2014/12/31
「この一年を振り返って」 感謝
大晦日。紅白歌合戦を見なくなって、もう何年になるだろうか・・・。
歌番組に関心がなくなってしまったので、大晦日の楽しみは特にない。
それとなく、この一年の自分を振り返ってみた。
例年と違ったこと。
それは、なんといっても、ボランティアの堺観光ガイド活動がこの一年続いた点。今までの自分がやってきたこととは大きく違った取り組みだった。
1月から3月までは、ガイドをするための研修期間だった。研修期間が終わって、4月から一週間に1回(約4時間)程度の活動をしてきた。4月から12月まで、コンスタントに続けてがんばれた。
初めは冷や汗をかきながらだった。今でも、冷や汗が出る時がある。でも、少しは慣れてきたので、冷や汗をかくことが少なくなった。人間、慣れてきたら、「できなかったことができるようになるものだ」と実感できた。
一期一会のおもてなしガイド。私のガイド話をうなづきながら聞いてくださって、「話が聞けてよかった」と言っていただける時があった。「ボランティアって、いいものだ」と少し満足。
来年も続けてがんばろう!
今年印象に残った旅行先。
一番は、種子島門倉岬。念願がかなった。
鹿児島県の大隅半島佐多岬や薩摩半島の開聞岳・指宿などへは何度か行ったことがあったのだが、種子島へは行く機会がなかった。
種子島の鉄砲館の展示鉄砲=火縄銃など100挺を見た時は心が躍った(うわぁ! これはすごい、すごい!)。
門倉岬から見た浜。その浜は鉄砲伝来船が漂着したところであった。難破船漂着から約470年経過している。その浜を目に焼き付けることができた。
もう心残りはない。
「見てみたいところは終わったなあ・・・」と満足できた。
二番目は天草・島原。海の天主堂「崎津教会」。五島列島の教会群同様に「私の心の教会」となった。
島原半島の先端部にある、原城跡に行けたことも印象深い。
そこは、幕府に反抗した天草四郎たち3万7000人が亡くなった地であった。裏切り者の1名を除いて、(百姓・女・子ども誰一人残らず)全員が惨殺された地であった。日本の歴史上、「最大規模の宗教戦争」だった。幕府に反抗した人々の痛ましさ、嘆き、叫び、祈りが(今では建造物はなにもなく、大きな十字架だけが立っている)原城跡の風に乗って流れていた。私には「祈りの風」が十字架から吹いているように感じられた。
角館の町並みや襟裳岬など、行ってみたいところはまだ何箇所か残っている。が、たとえ行けなくても、心残りではない。
今年で、「死ぬまでに必ず行ってみたい旅先」への旅は完了した。
健康年齢がいつまで続くのか・・・。それは分からないが、「覚悟」はしているつもり。
願わくは、脳梗塞の再々発がなく、自由に歩ける生活が長く続くように、と。(そっと心の中でささやいている)
今年から挑戦していること。
「東海道五十三次」を京都三条大橋からスタートして、歩き旅をし始めた。3月から出発し、日帰りで延べ6回の歩き旅をした。毎月歩いているのではない。3月・4月・5月それぞれ一日だけだった。12月は3回(3日)の日帰り歩き旅をした。
12月25日(6回目)が今年の最終日であった。三重県の関宿(せきじゅく)まで到達している。
来年の12月には静岡県ぐらいに到達し、再来年は「江戸・日本橋」最終地に、と計画しています。
行き帰りの交通費を考えて、「青春18切符利用の歩き旅」になってきた。年金生活ゆえの工面。堺から日帰り(約20キロの歩き旅をして帰る)が可能なのは、名古屋周辺までかな? そこを過ぎると宿泊を伴うだろう。だから、小遣いから、歩き旅費用をためておこうと思っている。(本代を節約するしか仕方がないかな?)
さて、明日から新年だ。心機一転、新しい気分で、ブログもがんばろうと思う。
ブログを訪問してくださっている皆さん、今年一年ありがとうございました。皆さんのおかげで、ブログを継続できております。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。感謝
歌番組に関心がなくなってしまったので、大晦日の楽しみは特にない。
それとなく、この一年の自分を振り返ってみた。
例年と違ったこと。
それは、なんといっても、ボランティアの堺観光ガイド活動がこの一年続いた点。今までの自分がやってきたこととは大きく違った取り組みだった。
1月から3月までは、ガイドをするための研修期間だった。研修期間が終わって、4月から一週間に1回(約4時間)程度の活動をしてきた。4月から12月まで、コンスタントに続けてがんばれた。
初めは冷や汗をかきながらだった。今でも、冷や汗が出る時がある。でも、少しは慣れてきたので、冷や汗をかくことが少なくなった。人間、慣れてきたら、「できなかったことができるようになるものだ」と実感できた。
一期一会のおもてなしガイド。私のガイド話をうなづきながら聞いてくださって、「話が聞けてよかった」と言っていただける時があった。「ボランティアって、いいものだ」と少し満足。
来年も続けてがんばろう!
今年印象に残った旅行先。
一番は、種子島門倉岬。念願がかなった。
鹿児島県の大隅半島佐多岬や薩摩半島の開聞岳・指宿などへは何度か行ったことがあったのだが、種子島へは行く機会がなかった。
種子島の鉄砲館の展示鉄砲=火縄銃など100挺を見た時は心が躍った(うわぁ! これはすごい、すごい!)。
門倉岬から見た浜。その浜は鉄砲伝来船が漂着したところであった。難破船漂着から約470年経過している。その浜を目に焼き付けることができた。
もう心残りはない。
「見てみたいところは終わったなあ・・・」と満足できた。
二番目は天草・島原。海の天主堂「崎津教会」。五島列島の教会群同様に「私の心の教会」となった。
島原半島の先端部にある、原城跡に行けたことも印象深い。
そこは、幕府に反抗した天草四郎たち3万7000人が亡くなった地であった。裏切り者の1名を除いて、(百姓・女・子ども誰一人残らず)全員が惨殺された地であった。日本の歴史上、「最大規模の宗教戦争」だった。幕府に反抗した人々の痛ましさ、嘆き、叫び、祈りが(今では建造物はなにもなく、大きな十字架だけが立っている)原城跡の風に乗って流れていた。私には「祈りの風」が十字架から吹いているように感じられた。
角館の町並みや襟裳岬など、行ってみたいところはまだ何箇所か残っている。が、たとえ行けなくても、心残りではない。
今年で、「死ぬまでに必ず行ってみたい旅先」への旅は完了した。
健康年齢がいつまで続くのか・・・。それは分からないが、「覚悟」はしているつもり。
願わくは、脳梗塞の再々発がなく、自由に歩ける生活が長く続くように、と。(そっと心の中でささやいている)
今年から挑戦していること。
「東海道五十三次」を京都三条大橋からスタートして、歩き旅をし始めた。3月から出発し、日帰りで延べ6回の歩き旅をした。毎月歩いているのではない。3月・4月・5月それぞれ一日だけだった。12月は3回(3日)の日帰り歩き旅をした。
12月25日(6回目)が今年の最終日であった。三重県の関宿(せきじゅく)まで到達している。
来年の12月には静岡県ぐらいに到達し、再来年は「江戸・日本橋」最終地に、と計画しています。
行き帰りの交通費を考えて、「青春18切符利用の歩き旅」になってきた。年金生活ゆえの工面。堺から日帰り(約20キロの歩き旅をして帰る)が可能なのは、名古屋周辺までかな? そこを過ぎると宿泊を伴うだろう。だから、小遣いから、歩き旅費用をためておこうと思っている。(本代を節約するしか仕方がないかな?)
さて、明日から新年だ。心機一転、新しい気分で、ブログもがんばろうと思う。
ブログを訪問してくださっている皆さん、今年一年ありがとうございました。皆さんのおかげで、ブログを継続できております。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。感謝
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タグ: 一年を振り返る
2014/8/15
「飄々と」 感謝
書道家・榊莫山氏の言葉(前半2行)に、鬼井江が後半2行付け足した。
花あるときは花に醉ひ
風あるときは風に醉ふ
飄々(ひょうひょう)と生き
飄々と死す
上記4行の感覚が、なんとなく「現在の心の近況」をぴったりと表現している。(そんな気がしている。)榊莫山氏の言葉(2行)を勝手に借用して申し訳ないが、許していただけることであろう。
一応「高齢者」としての日々が過ぎていく。
残された日々を楽しく深く生きていきたい。
花あるときは花に醉ひ
風あるときは風に醉ふ
飄々(ひょうひょう)と生き
飄々と死す
上記4行の感覚が、なんとなく「現在の心の近況」をぴったりと表現している。(そんな気がしている。)榊莫山氏の言葉(2行)を勝手に借用して申し訳ないが、許していただけることであろう。
一応「高齢者」としての日々が過ぎていく。
残された日々を楽しく深く生きていきたい。
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2014/2/2
「会うことの喜び(続き・その2」 感謝
今回の会食会において、感激したことの一つだが、このブログに書き残しておきたい。
彼らが中学3年生の時、私は「3年D(ダー)組」担任をしていた。「D組」を「だーぐみ」と発音する学校であった。
クラス担任として、「卒業に当たり、何か記念になるものをプレゼントしたいなあ」と、年度途中から思うようになっていった。彼らが私に親しみを感じてくれていることを実感できるようになっていった。彼らから好かれるに伴って、私自身も彼らをどんどん好きになっていった。相乗作用のようなものがあったらしい。(今になって振り返ると。)
「教師冥利、担任冥利に尽きる」感覚は、教師経験のある方なら、多くの方が実感なさったはずである。特に、「担任」は苦しいこともあるが、喜びは大きいものである。教師は、「担任」をしなければ、かなり「楽な仕事」である。しかし、その代わり、喜びは小さい。(その落差は極端である。私の経験から言えること。)
クラス全員が私のクラス運営を好意的に思っていたわけではないだろうが、多くの生徒たちが3年D組を盛り上げて、行事に取り組んでいたことは事実であった。
この学校には「学芸会」という行事がある。3学年全クラス参加の「クラス劇発表会」である。3年D組のクラス劇は『愛のともし火』という劇であった。クラス全員が参加する行事で、この学校最大の行事である。脚本作り・監督ほかキャスト・大道具・小道具・音響・照明など、すべてが生徒たち自身で、約3ヶ月(ホームルームの時間や放課後・早朝などを使って)劇を完成させていくのである。すごい行事である。一部の生徒だけが中心になって、「クラス劇」が発表されるパターンはよくあるのだが、この学校の「学芸会」はぜんぜん違った。担任の私は「ほとんど何もしない、できない、すべて生徒が中心」だった。すごい行事だった。
前置きが長くなったが、それはそれは「すばらしい劇」が完成したのだ。
クラスでの話し合いがもめて、やっと完成した脚本。脚本作りのため苦労していることは担任として十分理解していたが、何も口を挟まなかった。じっと見守っていただけ。
脚本が決まり、すべての活動が加速していった。キャストはセリフを覚え、練習スタート。監督や助監督の下、大道具(舞台背景作りが中心)・小道具・音響照明など、クラス全員協力しての活動であった。
大道具(高さ3メートルぐらいの巨大な絵を描き、舞台の背景とする)作りでは、「大阪刑務所正面」(昔はレンガ造りの建物であったが、現在は新築になり、その門はなくなっている。)を見事に描いていた。レンガ一枚一枚を微妙に違う色に変化させて描いていたので、感動してその絵を味わったものである。また、別の大道具づくりで、「部屋の壁」を描くにあたって、土壁の感じを出すために、絵の具と共に「校庭の土」を絵の上にボンド利用で、塗りこんでいたのだ。時間のかかる絵で、驚きましたよ。「そこまでしなくても・・・」と思いましたが、生徒たちが一所懸命やっているので、ブレーキをかけませんでした。
とにかく、あの劇『愛のともし火』は「私の宝物」になりました。本番での出来具合はもちろんすばらしかった。最高の劇でした。そして、「本番にいたる過程」の思い出も、私にとっては宝物なのです。
話は少し脱線していますが、元へ戻します。
そんな彼らへの思いが、「卒業記念に詩をプレゼントしたい」という方向へ行かせてくれたように思います。
彼らの名前を「各詩の行頭に折句のごとく詠み込んで創作したい」という思いが強くなっていきました。「卒業式(3月)までに41人の詩を完成させるぞ!」という思いで、こつこつと創作していきました。冬休みは、一人旅に出て、とある温泉にこもって書き溜めたような気がしています。なにぶん、それぞれの生徒への思い・イメージを詩にしていく「創作」でしたから、時間がかかりました。(ちょっとオーバーですが、)半年がかりの創作活動でした。
卒業式に間に合い、完成し、生徒たちにプレゼントすることができました。
下手な字ですが、「紙に筆で書いた詩」と、41人分を冊子にした『卒業記念詩集・愛のともし火』をわたすことができました。
「3年ダー組はすばらしいクラスだったなあ!」と、何年経過しても思い出せるのです。
あの世へ旅立つときも、「この思い出」は「忘れ物」にしないでしょう。
この話には、おまけがあります。
今回、会食会に誘ってくれたK.M君。
なんとまあ、彼は彼の名前が折り込まれた詩をずっと覚えてくれていて、食事のときに暗誦してくれたのです。すらすらと(もちろん)何も見ないで・・・。驚きました。感謝したくなりました。「それほどまでに、私の書いた詩を大切してくれている人がいるのだ・・・、ありがとう!」と感謝・感激しています。
その詩を書いた本人(私)は41の詩一つとして「暗誦」できません。(申し訳ない話で、ごめんなさい。)
だから、「すごいなあ! 詩人になれなかった半端者が創った詩なのに・・・、なんと有難いことだろう!」と、感激、感激。すこぶる感激できた日になりました。
『愛のともし火』(劇と詩)は、「あの世への旅の土産」にするつもりをしています。いつ旅立つかは、「神のみぞ知る」話ですが・・・。
会食を終え、帰宅後、6年ほど前(完全退職直前)に創作した詩を読み直しました。その詩を読み返したくなったのです。K.M君が暗誦してくれた詩(27年前の詩)を振り返りながら・・・。
彼はこの詩を目にしたことは(たぶん)ないことでしょう。彼がこのブログを訪問してくれるときに、この詩も読んでくれるはずです。何十年経過しても、私の心は「放浪」しています。私の「生きざま」を詩にした作品であり、「書くという行動」の一つのつもりです。
以下、その詩(2008年創作)を再掲しておきます。
詩への片思い・小説への片思い
鬼井江
私の書いた詩が
あなたの心にとどまるとき
詩の中にいる言霊(ことだま)が私の存在をあなたの心に宿らせる
そう、それは
私の言いたかったことがあなたに伝わるときがやってきたのだ
普通の言葉では伝わらなかったことが
詩が伝えてくれたのだ!
私の書いた小説が
あなたの心をゆさぶるとき
小説の中にいる言霊が私の存在とあなたの心を共振させる
そう、それは
私の人生でこみ上げてきた激情があなたに伝わるときがやってきたのだ
普通の言葉では伝わらなかったことが
小説が伝えてくれたのだ!
そんな詩や小説を書けることを夢に見て
今もどこかを放浪している
完
(「会うことの喜び」は、以上です。『卒業記念詩集・愛のともし火』も、このブログに後日掲載させていただこうと思っています。41人分の詩ですが、読んでいただけたら幸いです。教え子たちの名前がわかってしまうのですが、たぶん許していただけることでしょう。
彼らが中学3年生の時、私は「3年D(ダー)組」担任をしていた。「D組」を「だーぐみ」と発音する学校であった。
クラス担任として、「卒業に当たり、何か記念になるものをプレゼントしたいなあ」と、年度途中から思うようになっていった。彼らが私に親しみを感じてくれていることを実感できるようになっていった。彼らから好かれるに伴って、私自身も彼らをどんどん好きになっていった。相乗作用のようなものがあったらしい。(今になって振り返ると。)
「教師冥利、担任冥利に尽きる」感覚は、教師経験のある方なら、多くの方が実感なさったはずである。特に、「担任」は苦しいこともあるが、喜びは大きいものである。教師は、「担任」をしなければ、かなり「楽な仕事」である。しかし、その代わり、喜びは小さい。(その落差は極端である。私の経験から言えること。)
クラス全員が私のクラス運営を好意的に思っていたわけではないだろうが、多くの生徒たちが3年D組を盛り上げて、行事に取り組んでいたことは事実であった。
この学校には「学芸会」という行事がある。3学年全クラス参加の「クラス劇発表会」である。3年D組のクラス劇は『愛のともし火』という劇であった。クラス全員が参加する行事で、この学校最大の行事である。脚本作り・監督ほかキャスト・大道具・小道具・音響・照明など、すべてが生徒たち自身で、約3ヶ月(ホームルームの時間や放課後・早朝などを使って)劇を完成させていくのである。すごい行事である。一部の生徒だけが中心になって、「クラス劇」が発表されるパターンはよくあるのだが、この学校の「学芸会」はぜんぜん違った。担任の私は「ほとんど何もしない、できない、すべて生徒が中心」だった。すごい行事だった。
前置きが長くなったが、それはそれは「すばらしい劇」が完成したのだ。
クラスでの話し合いがもめて、やっと完成した脚本。脚本作りのため苦労していることは担任として十分理解していたが、何も口を挟まなかった。じっと見守っていただけ。
脚本が決まり、すべての活動が加速していった。キャストはセリフを覚え、練習スタート。監督や助監督の下、大道具(舞台背景作りが中心)・小道具・音響照明など、クラス全員協力しての活動であった。
大道具(高さ3メートルぐらいの巨大な絵を描き、舞台の背景とする)作りでは、「大阪刑務所正面」(昔はレンガ造りの建物であったが、現在は新築になり、その門はなくなっている。)を見事に描いていた。レンガ一枚一枚を微妙に違う色に変化させて描いていたので、感動してその絵を味わったものである。また、別の大道具づくりで、「部屋の壁」を描くにあたって、土壁の感じを出すために、絵の具と共に「校庭の土」を絵の上にボンド利用で、塗りこんでいたのだ。時間のかかる絵で、驚きましたよ。「そこまでしなくても・・・」と思いましたが、生徒たちが一所懸命やっているので、ブレーキをかけませんでした。
とにかく、あの劇『愛のともし火』は「私の宝物」になりました。本番での出来具合はもちろんすばらしかった。最高の劇でした。そして、「本番にいたる過程」の思い出も、私にとっては宝物なのです。
話は少し脱線していますが、元へ戻します。
そんな彼らへの思いが、「卒業記念に詩をプレゼントしたい」という方向へ行かせてくれたように思います。
彼らの名前を「各詩の行頭に折句のごとく詠み込んで創作したい」という思いが強くなっていきました。「卒業式(3月)までに41人の詩を完成させるぞ!」という思いで、こつこつと創作していきました。冬休みは、一人旅に出て、とある温泉にこもって書き溜めたような気がしています。なにぶん、それぞれの生徒への思い・イメージを詩にしていく「創作」でしたから、時間がかかりました。(ちょっとオーバーですが、)半年がかりの創作活動でした。
卒業式に間に合い、完成し、生徒たちにプレゼントすることができました。
下手な字ですが、「紙に筆で書いた詩」と、41人分を冊子にした『卒業記念詩集・愛のともし火』をわたすことができました。
「3年ダー組はすばらしいクラスだったなあ!」と、何年経過しても思い出せるのです。
あの世へ旅立つときも、「この思い出」は「忘れ物」にしないでしょう。
この話には、おまけがあります。
今回、会食会に誘ってくれたK.M君。
なんとまあ、彼は彼の名前が折り込まれた詩をずっと覚えてくれていて、食事のときに暗誦してくれたのです。すらすらと(もちろん)何も見ないで・・・。驚きました。感謝したくなりました。「それほどまでに、私の書いた詩を大切してくれている人がいるのだ・・・、ありがとう!」と感謝・感激しています。
その詩を書いた本人(私)は41の詩一つとして「暗誦」できません。(申し訳ない話で、ごめんなさい。)
だから、「すごいなあ! 詩人になれなかった半端者が創った詩なのに・・・、なんと有難いことだろう!」と、感激、感激。すこぶる感激できた日になりました。
『愛のともし火』(劇と詩)は、「あの世への旅の土産」にするつもりをしています。いつ旅立つかは、「神のみぞ知る」話ですが・・・。
会食を終え、帰宅後、6年ほど前(完全退職直前)に創作した詩を読み直しました。その詩を読み返したくなったのです。K.M君が暗誦してくれた詩(27年前の詩)を振り返りながら・・・。
彼はこの詩を目にしたことは(たぶん)ないことでしょう。彼がこのブログを訪問してくれるときに、この詩も読んでくれるはずです。何十年経過しても、私の心は「放浪」しています。私の「生きざま」を詩にした作品であり、「書くという行動」の一つのつもりです。
以下、その詩(2008年創作)を再掲しておきます。
詩への片思い・小説への片思い
鬼井江
私の書いた詩が
あなたの心にとどまるとき
詩の中にいる言霊(ことだま)が私の存在をあなたの心に宿らせる
そう、それは
私の言いたかったことがあなたに伝わるときがやってきたのだ
普通の言葉では伝わらなかったことが
詩が伝えてくれたのだ!
私の書いた小説が
あなたの心をゆさぶるとき
小説の中にいる言霊が私の存在とあなたの心を共振させる
そう、それは
私の人生でこみ上げてきた激情があなたに伝わるときがやってきたのだ
普通の言葉では伝わらなかったことが
小説が伝えてくれたのだ!
そんな詩や小説を書けることを夢に見て
今もどこかを放浪している
完
(「会うことの喜び」は、以上です。『卒業記念詩集・愛のともし火』も、このブログに後日掲載させていただこうと思っています。41人分の詩ですが、読んでいただけたら幸いです。教え子たちの名前がわかってしまうのですが、たぶん許していただけることでしょう。
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2014/2/1
「会うことの喜び(続き・その1)」 感謝
私が柔道部顧問(技術面は何も教えられない顧問)だったこともあって、会食会出席5人のうち3人が元柔道部部員であった。
そういう事情もあって、「柔道部」のことも話題になった。
体が(柔道をするには)たいへん小柄だったM君だが、現在の彼は身長がずいぶん伸びていて、顔は(髪型の所為もあってか)細長くなったように感じた。一瞬、中学時代のころのM君と、一致しにくかった。(27年ぶりだった所為かも・・・)
記憶力の弱い私。今まで、同窓会などに教師として参加したときに、「一瞬にして、過去と現在とが合致する教え子」と、「時間が少しかかって合致してくる教え子」とがいたものである。だから、教え子に悲しい思いをさせる場合があった。そういうこともあって、(元教師として参加する)同窓会は苦手になってしまった。
自分の記憶力が情けなくなるし、同窓会に参加した教え子をがっかりさせていることに気がつくから。
36年間の教師生活だったが、いろいろな教え子がいる。
年賀状や手紙などを「高齢者」になった現在でも、書いてくれる教え子がいる。(2、3人だろうが)折に触れ、このブログを訪問してくれたり、コメントを書いてくれたりしてくれる。今回のように、会食会のお誘いをしていただくこともある。感謝の限りである。
完全退職して約6年、「晴耕雨読の生活」ぐらいしかしていない私に、いまだに(それぞれの時代の教え子たちからの)同窓会などのお誘いがある。(でも、「同窓会」は苦手になってしまったので、断ることが多く、ごめんなさい。)
高石市立K小学校勤務時代・泉南郡M中学校勤務時代・堺市立M中学校勤務時代・大阪教育大学附属T中学校勤務時代・私立S高校勤務時代・同S中学校勤務時代。私が勤務した学校数は多い。教頭や校長という「管理職」の経験はしなかった。いや、私には「できない仕事」だった。「人間、適材適所があるものだ」と(今に至っても)思っている。
話が前へ進まないので、元に戻したい。
小柄だったM君について。
彼が「みんなの面倒見がよく、多くを語り、こまめに動く人物」だということを、今回初めて知った。私は、「彼の人物像を勝手なイメージを作り上げ、決め付けていたのだなあ!」と気がついた。彼について、大きな勘違いをしていたらしい。
私は(27年前ごろ)彼のことを、「おとなしく真面目で、こつこつ勉強し、忘れ物はまったくなく、授業中目立たないが成績は抜群の生徒。テストは高得点。一方、柔道において、投げられやられてやられて・・・、その結果、疲れ果ててしまう。しかし、それでも手を抜かずに相手に向かっていく、根性ある選手。」と思い、「痛々しいほどにがんばっているなあ・・・」という印象を持った生徒であった。
その彼が、社会人になり、3年ほど前に「ものすごい数の同窓会」を企画・実行した中心人物だということを知ることができた。その同窓会の写真も見せていただいた。
中学時代の彼からは、(彼には失敬な話だが)想像できないことであった。
「人間、思い込みで決め付けてはいけない!」と、大いに反省した。
M君、そのことに気づかせてくれて、ありがとう。
彼の行為(=大人数の同窓会を計画し、呼びかけて、実際に実現した行為。) その行為は何にも勝るものですよ。
人間、「行為」こそが一番信用できるものであり、大切なものだと確信している私です。
「『百聞は一見にしかず』という言葉は有名だが、この言葉には続きがある、ということを話した。漢文が専門ではないのだが、知ったかぶりで話した。
『百聞は一見に如かず、百見は一考に如かず、百考は一行に如かず。』と書かれている。
百回聞いても一回見ることに及ばない、百見ても一つの考えには及ばない、百考えても一つの行動には及ばない。つまり、「行為・行動」こそが一番なのだ。
と、まあ、(この言葉を)紹介したのだった。5人とも、私の話に耳を傾けてくれたので、うれしかった。
「聞」・「見」・「考」・「行」、何事においてもそれぞれの段階があるのだが、その人の「行為・行動」こそが、その人の真実(正体・存在そのもの・歴史)だと言えるであろう。
(この続きは後日に)
そういう事情もあって、「柔道部」のことも話題になった。
体が(柔道をするには)たいへん小柄だったM君だが、現在の彼は身長がずいぶん伸びていて、顔は(髪型の所為もあってか)細長くなったように感じた。一瞬、中学時代のころのM君と、一致しにくかった。(27年ぶりだった所為かも・・・)
記憶力の弱い私。今まで、同窓会などに教師として参加したときに、「一瞬にして、過去と現在とが合致する教え子」と、「時間が少しかかって合致してくる教え子」とがいたものである。だから、教え子に悲しい思いをさせる場合があった。そういうこともあって、(元教師として参加する)同窓会は苦手になってしまった。
自分の記憶力が情けなくなるし、同窓会に参加した教え子をがっかりさせていることに気がつくから。
36年間の教師生活だったが、いろいろな教え子がいる。
年賀状や手紙などを「高齢者」になった現在でも、書いてくれる教え子がいる。(2、3人だろうが)折に触れ、このブログを訪問してくれたり、コメントを書いてくれたりしてくれる。今回のように、会食会のお誘いをしていただくこともある。感謝の限りである。
完全退職して約6年、「晴耕雨読の生活」ぐらいしかしていない私に、いまだに(それぞれの時代の教え子たちからの)同窓会などのお誘いがある。(でも、「同窓会」は苦手になってしまったので、断ることが多く、ごめんなさい。)
高石市立K小学校勤務時代・泉南郡M中学校勤務時代・堺市立M中学校勤務時代・大阪教育大学附属T中学校勤務時代・私立S高校勤務時代・同S中学校勤務時代。私が勤務した学校数は多い。教頭や校長という「管理職」の経験はしなかった。いや、私には「できない仕事」だった。「人間、適材適所があるものだ」と(今に至っても)思っている。
話が前へ進まないので、元に戻したい。
小柄だったM君について。
彼が「みんなの面倒見がよく、多くを語り、こまめに動く人物」だということを、今回初めて知った。私は、「彼の人物像を勝手なイメージを作り上げ、決め付けていたのだなあ!」と気がついた。彼について、大きな勘違いをしていたらしい。
私は(27年前ごろ)彼のことを、「おとなしく真面目で、こつこつ勉強し、忘れ物はまったくなく、授業中目立たないが成績は抜群の生徒。テストは高得点。一方、柔道において、投げられやられてやられて・・・、その結果、疲れ果ててしまう。しかし、それでも手を抜かずに相手に向かっていく、根性ある選手。」と思い、「痛々しいほどにがんばっているなあ・・・」という印象を持った生徒であった。
その彼が、社会人になり、3年ほど前に「ものすごい数の同窓会」を企画・実行した中心人物だということを知ることができた。その同窓会の写真も見せていただいた。
中学時代の彼からは、(彼には失敬な話だが)想像できないことであった。
「人間、思い込みで決め付けてはいけない!」と、大いに反省した。
M君、そのことに気づかせてくれて、ありがとう。
彼の行為(=大人数の同窓会を計画し、呼びかけて、実際に実現した行為。) その行為は何にも勝るものですよ。
人間、「行為」こそが一番信用できるものであり、大切なものだと確信している私です。
「『百聞は一見にしかず』という言葉は有名だが、この言葉には続きがある、ということを話した。漢文が専門ではないのだが、知ったかぶりで話した。
『百聞は一見に如かず、百見は一考に如かず、百考は一行に如かず。』と書かれている。
百回聞いても一回見ることに及ばない、百見ても一つの考えには及ばない、百考えても一つの行動には及ばない。つまり、「行為・行動」こそが一番なのだ。
と、まあ、(この言葉を)紹介したのだった。5人とも、私の話に耳を傾けてくれたので、うれしかった。
「聞」・「見」・「考」・「行」、何事においてもそれぞれの段階があるのだが、その人の「行為・行動」こそが、その人の真実(正体・存在そのもの・歴史)だと言えるであろう。
(この続きは後日に)
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タグ: 感謝
2014/1/31
「会うことの喜び」 感謝
昨夜(1月30日夜)、教え子(5人)と会食を共にすることができ、感謝しています。
40歳を過ぎている彼ら(女性が一人参加してくれたので、びっくり。)が、たいへん忙しい日々を送っているであろうに、「会食会の設定と、お誘いの連絡」をしてくれたのだった。
「同窓会が苦手」になっている私だが、参加人数を聞き、喜んで出席させていただいた。
出席する人の名前をきちんと聞いていなかったので、その会食場所へ行ってみて、びっくり!「驚き 桃の木 山椒の木!」と、心の中は興奮状態。約27年前にタイムスリップしたような感覚であった。
5人のうち、2人とは5年半ほど前(私が完全退職してしばらくした頃)に会って話ができていたので、「5年半ぶりだなあ! その後元気にやってる?」という状況の再会であった。いつまでも、「私のことを忘れずにいてくれるんだな」と、うれしかった。
その喜びに輪をかけての、サプライズあり。
彼らを(中学校)卒業させ、約27年が経過している現在だが、なんとまあ、「卒業以来初めて会った教え子」が3人いたのです。そのうちの一人が女性で、それも、姫路市にお住まいの方だったので、(遠いところから、こんな時間の会に参加していただいて!) 感無量。
顔の感じが中学時代とほとんど変わらずでした。(世の中、30年近く会わないとすっかり変わってしまわれる方も結構おられます。化粧が濃くなっていかれる方がおられるのですが、彼女は、まったく変わっていませんでした。)
ちなみに、彼女は「明日は仕事がある」とのことで、最終の新幹線利用で帰宅された。(ご主人に申し訳ない気がしましたよ。ありがとうございました。)
(集合時間がやや遅い目で)男ばかりの会食会と思っていたので、なおさらびっくりしたわけです。
(この話の続きは後日に)
40歳を過ぎている彼ら(女性が一人参加してくれたので、びっくり。)が、たいへん忙しい日々を送っているであろうに、「会食会の設定と、お誘いの連絡」をしてくれたのだった。
「同窓会が苦手」になっている私だが、参加人数を聞き、喜んで出席させていただいた。
出席する人の名前をきちんと聞いていなかったので、その会食場所へ行ってみて、びっくり!「驚き 桃の木 山椒の木!」と、心の中は興奮状態。約27年前にタイムスリップしたような感覚であった。
5人のうち、2人とは5年半ほど前(私が完全退職してしばらくした頃)に会って話ができていたので、「5年半ぶりだなあ! その後元気にやってる?」という状況の再会であった。いつまでも、「私のことを忘れずにいてくれるんだな」と、うれしかった。
その喜びに輪をかけての、サプライズあり。
彼らを(中学校)卒業させ、約27年が経過している現在だが、なんとまあ、「卒業以来初めて会った教え子」が3人いたのです。そのうちの一人が女性で、それも、姫路市にお住まいの方だったので、(遠いところから、こんな時間の会に参加していただいて!) 感無量。
顔の感じが中学時代とほとんど変わらずでした。(世の中、30年近く会わないとすっかり変わってしまわれる方も結構おられます。化粧が濃くなっていかれる方がおられるのですが、彼女は、まったく変わっていませんでした。)
ちなみに、彼女は「明日は仕事がある」とのことで、最終の新幹線利用で帰宅された。(ご主人に申し訳ない気がしましたよ。ありがとうございました。)
(集合時間がやや遅い目で)男ばかりの会食会と思っていたので、なおさらびっくりしたわけです。
(この話の続きは後日に)
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2014/1/11
「総アクセス数15000」 感謝
このブログへの総アクセス数が、本日(1月11日)15000を超えました。感謝申し上げます。
拙い内容のブログですが、読んでいただいている方々に親近感を感じています。
ブログの書き手にとって、「読み手の存在」は、たいへん励みになっています。
ブログは公開日記ですので、自分自身を振り返ることにも、たいへん役に立っています。
65歳以上になると、認知症が起こりやすくなるとのこと。
すでに脳梗塞を二度発症させている私ですので、(認知症予防のためにも)がんばって継続させようと思っています。
今後とも、拙い内容ですが、よろしくお願いいたします。
拙い内容のブログですが、読んでいただいている方々に親近感を感じています。
ブログの書き手にとって、「読み手の存在」は、たいへん励みになっています。
ブログは公開日記ですので、自分自身を振り返ることにも、たいへん役に立っています。
65歳以上になると、認知症が起こりやすくなるとのこと。
すでに脳梗塞を二度発症させている私ですので、(認知症予防のためにも)がんばって継続させようと思っています。
今後とも、拙い内容ですが、よろしくお願いいたします。