人は、主観的に生きるのが正しいのか。
客観的に生きるのが正しいのか。
それはどちらとも言えないと思う。
人は、限界のある生き物だ。
この世の中に存在できる期間が限られている。
そして、いつ終わるのか、誰も予測できない。
それは、40年後かもしれないし、明日かもしれない。
ヨーロッパで合理的な考え方、感情をできるだけ排した客観的な考え方に触れた。
大人として、憧れる理想的な判断の仕方だ。
アジアの人たちの生き方は、僕には少し主観的、感情的に感じる。
些細なことで思い悩み、衝突する。
状況はどんどん複雑化する。
解決の糸口は見られない。
自己を曲げられないが故の利己的な主張、行動。
しかし、この短い人生で、両者にどれほどの違いがあると言うのだろう。
客観的な考え方というのは、そもそもその人の環境が安全で、安定しているから身に付いたものであって、狭い世界で、明日の身の安全も分からず生きる人たちにどれほど役に立つものだろうか。
主観的か、
客観的か、
それは頭の良し悪しとは関係ない。
究極的に客観性を追い求めれば、人生を生きる情熱は失われてしまう。
先が見えているからだ。
情熱なしで生きられるほど、人生は簡単じゃないし、短くもない。
主観性とは、世界の中の、あるたった一人の人を特別視し、愛する行為だ。
そこに客観性はまるでない。
国立公園の外周を、今日も多くの人が歩く、走る。
ある人は、地面に寝そべって、腹筋を鍛えている。
ある人は、鉄棒で懸垂をしている。
またある人は、芝生の上で太極拳を行なっている。
ゆっくりした手の動き。
ゆっくりと膝を曲げ、重心を下げる。
空は、今朝からずっと曇り空だ。
隣りの建設現場からは、何かを執拗に叩く金属音。
相変わらずのバンコクだ。
自分はなぜ、
ここにいるのだろう。
そんな主観的な質問をできるだけ客観的に回答しようと、
今日も歩く。