元日本ハム・ファイターズの柴田保光さんが10/9、65歳でお亡くなりなりました。
中学・高校の頃、西武戦では決まったように西崎幸広、柴田が対戦投手で、
どちらの投手にも苦戦した思い出があります。
奇しくも西崎はその後西武に、柴田は西武から江夏とのトレードで日本ハムへ。
柴田投手について、「平成初のノーヒットノーラン 通算84勝」と記載される以上に
非常に数奇な野球人生を歩んでいたので、紹介したいと思います。
まず、高校時代は柔道部に入部するも投げられてばかりの毎日に嫌気がさし、退部。
退部の条件が「運動部に所属すること」であったため、近所の先輩がいた軟式野球部へ。
高校卒業後、長崎から愛知の社会人チームに入部し、本格的に硬式野球を。
しかし、このチームがオイルショックの影響で解散。
この時点では、プロ野球でノーヒットノーランを達成する予感すらありません。
柴田投手と同じ時期に日本ハムの1番センターだったのが島田誠選手。
この二人のプロ入り前の経歴はどちらも「あけぼの通商」。
このあけぼの通商は1976年から85年まで10年間だけ存在した謎の社会人チーム。
島田選手は著書でこう述懐しています。
朝10時に商品を積んだライトバンで事務所を出て、
団地などの人の多いところを売って回り、夜10時が帰社です。
ジャージに短髪で、たくましい男たちが団地で声を張り上げると、
なにか変なふうに見られたものです。
戸別にドアをたたき、突撃販売を試みても十中八九は『いらない』と門前払いです。
そのたびにくじけそうになるんですが、
『いや、一度断られたくらいなんだ。スポーツマンは、二度目も行くんだ!』
などと強がりをいいながら、また別のドアをノックする繰り返しでした。
このあけぼの通商は前チームの監督が社会人野球をやるためにつくったものでした。
練習試合では無類の強さを誇るのに、全国大会では必ず1回戦で負ける謎チーム。
理由は旅費・宿泊費がないため、勝ち残ることはできなかったからでした。
味噌や醤油、漢方薬の行商をしながら、8人ものプロ野球選手を産んだあけぼの通商。
(余談ながら漢方の仕入の都合、台湾ともパイプがあり、郭泰源獲得にも影響あり)。
柴田投手はドラフト2位で西武ライオンズへ入団。しかし5年間で8勝10敗。
そして当時の大リリーバー・江夏とのトレードで日本ハムへ移籍。
ここで才能が開花し、ローテーションの中心となります。
移籍2年目に11勝、翌年14勝、その後血行障害手術を受けて復活後は9勝、12勝、9勝。
黄金時代の西武ライオンズに滅法強く、西武からは「日本一の投手」と言われてました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/30/dbd88b28cc6218fb0230a2dcaa9c01c0.jpg)
また、1992年と翌93年はイチロー選手を10打数0安打に抑えてます。
が、翌94年、2000本安打を達成した大島康徳と共に突然の引退発表。
原因は心臓疾患によるドクターストップでした。
前年の成績も7勝(完封2)だっただけに惜しまれての引退。
しかも引退セレモニーの始球式で外角のストライクに速球を投げ込んだのです。
実は福岡ダイエーホークスの根本専務が「FAでうちに来い」と声を掛けていましたが、
(根本はプロ入り当時の監督であり、柴田は長崎の出身)
「根本さんに迷惑かけるから」と断ったそうです。
わがSSSBは同年代の方も多いかと思いますが、個人的な思い入れがあったので、
今回は記事を書かせていただきました。
柴田投手、心よりご冥福をお祈り申し上げます。
中学・高校の頃、西武戦では決まったように西崎幸広、柴田が対戦投手で、
どちらの投手にも苦戦した思い出があります。
奇しくも西崎はその後西武に、柴田は西武から江夏とのトレードで日本ハムへ。
柴田投手について、「平成初のノーヒットノーラン 通算84勝」と記載される以上に
非常に数奇な野球人生を歩んでいたので、紹介したいと思います。
まず、高校時代は柔道部に入部するも投げられてばかりの毎日に嫌気がさし、退部。
退部の条件が「運動部に所属すること」であったため、近所の先輩がいた軟式野球部へ。
高校卒業後、長崎から愛知の社会人チームに入部し、本格的に硬式野球を。
しかし、このチームがオイルショックの影響で解散。
この時点では、プロ野球でノーヒットノーランを達成する予感すらありません。
柴田投手と同じ時期に日本ハムの1番センターだったのが島田誠選手。
この二人のプロ入り前の経歴はどちらも「あけぼの通商」。
このあけぼの通商は1976年から85年まで10年間だけ存在した謎の社会人チーム。
島田選手は著書でこう述懐しています。
朝10時に商品を積んだライトバンで事務所を出て、
団地などの人の多いところを売って回り、夜10時が帰社です。
ジャージに短髪で、たくましい男たちが団地で声を張り上げると、
なにか変なふうに見られたものです。
戸別にドアをたたき、突撃販売を試みても十中八九は『いらない』と門前払いです。
そのたびにくじけそうになるんですが、
『いや、一度断られたくらいなんだ。スポーツマンは、二度目も行くんだ!』
などと強がりをいいながら、また別のドアをノックする繰り返しでした。
このあけぼの通商は前チームの監督が社会人野球をやるためにつくったものでした。
練習試合では無類の強さを誇るのに、全国大会では必ず1回戦で負ける謎チーム。
理由は旅費・宿泊費がないため、勝ち残ることはできなかったからでした。
味噌や醤油、漢方薬の行商をしながら、8人ものプロ野球選手を産んだあけぼの通商。
(余談ながら漢方の仕入の都合、台湾ともパイプがあり、郭泰源獲得にも影響あり)。
柴田投手はドラフト2位で西武ライオンズへ入団。しかし5年間で8勝10敗。
そして当時の大リリーバー・江夏とのトレードで日本ハムへ移籍。
ここで才能が開花し、ローテーションの中心となります。
移籍2年目に11勝、翌年14勝、その後血行障害手術を受けて復活後は9勝、12勝、9勝。
黄金時代の西武ライオンズに滅法強く、西武からは「日本一の投手」と言われてました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/28/30/dbd88b28cc6218fb0230a2dcaa9c01c0.jpg)
また、1992年と翌93年はイチロー選手を10打数0安打に抑えてます。
が、翌94年、2000本安打を達成した大島康徳と共に突然の引退発表。
原因は心臓疾患によるドクターストップでした。
前年の成績も7勝(完封2)だっただけに惜しまれての引退。
しかも引退セレモニーの始球式で外角のストライクに速球を投げ込んだのです。
実は福岡ダイエーホークスの根本専務が「FAでうちに来い」と声を掛けていましたが、
(根本はプロ入り当時の監督であり、柴田は長崎の出身)
「根本さんに迷惑かけるから」と断ったそうです。
わがSSSBは同年代の方も多いかと思いますが、個人的な思い入れがあったので、
今回は記事を書かせていただきました。
柴田投手、心よりご冥福をお祈り申し上げます。