2019/8/14
「東京国立博物館・平成館1階」 古代への好奇心
東京国立博物館・平成館の一階に展示されている物の一部を紹介します。
国宝や重要文化財が多い展示物群だったので、圧倒された。短時間の見学だったので、あせった。
「あれはどこだろう?」「ええっと、あの古墳から発掘されたものは?」
残りの見学時間、できるだけ多くの展示物をみたかった。
「時間との闘い」のようで、あせった、あせった。
「12時半には、上野駅へ向かわねば・・・。見学残り時間は短かった・・・」
Tさんがメールで送ってくれていた資料のおかげで、見るべきものを絞って、短時間で効率よく見学することができた。Tさん、ありがとうございました。
岡山県倉敷市・楯築(たてつき)遺跡にあった「弧帯文石」実物大レプリカ
*楯築遺跡は弥生時代の最大級古墳で、円墳の形に前方部・後方部ともに方形部がついた形で、言うなれば「前方後方付き円墳」。この形から、変化したものが「前方後円墳」とも考えられるようだ。古墳時代になると、複数の巨大な「前方後円墳」が造られている。全国に約4800基の前方後円墳がある。古墳は全国に約160000基あるのだが、ほとんどは円墳である。
円墳、方墳、前方後方墳、(前方後方付き円墳)、前方後円墳など。古墳には、いろいろな形があるが、楯築遺跡は珍しい形であり、吉備地方が古代において栄えていた証拠の遺跡として重要視されている。
私はこの遺跡を見に3回訪れているが、吉備地方では何とも言えない歴史を感じることが多い。魅力的な地ですね。
「弧帯文石」本物は楯築遺跡(頂上部近くの)収蔵倉庫に収められているが、中に入れず、ガラス窓から少し眺めることができるだけであった。今回、レプリカをじっくり眺めることができたので、石の文様をじっくり見ることができた。「顔?」の部分が分かりやすく、感動しましたね。実物の石を3度も見ているのですが、さっぱり見えませんでしたから。弥生時代の不思議な石ですね。あの「顔」はなぜ描かれているのでしょうか?
石全体
奈良県橿原市 新沢千塚古墳群よりの出土品の一部
去年6月に、新沢千塚126号古墳などを(Tさん・Nさん・私の3人で)見学した古墳だったので、しげしげと出土品を見学。
見た目は、小さな古墳だったけれど…。すごいものが見つかったのだなあ!
熊本県・江田船山古墳 出土品(国宝だらけだった)
銀装素環頭大刀(国宝) 大刀の一部をアップして撮影 さて、何が刻まれているかな?
そのほかの古墳からの出土品
同じく
国宝や重要文化財が多い展示物群だったので、圧倒された。短時間の見学だったので、あせった。
「あれはどこだろう?」「ええっと、あの古墳から発掘されたものは?」
残りの見学時間、できるだけ多くの展示物をみたかった。
「時間との闘い」のようで、あせった、あせった。
「12時半には、上野駅へ向かわねば・・・。見学残り時間は短かった・・・」
Tさんがメールで送ってくれていた資料のおかげで、見るべきものを絞って、短時間で効率よく見学することができた。Tさん、ありがとうございました。
岡山県倉敷市・楯築(たてつき)遺跡にあった「弧帯文石」実物大レプリカ
*楯築遺跡は弥生時代の最大級古墳で、円墳の形に前方部・後方部ともに方形部がついた形で、言うなれば「前方後方付き円墳」。この形から、変化したものが「前方後円墳」とも考えられるようだ。古墳時代になると、複数の巨大な「前方後円墳」が造られている。全国に約4800基の前方後円墳がある。古墳は全国に約160000基あるのだが、ほとんどは円墳である。
円墳、方墳、前方後方墳、(前方後方付き円墳)、前方後円墳など。古墳には、いろいろな形があるが、楯築遺跡は珍しい形であり、吉備地方が古代において栄えていた証拠の遺跡として重要視されている。
私はこの遺跡を見に3回訪れているが、吉備地方では何とも言えない歴史を感じることが多い。魅力的な地ですね。
「弧帯文石」本物は楯築遺跡(頂上部近くの)収蔵倉庫に収められているが、中に入れず、ガラス窓から少し眺めることができるだけであった。今回、レプリカをじっくり眺めることができたので、石の文様をじっくり見ることができた。「顔?」の部分が分かりやすく、感動しましたね。実物の石を3度も見ているのですが、さっぱり見えませんでしたから。弥生時代の不思議な石ですね。あの「顔」はなぜ描かれているのでしょうか?
石全体
奈良県橿原市 新沢千塚古墳群よりの出土品の一部
去年6月に、新沢千塚126号古墳などを(Tさん・Nさん・私の3人で)見学した古墳だったので、しげしげと出土品を見学。
見た目は、小さな古墳だったけれど…。すごいものが見つかったのだなあ!
熊本県・江田船山古墳 出土品(国宝だらけだった)
銀装素環頭大刀(国宝) 大刀の一部をアップして撮影 さて、何が刻まれているかな?
そのほかの古墳からの出土品
同じく
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タグ: 遺跡からの出土品
2019/8/9
「『三国志』展・東京国立博物館にて」 古代への好奇心
7月27日の午前中、埼玉県方面への旅行の帰りに、東京国立博物館へ寄ってきた。特別展『三国志』を展覧するため。
ゆっくり見れば、一日かかる展示内容だろうと予想できたが、(旅行最終日であり)正午ごろの東京発列車に乗らなければ(青春18切符利用ゆえに)堺にたどり着かない。短時間の鑑賞になるが、見ることにした。
なにしろ、邪馬台国の卑弥呼が魏の国へ使いを送り、交流した時代の中国(三国時代)の展示物を見る機会はめったにないと思ったからだった。
2世紀・3世紀ごろの中国における遺跡発掘において、見つかったものの実物が展示されているとパンフレットに書かれていた。ワクワクする気持ちで、チケットを上野駅構内で購入した。
162点の展示物。「1級文物」とされるものが42点。とにかくすごい作品ばかりだった。東京国立博物館の平成館2階で、三国志展は開催されたのだが、1階も見たかったので、大急ぎで見学したのだった。
1階の展示品(=日本の歴史に関する出土品など)については、後日のブログで紹介します。
関羽像 青銅製 明時代・15~16世紀
博物館2階 『三国志』展示コーナーに入ったところで、デーンと目立つ場所に展示されていた。大きくて、圧倒されました。
貨客船 土器 後漢~三国時代(呉)・3世紀
*展覧会パンフレットより
「漢から三国時代にかけて、呉の沿岸部の墓では陶船が集中的に出土する。対外交易の盛んだった海洋国家・呉ならではの文物。」とのこと。
3世紀の出土品だから、しげしげと見つめていた私。「1800年ほど前の土器なのに崩れずに残っていたんだなあ!」と船の構造をじっくり観察。作りの細かさがすごい!
多層灯 後漢時代・2世紀
これも細かい。すごい作品が出土したものだ。日本の古墳時代よりも前の作品だから、驚きだ。
「天帝使者」印 後漢時代・2世紀
虎形棺座(とらがたかんざ) 石製 三国時代(呉)3世紀
「棺座」とは、木棺を支えていたもの。(木棺は腐ってなくなっている場合が、多いらしい。) 石は何千年も残る。日本の古墳も同様である。木棺はほとんど残っていない。真空状態になっていたら、腐らずに残っているのだが…。少ない。
曹操の巨大な墓は、室内は質素だったようだ。
彼の遺言で、『墓は質素に』とあったようだ。発掘したら、室内は遺言通り、質素だったとのことである。
ゆっくり見れば、一日かかる展示内容だろうと予想できたが、(旅行最終日であり)正午ごろの東京発列車に乗らなければ(青春18切符利用ゆえに)堺にたどり着かない。短時間の鑑賞になるが、見ることにした。
なにしろ、邪馬台国の卑弥呼が魏の国へ使いを送り、交流した時代の中国(三国時代)の展示物を見る機会はめったにないと思ったからだった。
2世紀・3世紀ごろの中国における遺跡発掘において、見つかったものの実物が展示されているとパンフレットに書かれていた。ワクワクする気持ちで、チケットを上野駅構内で購入した。
162点の展示物。「1級文物」とされるものが42点。とにかくすごい作品ばかりだった。東京国立博物館の平成館2階で、三国志展は開催されたのだが、1階も見たかったので、大急ぎで見学したのだった。
1階の展示品(=日本の歴史に関する出土品など)については、後日のブログで紹介します。
関羽像 青銅製 明時代・15~16世紀
博物館2階 『三国志』展示コーナーに入ったところで、デーンと目立つ場所に展示されていた。大きくて、圧倒されました。
貨客船 土器 後漢~三国時代(呉)・3世紀
*展覧会パンフレットより
「漢から三国時代にかけて、呉の沿岸部の墓では陶船が集中的に出土する。対外交易の盛んだった海洋国家・呉ならではの文物。」とのこと。
3世紀の出土品だから、しげしげと見つめていた私。「1800年ほど前の土器なのに崩れずに残っていたんだなあ!」と船の構造をじっくり観察。作りの細かさがすごい!
多層灯 後漢時代・2世紀
これも細かい。すごい作品が出土したものだ。日本の古墳時代よりも前の作品だから、驚きだ。
「天帝使者」印 後漢時代・2世紀
虎形棺座(とらがたかんざ) 石製 三国時代(呉)3世紀
「棺座」とは、木棺を支えていたもの。(木棺は腐ってなくなっている場合が、多いらしい。) 石は何千年も残る。日本の古墳も同様である。木棺はほとんど残っていない。真空状態になっていたら、腐らずに残っているのだが…。少ない。
曹操の巨大な墓は、室内は質素だったようだ。
彼の遺言で、『墓は質素に』とあったようだ。発掘したら、室内は遺言通り、質素だったとのことである。
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2019/4/18
「出雲方面の遺跡巡り」 古代への好奇心
昨日(4月17日)は鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡を見学して、弥生時代の状況を想像する機会になった。武器が刺さったままの弥生人の骨や脳みそなどが、発掘された遺跡だから、「すごい遺跡だ」と声が出そうになった。
今日は島根県出雲市周辺の遺跡巡りを一人でしてきた。電動のレンタサイクル利用だったけれど、坂道の多さと強風のため、疲れました。自転車返却がかなり遅れました。出雲大社横の島根県立古代出雲歴史博物館の見学が、2時間しか出来ませんでした。残念でした。(悲)
(4月19日早朝に帰宅しました。)
西谷古墳群 四隅突出型古墳で、四隅がヒトデのように突出していました。珍しい形です。
高低差4mぐらいあった。弥生時代の豪族(その時代の大王の一人)の墓のようだ。出雲が日本の中心地(出雲王国)時代のものであろう。大和朝廷が栄える以前の遺跡である。すごい遺跡が残っているものだ。
出雲市 荒神谷遺跡(国宝になった銅剣358本などが発掘された場所)
銅剣はすべて島根県立古代出雲歴史博物館にて展示。
加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)39個の銅鐸(すべて国宝)が発掘されたところ。ここにあるのはレプリカで、発掘された状態を再現していた。本物は、同じく古代出雲歴史博物館で展示。
本物の39個の銅鐸が展示されていた。(ガラスケースの中に)
出雲王国時代をリアルに感じさせてくれる歴史的証拠品に圧倒されました。
とにかく、出雲の歴史はすごい! ヤマトを超えるものがまだまだ眠っていそうだ。発見されるまで、100年以上かかるかもしれないが・・・。弥生時代の山陰地方はすごかったらしい。私はそう思っている。
出雲王国→丹後王国→敦賀王国 と、王国は移動したようだが・・・。古代において、一番新しいのが、ヤマト王国(古墳時代)。王国の歴史は動いていったに違いない。(と、勝手に考えている。こういう想像は楽しいですね。)
今日は島根県出雲市周辺の遺跡巡りを一人でしてきた。電動のレンタサイクル利用だったけれど、坂道の多さと強風のため、疲れました。自転車返却がかなり遅れました。出雲大社横の島根県立古代出雲歴史博物館の見学が、2時間しか出来ませんでした。残念でした。(悲)
(4月19日早朝に帰宅しました。)
西谷古墳群 四隅突出型古墳で、四隅がヒトデのように突出していました。珍しい形です。
高低差4mぐらいあった。弥生時代の豪族(その時代の大王の一人)の墓のようだ。出雲が日本の中心地(出雲王国)時代のものであろう。大和朝廷が栄える以前の遺跡である。すごい遺跡が残っているものだ。
出雲市 荒神谷遺跡(国宝になった銅剣358本などが発掘された場所)
銅剣はすべて島根県立古代出雲歴史博物館にて展示。
加茂岩倉遺跡(島根県雲南市)39個の銅鐸(すべて国宝)が発掘されたところ。ここにあるのはレプリカで、発掘された状態を再現していた。本物は、同じく古代出雲歴史博物館で展示。
本物の39個の銅鐸が展示されていた。(ガラスケースの中に)
出雲王国時代をリアルに感じさせてくれる歴史的証拠品に圧倒されました。
とにかく、出雲の歴史はすごい! ヤマトを超えるものがまだまだ眠っていそうだ。発見されるまで、100年以上かかるかもしれないが・・・。弥生時代の山陰地方はすごかったらしい。私はそう思っている。
出雲王国→丹後王国→敦賀王国 と、王国は移動したようだが・・・。古代において、一番新しいのが、ヤマト王国(古墳時代)。王国の歴史は動いていったに違いない。(と、勝手に考えている。こういう想像は楽しいですね。)
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タグ: 古墳
2019/4/13
「思い込みと歴史」 古代への好奇心
日本書記や古事記の記述内容によって、多くの日本人は「思い込まされていること」が多いようだ。
もうすぐ改元(次期天皇は126代天皇)されるが、初代天皇が「神武天皇」という思い込みにしても、いつの間にか、神武天皇が実在していたかのような、思い込みが蔓延している。多くの古代研究の学者たちは初代から9代までの天皇の実在を疑っている。
「○○天皇は実在しなかった」という論文を発表して、書物をだした学者は、(戦前においては)逮捕され、刑務所に入れられている。「不敬罪」という罪だったようだ。
現在、そういう考えを発表しようが、本を出そうが、逮捕される時代ではない。いい時代になったともいえる。(ちなみに、このブログ内容にしても、戦前だったら、逮捕理由になったであろう。)
「古事記」は話としてはおもしろい。神話・伝説として読む分には、ストーリー性があり、おもしろい。
しかし、事実であるがごとく、国民を洗脳してきたことはよくない。これは日本書紀についてもいえるであろう。
日本書記は「歴史書」的だが、事実を書いているとは思えないようだ。私は日本書紀をしっかり読む力はない。日本書記をしっかり読む力のある人(学者)の解説によると、いろいろ別の記録を並べているとのことである。Aという記録を書いておいて、BやCという話もあるという書き方をしているらしい。何が歴史的事実であるかが、一見ぼかされることになる。それでいて、「大和朝廷が国家を統一した」という方向へ導かれることになるらしい。
日本書記については、全く素人なので、勝手なことを書いているのかもしれないが…。お許しを。
今、関心があるのは、日本書記において、「出雲王国」や「丹後王国」などがどのように取り上げられているかという点である。むしろ、日本書紀において、「出雲」や「丹後」の事実性や歴史的存在(重要性)は、ほとんど無視されているようだ。
「出雲の存在・話は単なる神話、伝説であって、事実ではない」というふうに、無視されているらしい。
ところがどっこい。島根県や鳥取県で、弥生時代や古墳時代の遺跡が(近年)どんどん見つかり、発掘されてきている。出雲や丹後を「歴史的に存在しない」という考えで無視してきた学者たちは、大慌てらしい。(自分の学説が怪しくなるからだろう。)
大和朝廷中心史観の学者たちは、その世界においてエリートコースらしい。宮内庁のお気に入り学者たちだから。それがぐらついてくると・・・、さて?
島根県や鳥取県などの遺跡発掘によって、歴史的事実の証明となるものがザクザクと出てきているのだ。(まだまだ発掘は続くだろう。)
山陰地方は道路建設・ゴルフ場開発・福祉施設建設などによって、やっといろいろ遺跡が見つかり始めた段階である。太平洋側はいろいろ工事がすでに行われてきたが、日本海側は遅くなっていたようだ。
弥生時代は九州北部と山陰地方こそ、日本の文化の中心だったようだ。そのことの証明遺跡が見つかっているのだ。まだまだ今後100年ぐらいは、「大発見」となるニュースが続くであろう。(もっとも、私はあの世に行っているだろうが・・・)
さて、今後100年以上かかるかもしれないが、「古代の事実」が正しく認識される時代が来るだろう。
記紀に書かれている内容を完全に信ずることは、認識を間違った方向へ導かれることになるだろう。だから、日本書記中心の歴史観だけでは、歴史の真実は認識できない。
(と、最近は自覚するようになった。)
最近、日本海沿いを旅することが楽しくなってきました。
(私が生まれた)能登半島も歴史的に興味ある半島ですね。
もうすぐ改元(次期天皇は126代天皇)されるが、初代天皇が「神武天皇」という思い込みにしても、いつの間にか、神武天皇が実在していたかのような、思い込みが蔓延している。多くの古代研究の学者たちは初代から9代までの天皇の実在を疑っている。
「○○天皇は実在しなかった」という論文を発表して、書物をだした学者は、(戦前においては)逮捕され、刑務所に入れられている。「不敬罪」という罪だったようだ。
現在、そういう考えを発表しようが、本を出そうが、逮捕される時代ではない。いい時代になったともいえる。(ちなみに、このブログ内容にしても、戦前だったら、逮捕理由になったであろう。)
「古事記」は話としてはおもしろい。神話・伝説として読む分には、ストーリー性があり、おもしろい。
しかし、事実であるがごとく、国民を洗脳してきたことはよくない。これは日本書紀についてもいえるであろう。
日本書記は「歴史書」的だが、事実を書いているとは思えないようだ。私は日本書紀をしっかり読む力はない。日本書記をしっかり読む力のある人(学者)の解説によると、いろいろ別の記録を並べているとのことである。Aという記録を書いておいて、BやCという話もあるという書き方をしているらしい。何が歴史的事実であるかが、一見ぼかされることになる。それでいて、「大和朝廷が国家を統一した」という方向へ導かれることになるらしい。
日本書記については、全く素人なので、勝手なことを書いているのかもしれないが…。お許しを。
今、関心があるのは、日本書記において、「出雲王国」や「丹後王国」などがどのように取り上げられているかという点である。むしろ、日本書紀において、「出雲」や「丹後」の事実性や歴史的存在(重要性)は、ほとんど無視されているようだ。
「出雲の存在・話は単なる神話、伝説であって、事実ではない」というふうに、無視されているらしい。
ところがどっこい。島根県や鳥取県で、弥生時代や古墳時代の遺跡が(近年)どんどん見つかり、発掘されてきている。出雲や丹後を「歴史的に存在しない」という考えで無視してきた学者たちは、大慌てらしい。(自分の学説が怪しくなるからだろう。)
大和朝廷中心史観の学者たちは、その世界においてエリートコースらしい。宮内庁のお気に入り学者たちだから。それがぐらついてくると・・・、さて?
島根県や鳥取県などの遺跡発掘によって、歴史的事実の証明となるものがザクザクと出てきているのだ。(まだまだ発掘は続くだろう。)
山陰地方は道路建設・ゴルフ場開発・福祉施設建設などによって、やっといろいろ遺跡が見つかり始めた段階である。太平洋側はいろいろ工事がすでに行われてきたが、日本海側は遅くなっていたようだ。
弥生時代は九州北部と山陰地方こそ、日本の文化の中心だったようだ。そのことの証明遺跡が見つかっているのだ。まだまだ今後100年ぐらいは、「大発見」となるニュースが続くであろう。(もっとも、私はあの世に行っているだろうが・・・)
さて、今後100年以上かかるかもしれないが、「古代の事実」が正しく認識される時代が来るだろう。
記紀に書かれている内容を完全に信ずることは、認識を間違った方向へ導かれることになるだろう。だから、日本書記中心の歴史観だけでは、歴史の真実は認識できない。
(と、最近は自覚するようになった。)
最近、日本海沿いを旅することが楽しくなってきました。
(私が生まれた)能登半島も歴史的に興味ある半島ですね。
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2019/2/14
「大阪歴史博物館 特別展(つづき)」 古代への好奇心
*2月3日のブログ「大阪歴史博物館 特別展」は、中断したままになっていました。
その続きです。
なぜ、弥生時代・古墳時代の船(の一部)は、ワニが口を開けた形のへさきになっているのか? 学芸員の方に、その疑問を質問してみたかった。
私自身、私なりに推測はしているのだが、学芸員の方の意見を聞いてみたかった。何分、古代のことは断定しにくいことだらけだから。
(ここから、続きです)
私の質問のしかたが悪かったのかもしれないが・・・。学芸員の方の答えは、端的にまとめると、「船の竜骨(キール)」の役目をしているとの説明でした。説明を聞いていた見学の方々も、「キールだキールだ」と声を出しながら、納得している反応でした。
竜骨(りゅうこつ)とは、「船底の中心を、船首から船尾へ貫く主要部材で、船の背骨となるもの」で、英語で「keel キール」と呼ばれる。
船の構造においては、船底=竜骨(キール)で間違いはないのですが・・・。私は聞きたかったことは、船底についてではなく、船首の形の違いの原因・目的についてだったのです。
「ワニが口を開けている船首の船」と「先が閉じている一般的な船首」の船がある。その違いはなぜなのか? (それらの船の違いはどういう理由・目的で生じているのか?)
この日担当の学芸員の方は、船に関することは詳しくないので…とおっしゃっていた。私の疑問は晴れることなく、満足することなく、時間切れとなってしまった。
私が疑問に思っている点についての説明はなかった。 古代の船において、船首の形の違いは、なぜ生じたのか? という点を知りたかった。
私の推測は…
ワニが口を開けているような船首の船は、船の底が頑丈で分厚い。船底がしっかりしているので岩や石などにこすっても壊れにくい。難点は重い船になリ、スピードは出ない点である。それに対して、船底が薄く作られている船は軽量なので、スピードが出る。
それゆえ、「ワニ口船」は底が分厚く、重い荷物を乗せても壊れなくて、船を荷物を載せたまま陸地を曳いて移動させることができた、と推測する。
水上だけを航行させるだけの船ならば、底板は薄くていいが、陸上を曳いて移動させるには薄底板では壊れやすい。
古代(弥生時代・古墳時代)において一番重要な運搬物は、鉄材であった。
日本海側から琵琶湖方面へ、日本海側から瀬戸内海方面へ、船を荷物を乗せたまま運ぶには「ワニ口船」=(船底が分厚い船)が必要だったに違いない。
船が海や川から上がり、ロープなどで曳かれて陸上を移動している「古代における記録」も残されている。日本海から中国山地を越えて瀬戸内海に至る古代の船のルートも、4ルートほど推定されており、ネットの情報でも紹介されている。
私の推測は、長野正孝氏(船舶や港建設に関する専門家)の影響が大きい。古事記や日本書紀などに引きずられて、考え方が自由でなくなっている学者たちや宮内庁中心の歴史観から脱して、古代への好奇心・関心を深めていこうと思っている。
「新しい遺跡発見!」が、日本政府中心の歴史観によって生活しがちな現状から、物事を幅広く考えることができる機会になるだろう。
出雲王国・丹後王国・吉備王国・敦賀王国などの王国の歴史が、・・・「大和王国(朝廷)」と対比・関係づけてみることは楽しい。
まとめになっていないですが、以上です。
その続きです。
なぜ、弥生時代・古墳時代の船(の一部)は、ワニが口を開けた形のへさきになっているのか? 学芸員の方に、その疑問を質問してみたかった。
私自身、私なりに推測はしているのだが、学芸員の方の意見を聞いてみたかった。何分、古代のことは断定しにくいことだらけだから。
(ここから、続きです)
私の質問のしかたが悪かったのかもしれないが・・・。学芸員の方の答えは、端的にまとめると、「船の竜骨(キール)」の役目をしているとの説明でした。説明を聞いていた見学の方々も、「キールだキールだ」と声を出しながら、納得している反応でした。
竜骨(りゅうこつ)とは、「船底の中心を、船首から船尾へ貫く主要部材で、船の背骨となるもの」で、英語で「keel キール」と呼ばれる。
船の構造においては、船底=竜骨(キール)で間違いはないのですが・・・。私は聞きたかったことは、船底についてではなく、船首の形の違いの原因・目的についてだったのです。
「ワニが口を開けている船首の船」と「先が閉じている一般的な船首」の船がある。その違いはなぜなのか? (それらの船の違いはどういう理由・目的で生じているのか?)
この日担当の学芸員の方は、船に関することは詳しくないので…とおっしゃっていた。私の疑問は晴れることなく、満足することなく、時間切れとなってしまった。
私が疑問に思っている点についての説明はなかった。 古代の船において、船首の形の違いは、なぜ生じたのか? という点を知りたかった。
私の推測は…
ワニが口を開けているような船首の船は、船の底が頑丈で分厚い。船底がしっかりしているので岩や石などにこすっても壊れにくい。難点は重い船になリ、スピードは出ない点である。それに対して、船底が薄く作られている船は軽量なので、スピードが出る。
それゆえ、「ワニ口船」は底が分厚く、重い荷物を乗せても壊れなくて、船を荷物を載せたまま陸地を曳いて移動させることができた、と推測する。
水上だけを航行させるだけの船ならば、底板は薄くていいが、陸上を曳いて移動させるには薄底板では壊れやすい。
古代(弥生時代・古墳時代)において一番重要な運搬物は、鉄材であった。
日本海側から琵琶湖方面へ、日本海側から瀬戸内海方面へ、船を荷物を乗せたまま運ぶには「ワニ口船」=(船底が分厚い船)が必要だったに違いない。
船が海や川から上がり、ロープなどで曳かれて陸上を移動している「古代における記録」も残されている。日本海から中国山地を越えて瀬戸内海に至る古代の船のルートも、4ルートほど推定されており、ネットの情報でも紹介されている。
私の推測は、長野正孝氏(船舶や港建設に関する専門家)の影響が大きい。古事記や日本書紀などに引きずられて、考え方が自由でなくなっている学者たちや宮内庁中心の歴史観から脱して、古代への好奇心・関心を深めていこうと思っている。
「新しい遺跡発見!」が、日本政府中心の歴史観によって生活しがちな現状から、物事を幅広く考えることができる機会になるだろう。
出雲王国・丹後王国・吉備王国・敦賀王国などの王国の歴史が、・・・「大和王国(朝廷)」と対比・関係づけてみることは楽しい。
まとめになっていないですが、以上です。