鬼井江の世界(gooブログ)

まだまだ暑いけれど、9月初旬(西国街道と敦賀近辺)歩き旅をしてきました。

 西国街道歩きをしばらく中断していましたが、高槻駅近くの「西国街道・芥川宿」から島本町へ「西国街道歩き」と敦賀市の「疋田宿」周辺歩きをしてきました。

 二か所、それぞれ約10kmほど歩いてきました。家を出てからの帰宅までの合計歩数は、36318歩でした。万歩計による歩行距離は21.7kmでした。たぶん実質は20kmほどでしょう。

 高槻市の「芥川一里塚」跡をスタートした時間は、午前8時20分。西国街道の(ネット情報による)地図を頼りに島本町を目指して歩き始めた。高槻病院や関大付近の街道は広く、江戸時代の雰囲気の建物はまったくなかった。広くて車の多い道が、だんだんと細くなり、やや緩やかに曲がるような道になった。JR京都線(東海道本線)の近くを西国街道は並走するように続いており、列車の通る音が聞こえるぐらいの近さでした。西国街道から列車が見えるときもあった。高槻市の「一乗寺」という寺の前に到着した時刻は、9時25分でした。地図から推定して、あと少し歩けば、島本町に達しそうでした。

 西国街道がJRの線路の下をくぐった地点は、高槻市と島本町の境らしきところでした。「水無瀬」の名が入ったマンションを目にし、「島本町に到着したのだ!」と認識した。時計を見ると、9時50分。

 しばらく休憩を取り、西国街道歩きを再スタート。とりあえず、西国街道筋(島本町内では府道67号線)を歩いて、JR島本駅を目指しました。左手にJR島本駅が見えました。その近くに「桜井駅跡(現在は公園)」があり、その公園の横の道が西国街道でした。一方通行になっていて、一車線の狭い道。直線的な道ではなく、曲がっているところも。「西国街道らしい道だなあ・・・」と歴史を感じながらの歩き旅。

 少し歩いた地点で、街道筋にいた人に「広瀬という所へ行きたいのですが・・・」と道を尋ねてみました。(本日の西国街道歩きの目標地点は、「島本町広瀬」でした。)

 「広瀬は、この先の高架下の道から向こうですよ。」と、指さして教えてくださった。

(さあ、広瀬に着いたぞ!)うれしかった。歩いてきた道筋に間違いがなかったと、ほっとできた。

 広瀬5丁目の表示が目に入った。目標地点は広瀬2丁目。もうすぐかな?

 2丁目までは、意外に、それなりに時間がかかった。目的地に到着した時刻は、10時30分だった。水無瀬神宮に寄り道をしたので、到着が少し遅くなってしまった。水無瀬神宮は有名な神宮なのに、初めて訪れたのでした。

 目的地、A君の家の外観をしっかりと見て、 (そうだったんですね、A君の家はこんなに水無瀬神宮に近いところだったのですね!)と、認識。(長年、この家でお住まいになっていたのですね・・・)などと、いろいろ想像して、この地を後にした。島本町広瀬を初めて訪れて、A君のことを再認識できた日になりました。感謝。

 午前中で、本日の「西国街道歩き」を終え、JR島本駅まで戻った。

 青春18切符利用で、次の目的地=敦賀市の「JR新疋田駅」へ行くことにした。JR京都駅で新快速に乗り換えて、「新疋田駅」を目指した。京都駅売店で、駅弁を購入し、列車内で昼食。湖西線経由で北陸本線「新疋田駅」に着いたのは、午後1時ごろになっていた。

 JR新疋田駅は無人駅だった。この時、列車から降りたのは私一人だけだった。この駅で降りる人は少ないのだろう。ひっそりとした駅。(無人駅が増えているなあ・・・)と、独り言。

 

(ここから続きです。)

 話は少し変わりますが・・・。

 私がなぜ「新疋田駅」周辺へ行きたかったのか? 2、3年前から「疋田」という所を実際に見てみたかったからです。「疋田」には荷物を運ぶための運河が造られたところだということに関心があったからです。古代に関心があり、いろいろと本を読んだり、友人と一緒に遺跡や古墳を訪れることが多くなり、弥生時代~古墳時代に興味を持つようになりました。その結果、古墳時代よりも以前(卑弥呼が活躍していたころ)の、日本海沿岸地方に興味を持つようになり、実際に「現地に行ってみる」ことが多くなりました。それは、(今はしていませんが)堺市の観光ボランティアガイドをしたことで、知り合った方々の影響が大きかったからです。特にTさんやBさんの影響が大きかったです。

 歴史で疑問に感じたことや「おやっ?」と思ったことを現地に行って確かめてみることが楽しみになりました。

 古代、山口県の日本海沿岸部地域が栄えていたと推定(弥生時代の土井ヶ浜遺跡などあり)される時代がありました。その後、出雲王国時代 → 丹後王国時代 → 敦賀王国時代へ。 日本海の対馬海流(造船技術の発展に伴って)の流れの方向とも関係し、王国が変わっていきました。敦賀王国時代になり、敦賀が日本の中心地になった頃、いろいろなもの(特に鉄材を大量に)を運ぶ方法として、「船」が選ばれたはずです。現在でも、船による運搬が大量に運ぶ方法として選ばれている。古代においても、同じことを考えたに違いない。川を利用して船で運ぶことが選ばれたことでしょう。日本海に面した敦賀王国から大和方面の国へ運ぶ方法として、琵琶湖を利用できれば時間的及び効率的にも一番良いに違いない。敦賀から峠を越えて、琵琶湖に出ることができれば・・・、と考えたに違いない。琵琶湖に流れ込んでいる川と日本海に流れ込んでいる川を短距離でつながる地点を見つけようとしたに違いない。

 それはどこか? 現在の地図で考えると、湖北の地=湖西線「近江塩津駅」と北陸本線「敦賀駅」を結ぶラインと考えられる。そのほぼ中間地点に「疋田」という地域がある。駅は、「新疋田駅」だった。

 その駅に「愛発」のことが大きく掲げられていた。「疋田」のことも紹介されていた。古代から江戸時代にかけては、「疋田」は船に関することで重要地点だったと考えられる。

 そういう下調べをしていたゆえに、「新疋田駅」に到着した時、ワクワクする気持ちだった。いよいよ、「疋田の地を、この目で見れるぞ!」との思いで、興味津々な思いが込み上げてきた。弥生時代、古墳時代の痕跡を求めての訪問であったから。

 参考として「疋田」についての、ネット情報をコピーしておく。以下、コピーです。

【 疋田の集落を流れる舟川は、江戸時代の終わりごろ敦賀湊に集まった荷をそれまでの馬借による輸送に代えて、川舟を利用して運ぶため峠越えの手前の疋田まで整備された運河の遺構です。舟川の水運は短命に終わりましたが、交通の要衝、物流の大動脈を担う敦賀の歴史を物語ってくれています。】

 以上、コピーです。江戸時代の記述が中心ですが、私は弥生時代や古墳時代における「疋田」の地の役割を想像しているのです。運河を江戸時代に造ったということは、事実であり、江戸時代以前(古代)から「川があり、峠があり、関所があった」と考えられるわけです。

 この事実から「疋田」という地を実際に見てみたかったのです。江戸時代の運河は、(現在)さらに整備され、観光地化されていましたが、川の流れ・水量ともに(この水量はすごいなあ!)と感じました。峠を越えて琵琶湖への運ぶルートは(今のところ)発見、発掘されていませんが・・・、「古代において、きっとあったに違いない」と私は想像して「歴史を楽しんで」います。いつの日にか、日本海→琵琶湖ルートの根拠が見つかる日が来ることでしょう。

 「歴史の大発見」があるかもしれませんから。日本海沿岸部には弥生時代・古墳時代の「大発見」が結構あるからです。妻木晩田遺跡(鳥取県)や青谷上寺地遺跡(鳥取県)など、大発見は「日本海側地域」での発見でしたから。福井県での大発見も期待できそうです。

 以上、長くなりましたが、今回のブログはここまでです。 「疋田」につては、写真で補足説明しておきます。

 

 

高槻市・「芥川一里塚跡」から(この日は)西国街道歩きをスタート

街道筋には江戸時代を感じさせる家もありました。

水無瀬神宮 ガラスの風鈴がたくさん風に吹かれていました。

水無瀬神宮内の名水を求めて並んでいました。土日なら、もっと多くの人が並んでいることでしょう。(今は亡きA君も並んだのだろうか・・・それとも「水」にこだわらなかったのかな、さて?)

北陸本線・JR新疋田駅 

古代、日本三関の一つ、「愛発(あらち)関」があった地も、現代では「関所」の位置がわからなくなっているとのこと。 推定はされているだろうが…・・・。

日本海の重要地「敦賀」と琵琶湖とを結ぶ最短ルートは、古代には重要であったに違いない。そこに、関所があったにちがいない。

*参考 古代の三関=不破関(東山道・岐阜県)・鈴鹿関(東海道・三重県)・愛発関(北陸道・福井県)

疋田舟川(運河) 江戸時代に造られた運河の幅はこの倍以上あったようです。現在、水量がかなりあることに驚きました。川底は丸太を沈め、舟を移動しやすいように工夫していたとの記録が残されている。上流へ舟をひっぱって引き上げるときは、丸太の役割が効果的だったと考えられる。舟はどの時代も(エンジンが発明されるまでは)上流へ向かう時は、ロープなどで牛や馬、人間に引っ張って移動させたようである。川の横に馬や牛が歩ける道を作ったであろう。淀川にしても、京都から大阪へ下るときは簡単だったが、大阪から京都へ向かう時は船をロープなどで引っ張らなくてはならない。船の運航で川の上流への移動は大変だったことだろう。エンジンが発明された以後は、無茶苦茶楽になった。

 さて、日本海地域から瀬戸内海地域への川による運搬にも、それぞれの「川の歴史」があるように思われる。

疋田は「宿場」としても繫栄したようで、建物群が残っている。町は整備され、静かだが、歴史を感じさせる雰囲気が残っていた。

この「疋田」の地から、JR敦賀駅まで、国道沿いの道を約10kmほど歩いた。国道8号線はトラックなどがビュンビュン飛ばしていくので、国道の端を気を付けながら歩いた。流石に、疲れましたが、午後4時ごろ、敦賀駅に到着できました。

 敦賀駅から新快速に乗ることができ、予定よりも早く帰宅できました。午後7時半ごろの帰宅でした。本日の2か所歩き、久しぶりだったので、疲れました。

 

 青春18切符が残っているので、9月10日(夏の青春18切符使用最終日)までに「山陽道歩き」を実施する予定です。実施後、またブログで紹介しますので、よろしくお願いいたします。

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