この一年を振り返って
例年と違ったこと。
私自身、6月中旬に交通事故によりケガをしました。軽傷だったのですが、肋骨3か所骨折により、痛みが引くまで1か月ぐらいは、大変でした。肋骨を骨折したのは、初めてだったので、寝ている状態から起き上がる体勢を作るのに苦労しました。いい経験をしたと思っています。肋骨を折った人の痛みや気持ちがよく理解できたからでした。8月末に担当の医師から「もう来なくてもいいですよ、骨はつながっていますから。」と完治の声をかけていただけました。すっかり痛みはなくなっていましたが、医師からレントゲンを見せられて、「完治」の声をかけていただいた時、ほっとしました。「肋骨の骨折なんて、軽傷」でしょうが、初めての経験だったので、それなりに心配でした。一か月間は痛みましたから。
私自身、6月中旬に交通事故によりケガをしました。軽傷だったのですが、肋骨3か所骨折により、痛みが引くまで1か月ぐらいは、大変でした。肋骨を骨折したのは、初めてだったので、寝ている状態から起き上がる体勢を作るのに苦労しました。いい経験をしたと思っています。肋骨を折った人の痛みや気持ちがよく理解できたからでした。8月末に担当の医師から「もう来なくてもいいですよ、骨はつながっていますから。」と完治の声をかけていただけました。すっかり痛みはなくなっていましたが、医師からレントゲンを見せられて、「完治」の声をかけていただいた時、ほっとしました。「肋骨の骨折なんて、軽傷」でしょうが、初めての経験だったので、それなりに心配でした。一か月間は痛みましたから。
この一年、このケガ以外は、「畑作業・歩き旅・ブログの継続」という例通りの生活が続いていました。6月中旬~8月下旬ごろまでは、畑作業が十分にできず、畑は草だらけになってしまいました。夏野菜の栽培もうまくいきませんでした。9月以後は、畑作業と歩き旅をがんばってきたつもりです。
この12月中旬に、中山道69次・全宿場訪問を終えることができました。コロナの影響もあり、7年もかかりましたが、「達成感」を感じることができました。「中山道69次・歩き旅終了」=2024年12月12日でした。
友人で現在も親しくしている人(複数人)が療養中とのことで、お見舞いに行く機会が増えました。軽度認知症になっている友人もいます。同世代の友人たちも後期高齢者になってきています。75歳は「高齢者の峠」と言われています。一応、私はこの峠を無事に通過できたようです。(現在、満76歳) 友人たちの多くも、乗り越えてくれるようにと祈っています。
今年印象に残った旅行先。
中山道歩き旅において、12月11日に訪問した(江戸日本橋から数えて)中山道1番目宿場=板橋宿(中仙道歩き・最後の訪問宿)がたいへん印象に残りました。江戸時代の(実際の)板橋は、板で造られた「太鼓橋」だったようです。現在は道路と水平になる橋でした。橋の上から、(下を流れる)川の水面を見たとき、(水面まで遠いなあ! 結構深い川なんだ!)と独り言。江戸時代、板橋を架ける工事は大変だったのだろう・・・と、想像。板橋宿には「縁切坂」「縁切榎」があり、謎めいた宿場だなあ・・・と思いました。現在も榎の植えられているところ【榎大六天神】にお参りに来る人が多かったですね。私がその榎の近くにいたとき、5、6名の女性がお参りしていました。男性は見かけませんでした・・・
中山道歩き旅において、12月11日に訪問した(江戸日本橋から数えて)中山道1番目宿場=板橋宿(中仙道歩き・最後の訪問宿)がたいへん印象に残りました。江戸時代の(実際の)板橋は、板で造られた「太鼓橋」だったようです。現在は道路と水平になる橋でした。橋の上から、(下を流れる)川の水面を見たとき、(水面まで遠いなあ! 結構深い川なんだ!)と独り言。江戸時代、板橋を架ける工事は大変だったのだろう・・・と、想像。板橋宿には「縁切坂」「縁切榎」があり、謎めいた宿場だなあ・・・と思いました。現在も榎の植えられているところ【榎大六天神】にお参りに来る人が多かったですね。私がその榎の近くにいたとき、5、6名の女性がお参りしていました。男性は見かけませんでした・・・
中山道とは別に、山陽道歩きで、広島県福山市の「神辺(かんなべ)宿」を訪れたことも印象に残りました。神辺宿には「塾」があり、その塾で指導していた有名人に、「頼山陽」の名がありました。
歩ける体(健康年齢)がいつまで続くのか・・・。それは分からないですが、(来年の6月には)満77歳になります。「数え年77歳」が本来の「喜寿」ですが、近年は「満77歳」を喜寿として、長寿を祝うようです。歩ける体で、喜寿をさりげなく乗り越えていくつもりです。
歩き旅を振り返ってみると・・・。10年前(2014年)に、「東海道53次」を京都三条大橋からスタートして、3年かかって江戸(日本橋)まで完歩しました。
歩き旅を振り返ってみると・・・。10年前(2014年)に、「東海道53次」を京都三条大橋からスタートして、3年かかって江戸(日本橋)まで完歩しました。
その後、中山道歩きに挑戦。 最大の難所=和田峠は去年(2023年11月)やっと越えることができ、今年の12月、「中山道69次」(全宿場)完歩した次第です。
今後、山陽道歩きの続きに挑戦していくつもりです。(下関が最終地点です。何年かかることでしょう?)
さて、明日から新年です。心機一転、新しい気分で、ブログもがんばります。
ブログを訪問してくださっている皆さん、今年一年ありがとうございました。皆さんのおかげで、ブログを継続できています。今年になり、50人以上のブログ訪問のある日がたまにありました。本当に、びっくりしています。ブログ開始頃よりも訪問者が増えてきていますので、しっかり書こうと思っています。
ブログを訪問してくださっている皆さん、今年一年ありがとうございました。皆さんのおかげで、ブログを継続できています。今年になり、50人以上のブログ訪問のある日がたまにありました。本当に、びっくりしています。ブログ開始頃よりも訪問者が増えてきていますので、しっかり書こうと思っています。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。 感謝 感謝
現在の板橋 この下の川の水面まで10mぐらいあったかな? この橋を渡ると「商店街」が続いていました。長い長い商店街で、一年中「とげぬき地蔵」近辺は混雑するそうです。
この榎(えのき)の樹皮を煎じて相手に飲ませると、願いが成就するとのこと・・・。本当かな?
日本銀行本店 江戸時代「金座」があった場所 中山道(起点・日本橋)に近い場所に。「金座」は「銀座」ほど有名ではない。銀座は東海道に沿った場所に。明治になり、地名にもなり、大賑わいの所として栄えていった。一方、「金座」は地名にならなかった。「銀座」発祥の地は、東京ではなく、堺市。銀座発祥の地は東京だと勘違いしている人は多い。東京の銀座通りには(以前は)柳の木がたくさん植えられていた。(しかし、現在は1、2本であるが・・・。)
銀座に柳の木が多かったのは、なぜか? 江戸時代、銀職人たちは堺の人が多かった。堺の銀職人たちが江戸に強制移住させられた。堺へ帰りたかったが、幕府は帰してくれない。そこで、「堺の木」=柳を、心の慰めに植えた、という話がある。(私はその話を信じている一人。)堺市に「銀座通り」という商店街がある。銀座発祥地は堺で、中世、堺市が栄えていた時代に、銀職人の仕事場(南鐐座)があったとのこと。