頂いている方々には、先刻承知の事柄であろうから、ここでの説明は省くが、チルドレンズ・コーナーとは、元東映動画の山本善次郎がマターを務めていた東映動画三幸スタジオと東映動画大森分室が、山本アニメーション研究所として独立した際に誕生したアニメ制作会社である。
だが、アニメ制作会社といっても、新人アニメーターの育成を兼ねていたため、その出来栄えに不満を抱いていた赤塚が、自身が所属していたスタジオ・ゼロを参入させ、当時、百人町スタジオを主宰し、後にイラストレーターやエッセイストとしても活躍することになる永沢まことが、作画監督の鈴木伸一をサポートすべく、演出や絵コンテを受け持つようになったというのが真相だ。
つまり、厳密に言えば、東映動画は、アニメ「おそ松くん」とは一切関わりがないのだ。
赤塚作品が東映動画によりアニメ化されたのは、昭和末期、平成初期に制作放映されたリメイク版も含め、その後の『もーれつア太郎』であり、この時、既に「りぼん」誌上にて連載を終えていた『ひみつのアッコちゃん』の2タイトルである。
余談だが、後に『赤色エレジー』を執筆し、評判を呼ぶことになる林静一も、永沢のツテで「おそ松くん」の演出に携わっており、そうした事実を知った上で、漫画家を夢見るアニメーターの青年とその恋人との同棲生活を綴った同作を読み返すと、赤塚不二夫ディレッタントとしては、万感胸に迫るものがある。
武居は、『もーれつア太郎』のタイトルについて、小川ローザをフィーチャーした丸善石油のヒットCM「オー、モーレツ」からインスパイアされたかのように語っているが、『ア太郎』の連載開始は1967年、「オー、モーレツ」が流行語となるのが69年のことなので、そこにはタイムラグがある。
正しくは、『おそ松』に継ぐ新連載ということで、「猛烈に当たって欲しい」という赤塚自身の願望を純粋に投射させたタイトルなのだ。
第五章「我々は、あしたのジョーである」では、「週刊少年マガジン」にて絶賛連載中だった『天才バカボン』の「週刊少年サンデー」移籍事件について触れている。
赤塚が長谷邦夫を連れ立ち、頭を下げつつ、『バカボン』移籍について告げた際、当時、「マガジン」編集長であった内田勝は、赤塚の申し入れに対し、あっさりと「結構です。どうぞ」と一言と伝えただけだと記しているが、これはあくまで内田側の証言で、同席していた宮原照夫の述懐では、内田がその要求を飲むに至るまで、相当に激しい遣り取りがあったという。
実際は、『バカボン』移籍への決意の固い赤塚に対し、これ以上どう説得しても無駄だと察した内田が、諦観を込めて「結構です。どうぞ」と語ったというのが真相のようだ。
『天才バカボン』が「サンデー」系列の雑誌での連載が始まった際、赤塚は「週刊漫画サンデー」で、読者対象を大人に特化した『天才バカボンのおやじ』(69年39号〜71年49号ほか)をスタートさせる。
成人向け作品ということもあり、これまでの子供読者を対象とした自身のタッチでは、その世界観を刷新出来ないと悟った赤塚は、枯れたタッチが不可欠と考え、第六話から最終回となる第二十六話まで、作画を古谷三敏に任せるのだが、武居は、『バカボンのおやじ』のペンシラーを古谷ではなく、高井研一郎であると記憶違いをしている。
武居曰く、「高井は自分の仕事を抱えているから、それを終えない限り、赤塚の仕事は手伝えない。そこで赤塚は、高井の仕事に積極的に参加していく。高井の仕事のアイデア、ネーム、当たりまで、赤塚がやってしまうことが何回かあった。」とのことだが、これも高井の仕事ではなく、『ピンキーちゃん』や『プリンセンスプリンちゃん』、『ダメおやじ』といった古谷の諸作品に対してである。
因みに、第五章のタイトルにもある「我々は、あしたのジョーである」は、1970年3月31日、日航機「よど号」が共産主義者同盟赤軍派の学生によってハイジャックされた際、リーダーである田宮高麿が闘争宣言として記した言葉で、正しくは「我々は明日のジョーである」と、赤塚関連のトピックではないものの、その歴史的重要性を鑑み、この場にて訂正を加えておきたい。
第六章「バカボンは復活するのだ!!」では、『もーれつア太郎』終了後、「サンデー」では継続連載された『ぶッかれ * ダン』(70年32号〜71年11号)について触れている。
紙幅の関係もあるので、『ぶッかれ * ダン』がどういった作品であったかについての説明は割愛するが、その第六回目の締め切り日であった1970年8月22日、この年の3月に自宅での不慮のガス爆発事故により、一命を取り留めていた母・リヨが、クモ膜下出血を併発させ、危篤状態に陥っていた。
その後、赤塚の懸命な願いも虚しく、リヨは帰らぬ人となるが、だからといって、「サンデー」の看板作家である赤塚不二夫の作品を不掲載にするわけにはいかない。
この時、赤塚は「一日早く原稿上げておけば、どってことなかったのに。ごめんね」と武居に謝罪したという。
散々っぱら赤塚を「人間のクズ」「生きる価値のない虫けら以下の存在」だと軽蔑し、ディスりまくることを生き甲斐としている御仁がどう捉えるかは知る由もないが、筆者個人としては、その人格の素晴らしさに快哉を叫ばずにいられない、感涙の赤塚エピソードである。
しかしながら、「サンデー」編集部と愛読者に迷惑を掛けたくないという想いから、別作家による代わりの原稿を用意するという編集部の配慮をよそに、赤塚は、赤塚なしの赤塚マンガ、即ちフジオ・プロスタッフによる代筆を要望する。
その代筆作品とは、長谷邦夫がネームを務め、古谷三敏が当たりを担当し、佐々木ドンやとりいかずよしらフジオ・プロのスタッフが総出で仕上げた『ああ!! 大脱獄』(「週刊少年サンデー」70年38号)なる特別読み切りで、執筆者名は赤塚不二夫を除くフジオ・プロ作品とクレジットされている。
従って、『ぶッかれ * ダン』第六話目に当たるエピソード「モテモテアイちゃん けいべつぞ」を長谷以下フジオ・プロスタッフが代筆したという武居の証言は記憶違いであることは安易に理解出来よう。
尚、「この回の代筆に気がついた読者は、誰もいなかった。」という武居の一言は、無知な赤塚ヘイトによって広められ、全ての赤塚作品=長谷邦夫の代筆という低俗極まりない流言飛語を広めるには十分な根拠となったが、赤塚マジックにより昇華されていない凡庸なアイデアや捻りのない落ちは、明確なタッチの差異以上にあからさまであり、悲しいかな、それは平成生まれの後追いの読者にすら、気付かれてしまう始末だ。
(『ああ!! 大脱獄』は、バカボンのパパを主役に据えつつも、その出来栄えの拙さからか、講談社KCコミックスや竹書房文庫版など、数多ある『天才バカボン』関連の単行本でも、収録が見送られていたが、ページの穴埋めを兼ねてか、曙出版より刊行された『天才バカボン』第12巻(71年6月29日発行)にのみ、『天才バカボン番外地』と改題したタイトルで収録されている。)
また、この章では、赤塚をリスペクトするあまりか、門下生を世に送り出し、次々と成功させてゆく赤塚に対し、手塚治虫のアシスタントから大成した漫画家は、殆どいなかったとその対照性についても述べているが、赤塚門下に草鞋を脱ぐ前の古谷三敏ほか、『ワースト』の小室考太郎、『コブラ』の寺沢武一、『Theかぼちゃワイン』の三浦みつる、『スキャンドール』の小谷憲一、『キスより簡単』の石坂啓等、複数人輩出されていることも、この場にて指摘しておきたい。
第七章「アメリカかぶれのゼニ失い」では、赤塚伝説の一つとして知る者も多い、フジオ・プロ経理担当・Hによる「二億円横領事件」について触れている。
税務署の調査によれば、長らく税金を支払われていかったこともあり、その延滞金だけでも六千万円に登るという。
実印まで預け、信用を寄せていたHの背任行為は、赤塚に大打撃を与えて余りあるトラブルであったが、赤塚は若いHの将来を慮り、起訴することはなかった。
その後、全ての負債額を僅か二年足らずで清算したという赤塚の男気とバイタリティーを讃えつつ、この事件に関する顛末が詳細に語られているが、この使い込みが発覚したのは、1972年ではなく、1974年のことである。
事実、1972年は、最もフジオ・プロが財政的に潤っていた頃であり、「まんがNo.1」を自費出版したのも、そうした背景があったからこそに他ならないのだ。
武居は、金銭的にピンチなこんな時期に雑誌を創刊するなんて、タイミングとしては最悪の時だと述べているが、これもまた武居の記憶違いである。
またこの年は、赤塚が漫画家として名実ともにピークを迎えていた時期でもあり、5月には、児童漫画家では初の快挙となる第18回文藝春秋漫画賞を『天才バカボン』で受賞したと書かれているが、正確にいえば、その対象作品は、『天才バカボン』と『レッツラゴン』であったことを記しておきたい。
第八章「『赤塚不二夫』改メ『山田一郎』」では、「山田一郎改名事件」のほか、自身の赤塚番解任、そして、『レッツラゴン』終了以降の赤塚の動向についても語られている。
武居は、その後、赤塚が『レッツラゴン』を一切リメイクしなかったことを引き合いに、他の赤塚の代表作に対し、何回も再アニメ化されていることを挙げ、その都度、赤塚は、『天才バカボン』や『おそ松くん』、『もーれつア太郎』を復活連載していると記しているが、その掲載誌は「コミックボンボン」や「テレビマガジン」、「月刊少年マガジン」や「ヒーローマガジン」と、講談社系の児童漫画誌、少年漫画誌に限ってのものであり、武居が言うように「コロコロコミック」でのリメイク連載には至っていない。
「コロコロコミック」誌上で連載されていたタイトルは、『チビドン』(80年4月号〜81年3月号ほか)『花の菊千代』(81年4月号〜82年3月号)、「別冊コロコロコミック」に1982年から83年に掛けて連載された『不二夫のワルワルワールド』(No.8〜No.12)の3タイトルのみである。
第九章「40 50 60と、私の人生つらかった」は、藤圭子の名曲「夢は夜ひらく」のフレーズをそのままパロディーにしたサブタイトルだが、そのまま赤塚が長いスランプ期に突入した現状を反映させている。
赤塚は、『レッツラゴン』終了後、引き続き「少年サンデー」に『少年フライデー』(74年33号〜75年11号)なるタイトルを連載するものの、評判を呼ぶには至らず、全三十回にも満たない短命作品として終わり、その後、間を置かずして『のらガキ』(75年12号〜76年25号ほか)の連載をスタートさせる。
『のらガキ』について、武居は「のらガキは、捨て子だ。ニャンコというネコに拾われ、育てられた。」と記しているが、のらガキの育ての母は、江波杏子がツボ振りや銅師を好演した大映映画「女賭博師」シリーズの「昇り龍の銀子」からインスパイアされたと思われるお竜という名前で、決してニャンコなどというそれではない。
因みに、江波杏子と赤塚は、かねてから昵懇の間柄で、このお竜もまた、女賭博師としての過去を持つメス猫という設定だ。
また、赤塚にとって「サンデー」最後の連載となった『不二夫のギャグありき』(77年16号〜41号)についても、全十六回と記されているが、実際は二十六回の誤りである。
本書では、このような記述違いは頻繁にあり、同章にて、「コミックボンボン」誌上における『天才バカボン』『おそ松くん』の連載開始時についても触れているが、これらの再連載は、武居が語る1986年ではなく、テレビ東京系列の「まんがのひろば」枠で、再放送されたアニメ「天才バカボン」「元祖天才バカボン」が異常とも言える高視聴率を記録した87年のことだ。
この再放送の好評ぶりが、1988年から91年に掛けて、テレビアニメを含む二次媒体との連動を伴い、席巻することになる赤塚不二夫ルネッサンス期へ向けての起爆剤となったことは言うまでもない。
本章では、赤塚アニメのリバイバルラッシュ以降の最晩年についての記述もあり、最も印象深かったのは、1995年9月13日、新宿のホテル・センチュリー・ハイアットで「赤塚不二夫の漫画家生活40周年と還暦を祝う会」開催された流れから、それを記念して、「ビッグゴールド」誌上にて、巻頭五〇ページの新作漫画が掲載するに至った経緯だ。
同年発覚した一連のオウム真理教事件から材を採り、『シェー教の崩壊』といういささか歪な作品が、チーフのあだち勉以下、古谷三敏、高井研一郎、北見けんいち、土田よしこ、とりいかずよしら、かつてのフジオ・プロの主要メンバーが駆け付け、総出によって製作されたわけだが、武居は、この作品が、赤塚にとって殆ど最後の仕事になると述べているが、その後も、赤塚は寡作ながらも、複数の作品を執筆している。
「週刊漫画サンデー」の創刊40周年記念として寄稿された『用心棒』(96年11月5日号)、「ビッグコミックスペリオール」連載の『酒仙人ダヨーン』(99年1号〜2号)、『赤塚不二夫のさわる絵本 よ〜いどん!』(小学館、00年)、『赤塚不二夫のさわる絵本 ニャロメをさがせ!』(小学館、02年)といった作品群で、この作品が漫画家・赤塚不二夫とってのジ・エンドになったわけではないと、殊の外強調しておきたい。
さて、重箱の隅を突くように、武居による錯誤誤記、記憶違い等を事細かに指摘したが、終章となる「生涯漫画執筆枚数八万枚」では、ページ数そのものは少ないものの、武居による赤塚へのメッセージの数々には、涙腺が緩んでくる想いすらする。
武居は、エドモン・ロスタンによる戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』の主人公・シラノが自らを語る最後の台詞「哲学者たり、理学者たり、詩人、剣客、音楽家、将た天界の旅行者たり、打てば響く毒舌の名人」を引き合いに出し、この時、意識を失い、寝たきりの状態にあった赤塚に対して、次のように述べている。
「『女好き、大酒を飲む子供、小心者、歩く幼稚園、泣き虫、マザコン、人情家、天才漫画家』
そして最後は、『不死鳥』と結ぼう。
不死鳥だったら、立ち上がって、四文字言葉を叫んでみろよ!!」
かつて、武居が赤塚番を解任された時、赤塚は武居にこう言ったという。
「ずっと馬鹿でいなよ。利口になりそうになったらね、『お◯◯こ』って、大声で一〇八回叫ぶんだ。そうすると、また馬鹿に戻れるよ」
武居は、本書が刊行された際、宣伝を兼ねて、文化放送の人気ラジオ番組「吉田照美のやる気MANMAN!!」にゲスト出演した際、生放送であるにも拘わらず、このエピソードを披露し、「自分は、馬鹿に戻るために、いつも一二〇回以上『お◯◯こ』と叫んでます」と語り、パーソナリティの吉田照美と小俣雅子が面食らう一幕もあったが、仮に放送事故だとしても、筆者個人としては、赤塚に対する武居のそこはかとない敬愛とリスペクトを感じさせた。
そして、武居が本書の最後に締め括りとして結んだこの言葉を引用し、本稿を擱筆したい。
筆者には、赤塚の復活を心底願う武居の厚情がこの短いセンテンスに溢れているように思えてならない。
「赤塚不二夫。生涯漫画執筆枚数八万枚。
もう執筆しないとしてだ。」
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